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史跡「義時法華堂」の疑問点について

義時の法華堂について

 北条義時の墳墓堂である「法華堂」は、現在の鎌倉市西御門、頼朝墓の東側の平場に建てられていたとされ、頼朝法華堂跡とともに史跡指定されている。その発掘調査の結果、平場には九、十、九尺の桁行三間、梁間三間、28尺(8.4m)四方、大床までは36尺(10.9m)、軒の出は41尺(12.4m)四方の三間堂の礎石が出土した。これは、『吾妻鏡』の貞応3(1224)年6月18日条に「戌剋、前奥州禅門葬送、以故右大将家法華堂東山上、為墳墓葬礼事」とあることから、頼朝墓の東で発掘されたこの大きな三間堂を以って義時法華堂跡に指定したのである。

義時法華堂跡2

 しかし、この指定判断は果たして妥当なのだろうか。

 義時の法華堂については、前述のように「故右大将家法華堂東山上」という、相対的位置のみが記されているため、義時法華堂と確定するには、頼朝法華堂の場所が確定されなければならないのである。そして、その法華堂があった場所とされているのが、「頼朝墓」である。

 中世の法華堂は滅罪の目的を以て、貴人の墳墓堂そのものとして用いられることも多く、頼朝の「右大将家法華堂」もそうした捉え方をされている。現在の「頼朝墓」を法華堂としているのは、頼朝墓のある場所はもともと頼朝持仏堂たる観音堂があった場所であるが、観音堂が頼朝死後に法華堂に変わった「だろう」という導き方によるものである。しかし、頼朝の持仏堂が法華堂に変わったという記述はどこにもない(観音菩薩を祀る観音堂を、堂主の死後、観音像を除けて法華堂に転換する例があるのか筆者はわからない)。

 この定義も位置もあやふやな「(観音堂転換)法華堂」を位置の起点とし、頼朝墓所の東側平場から発掘された方三間の建物跡を「故右大将家法華堂東山上」の「義時法華堂」と断定してしまうのは、やや短絡的にすぎないか。

義時法華堂跡1

 では、義時法華堂の西側にあった「右大将家法華堂」はどういったものだったのだろう。現在ではその痕跡はまったく遺されていないため、文献から導き出すほかはないのが実情である。しかし、『吾妻鏡』には意外に多くの情報が記されている。

●「法華堂」の形態や場所
 『吾妻鏡』に見える「法華堂」を考察すると、寺院としての「法華堂」と、ひとつの堂としての「法華堂」の二つの使われ方をしていることがわかる。

 はじめて頼朝の「法華堂」が『吾妻鏡』に現れるのが、正治2(1200)年正月13日、頼朝の忌日に際して「於彼法華堂、被修仏事」されている記述である。これは頼朝の一年忌日に催された仏事であり、「北條殿以下、諸大名群参し、市を成す、仏は絵像釈迦三尊一鋪、阿字一鋪〈御台所御除髪を以てこれを縫い奉らる〉、経は金字法華経六部、摺写五部大乗経、導師は葉上房律師栄西、請僧十二口」という盛大なものであった。 このときにはこの外に百僧供も行われている。 この「法華堂」は寺院としての法華堂とも堂宇としての法華堂ともとれる。

 「法華堂」は、寛元5(1247)年6月5日条の三浦合戦によると、戦に敗れた三浦泰村は徹底抗戦を主張して「鉄壁の城郭」たる永福寺に籠る弟の光村を窘め「故将軍御影の御前に於いて終わりを取らんと欲す、早く此処に来会すべしと、専使互いに一両度たりと雖も、縡火急の間、光村寺門を出て法華堂に向かう、…光村終に件の堂に参る、然る後、西阿、泰村、光村、家村、資村並びに大隅前司重隆、美作前司時綱、甲斐前司実章、関左衛門尉政泰以下、絵像の御影の御前に列候す…、左親衛の軍兵寺門に攻め入り、石橋を競い登る、三浦の壮士等、防戦し弓剣の芸を竭す、…両方の挑戦は殆ど三刻を経るなり、敵軍箭窮まり力尽く、而るを泰村以下宗たるの輩二百七十六人、都合五百余人自殺せしむ、この中幕府番帳に聴さるるの類二百六十人と」とある。

彼らの自害の体は、6月8日条に「今日法華堂の承仕法師一人を召し出さる、これ昨日香花を備えんが為仏前に陪するの処、泰村以下大軍、俄に堂内に乱入するの間、遁れ出んと欲するに方角を失い、天井に昇る、彼等面々の言談を聞くの由上聴に達するが故なり」という法師の証言で明らかになっている。その言葉によれば、「天井の隙を窺うの処、若狭前司泰村以下の大名は、兼ねてその面を見知るの間、子細無し、その外多く以て知らざるの類なり、次いで申す詞の事、人毎の事に於いては、堂中鼓騒の上、末席の言談等聞き及ぶに能わず、而るに宗たるの仁、一期の終わりと称し日来の妄念を語る…、(光村)自ら刀を取りて吾顔を削る、猶見知らるべきや否や人々に問ふ、その流血御影を穢し奉る、剰え仏閣を焼失せしめ、自殺の穢躰を隠すべきの由結構す、両事共不忠至極たるべきの旨、泰村頻りに制止を加えるの間、火災に能わず、凡そ泰村事に於いて穏便の気有り…、件の承仕法師に至りては本所に返し遣はさる、この外承仕一人は、去る五日本堂内を避けざるに依って、大床下に奔り入るの間、歩兵等の為に首を取らるるの由、七旬の母老尼悲哭す…。」というものであった。

 以上から、堂宇としての「法華堂」には頼朝の御影の「絵像」が懸けられ祀られており、仏像が置かれていた形跡はない。正治2(1200)年正月13日の頼朝一年忌日に催された「於彼法華堂、被修仏事」でも、「北條殿以下、諸大名群参し市を成す、仏は絵像釈迦三尊一鋪、阿字一鋪〈御台所御除髪を以てこれを縫い奉らる〉、経は金字法華経六部、摺写五部大乗経」とあり、絵像の釈迦三尊と御台所の髪で縫い取った阿字の掛物を仏として、法華経や五部大乗経で頼朝の供養を執り行っていることがわかる。堂宇としての法華堂には、普段から頼朝絵像が懸けられ、供養時には仏画が懸けられて仏事が行われたと推測される。つまり「法華堂」には仏像(頼朝持仏の正観音像)は置かれていなかったと推測される。

 そして、堂宇の大きさとしては、正治2(1200)年正月13日の頼朝周忌に際して百僧供が行われており、百人規模の人が入ることができる建物だったことがわかる。また、寛元5(1247)年6月5日の宝治合戦に際して、泰村以下九名が「法華堂」に籠って自害しているが、6月21日条では法華堂内で自害した人々の幼い子息や兄弟も「自殺討死等」の列に記載されており、堂内にはさらに多くの人数がいた可能性があろう。 また、泰村等が法華堂に来る直前、法華堂に承仕する法師が日課の香華を手向けていたが、泰村等が堂内に乱入した際に、慌てて出口を見失い、天井に逃れている。人が入ってきてもその姿が見えない場所があり、柱などをよじ登って天井の梁に隠れることができたことがわかる。これは絵像を懸ける場所の裏側にスペースがあったのかもしれない。さらに別の法師は「大床下」へ遁れたものの三浦方の兵に殺害されたことが記されており、法華堂には大床(堂の周囲を囲む庇下の回廊)がめぐらされていたことがわかる。このように、本堂である「法華堂」は、大きな造作の建物であったことがうかがえる。

 そして、三浦方の大半は寺院としての法華堂に立て籠もって戦い、結果として泰村以下主だった者だけで二百七十六人、都合五百余人が自殺したという。すべてが法華堂境内で戦ったわけではないと思われるが、境内地も広大だったと推測される。

 また、堂宇「法華堂」は、北条勢が「石橋(石階段)」を競い上って三浦勢と戦っていることから、高台にあったことがわかる。 建暦3(1213)年5月2日には、和田合戦に際して御所が放火により燃えたため、将軍実朝らが「右大将軍家法華堂」へ移っているが、高台にあるため将軍家の避難場所としても機能したのだろう。

 元仁2(1225)年10月19日条にも、御所再建の場所について陰陽師へ諮問したことにつき、「右大将家法華堂下の御所の地、四神相応最上の地なり、何ぞ他所に移せらるべきや、然ば彼の御所西方の地を広められ、御造作有るべきものなり」と述べており、「右大将家法華堂」は建物としての法華堂であり、高台にあったことが記されている。その下に武家政庁としての御所があり、御所西方には広げることが可能な地があったことがわかる。

 翌10月20日に御所再建地について、前日とは真逆の答申があり、「珍誉法眼申して云く、法華堂前の御地然るべからざるの所なり、西方岳有り、その上右幕下の御廟を安んず、その親墓高くしてその下に居すは子孫無きの由本文に見ゆ、幕下の御子孫御座ず」とある。この「法華堂」は前日の「右大将家法華堂」と同意とみられ、建物としての法華堂であるが、法華堂の西方には丘があり、その上に「右幕下の御廟」があったと記される。

頼朝墓
頼朝観音堂=廟所跡か

 また、建暦3(1213)年3月10日条によれば、「戌刻、故右大将家法華堂後山に光物有り」という。そして寛元5(1247)年6月9日条にも「武蔵国に於いて、左衛門尉景頼、金持次郎左衛門尉を生虜らしめ、将て参る、これ泰村に与力せしめ、去五日、法華堂に籠もり合戦を致す。俄に約諾を改変し逐電す、時に赤威鎧を着し、鴾毛馬に駕す〈一人甲冑、郎従一人、両馬たり〉、彼の寺の後山の嶮岨に挙登る」とあり、堂塔としての法華堂の後背地は「後山」があり、寺院としての「法華堂」の後背地の後山と同意であろう。法華堂の後山は険阻な崖になっていたのである。

 寺院としての法華堂には、施設がいくつかあり、高台に本堂の右大将家法華堂、その西の丘上には頼朝廟所(観音堂であろう)があったが、さらに、建仁4(1204)年9月13日には「法華堂御仏事」ののち、夕方秉燭のころに、「盗人別当大学坊に入り、先考の御遺物重宝等を盗み取る」っており、「別当尊範」が居住する「別当大学坊」が置かれていた。この別当坊には頼朝の遺物が保管されていた。 このほか湯屋もあった。

 さらに、寛喜4(1232)年4月9日条には「法華堂西の護摩堂、去年十月二十五日焼亡の時回禄しをはんぬ、而に御台所の御願として造らるべしと、仍って今日政所に於いて信濃民部大夫入道行然の奉行とし、件の堂、御所より何方に当たるやの由その沙汰有り、陰陽師泰貞、晴賢、宣賢を遣わし方角を糺さる、夜に入り明火、御所と法華堂とを往反す、両方これを窺い見る、丑方の分たるの由各々言上す」と、護摩堂もあったことがわかる。この護摩堂は「法華堂西の護摩堂」とあることから、建物としての法華堂と護摩堂で対比していると考えられる。その護摩堂は、法華堂の西かつ御所から見て丑(北北東)に位置していた。 現在の白幡神社付近となるか。

 「法華堂」は頼朝亡き後に造営されたと解されているが、『吾妻鏡』の貞永2(1233)年正月13日条によれば、右大将家の忌日につき、北条泰時が法華堂に参詣した際、「彼の砌に到り、御敷皮を堂下に布き坐し給う、御念誦刻を移す、この間別当尊範参会せしめ、御堂上り有るべきの由頻りにこれを申すと雖も、御在世の時、左右無く堂上に参らず、薨御の今、何ぞ礼を忘れんやの由仰せらる、遂に庭上より帰らしめ給う」ということから、頼朝在世時にすでに建立されていたと考えることもできる。ただし、この「堂上」とは御所の堂上と解せることから、確定事項にはならない。

 以上の事から、寺院としての法華堂は御所の北側に位置し、境内地は広かったことから、東西に広がっていたと思われる。その範囲は不明だが、御所の東西域とほぼ一致し、後述の頼朝廟所を含むことから御所の後山を囲む形で形成されていたと思われる。そして、肝心の「右大将家法華堂」は、

①御所の北の寺院法華堂の中の本堂とみられる
②石段を登る高台上にある
③後背地が急崖
④西の丘の上に頼朝廟所がある
⑤百僧供を行える大きさ
⑥大床を備えている

という条件を集約して考えると、それが建てられていた場所や史跡痕は、まさに現在の義時法華堂に指定されているものに相当するのである。

 この地で発掘された方三間の堂跡は円覚寺舎利殿と同クラスの大きさであり、大床を含めれば約11m四方という建物である。すでに周囲は攪乱があるため、当時のものではない可能性はあるが、これだけの広大な平場を造成し、大堂を建立することができた人物は、右大臣家別当に過ぎない北条義時とは考えにくく、当時においては故頼朝を弔うためだからこそ成し得たものではなかろうか。

●「観音堂」は「法華堂」に変わったのか?
 現在、「頼朝墓」が建てられている場所は、文治5(1189)年7月18日、「伊豆山住侶専光房を召し、仰せて曰く、奥州征伐の為、潜かに立願有り、汝は持戒の浄侶也、留守に候し祈請を擬すべし、将又進発の後、二十箇日を計り、この亭の後山に於いて故に梵宇を草創すべし、年来の本尊正観音像を安置し奉らんが為也、別して工匠に仰すべからず、汝自ら柱ばかりを立て置くべし、営作に於いては以後沙汰有るべし」という指示のもと、8月8日に「今日早旦、鎌倉に於いて専光房、二品の芳契に任せ、御亭の後山に攀じ登り、梵宇の営作を始む、まず白地に仮柱四本を立て、観音堂の号を授く」という、頼朝持仏の正観音像を納める観音堂を建立したところと推測できる。

頼朝墓への階段
頼朝の墓所へ向かう階段。ここが専光房がよじ登った崖か。

 実際にその後、観音堂が建立された記録はないが、頼朝は観音堂造作については後日の沙汰としており、建立の意思が確認できるので後に建てられたことは間違いないだろう。しかしその後、『吾妻鏡』には「観音堂」の記述は一切出てくることはなく、「観音堂」が頼朝「法華堂」と同一のものとする記述もない。

 一方、頼朝「御廟」は、嘉禄元(1225)年10月20日条には、法華堂の「西方有岳、其上安右幕下御廟」とあることから、法華堂の西側にあった丘の上にあったことがわかる。法華堂は「観音堂」と同一の場所と推定できる。「観音堂」はあくまでも頼朝の私的な持仏堂であって、その死後は遺骨が安置(または埋納)された「御廟」となったとみられる。

 つまり「法華堂(法華三昧堂)」は、頼朝の滅罪と冥福を祈るための「法華堂」という寺院の本堂として建立されたものであり、本尊はなく日頃は頼朝の絵像を懸けて日々の供養を行っていた堂塔であろう。根本的に廟所である元「観音堂」とは役割が異なっており、「法華堂」とはまったく別の建物であると考えられる。

 現在 「頼朝墓」の左右は東西にかなり広い平場となっているが、とくに西側は土砂が流され、土地が低くなっている。

頼朝墓2
頼朝墓所東脇の平場。以前はお店があった。

北条義時の法華堂について
 では、現在義時法華堂跡として史跡に指定されている平場が右大将家法華堂の跡であるとすれば、貞応3(1224)年6月18日条の「戌刻、前奥州禅門葬送す、故右大将家法華堂の東の山上を以て墳墓と為す」とあるのは、どこを指しているのだろうか。

 義時法華堂は寺院としての法華堂では範囲が広く、かつ法華堂という単体の建物との対比なので、頼朝の法華三昧堂から見た東の山上となるだろう。具体的には谷津を挟んだ対岸の山(南端に荏柄天神を祀る舌状台地)の西面の何処かに平場を造作して建立されたのではなかろうか。そもそも、二位家(御台所政子)及び右大臣実朝も右大将家法華堂とは別に法華堂が造られている(両法華堂)ような価値観の中、故頼朝の後生を祈る神聖な寺中、しかも右大将家廟所傍に、右大臣家別当とはいえ家子層に過ぎない人物の法華堂を祀ることなど、当時の観念からしてあり得ないのではなかろうか。

※足利義詮は「鎌倉右大臣家二位家両法華堂別当職事」を三宝院僧正に安堵(観応二年十一月二日『三宝院文書』)しているが、実朝は建保7(1219)年正月28日に「将軍家奉葬于勝長寿院之傍」とあり、法華堂もまた埋葬場所の「勝長寿院之旁(本堂たる勝長寿院か)」に置かれたのではなかろうか。
なお、二位家(御台所政子)の埋葬場所はわからず、その法華堂場所もまた不明だが、実朝と尼御台の「両法華堂供僧職」を「大御堂被官」の「淡路阿闍梨良助」が請けており(応永二十四年六月十九日「阿闍梨良助請文」『醍醐寺文書』)、尼御台所の法華堂も実朝の法華堂と並んで勝長寿院境内地または付近に営まれていた可能性が高い(頼朝法華堂と義時法華堂は「并」で繋げられる場合はあるが、「両法華堂」とは称されない)。

 世界遺産の兼ね合いもあっただろうが、義時法華堂を当該地に史跡指定してしまったのは、時期尚早だったのではなかろうか。

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 北条義時

12/28のツイートまとめ

chibashi4

令和2年10月22日 更新記録に追記 https://t.co/8cDc1xIz12
12-28 02:03

義朝が京都から関東へ下向した時期や理由の考察

 ~義朝が京都から関東へ下向した時期や理由の考察~
 
■義朝の下向は後ろ向きな理由ではなく、為義の東国経営のため

 ① 義朝嫡子の義平が「称御母人」として慕ったのが秩父氏当主の秩父重綱の妻であり、幼少時から秩父氏に養育されていた。
 ② ①から、義平実母は早くに亡くなっていると推測される。
 ③ 義平誕生は永治元(1141)年と推定される。
 ④ 幼児を伴っての東国下向は考えにくい。
 ⑤ 義平実母は橋本宿遊女とされる。
 以上の事から、義朝は東国下向の際に橋本宿遊女を伴って秩父重綱のもとへ至り、ここで義平が誕生。しかし、実母の橋本宿遊女は早世し、秩父重綱妻が守育てたと思われる。つまり、義朝の東国下向は遅くとも保延6(1140)年と考えられる。そして、義朝や義平を庇護した秩父重綱は以前より源家との関わりがあったと推測できることから、為義被官人であったと思われる。これは祖の武基、武綱以来の源家との紐帯が続いていたことを意味するものであろう。

 相馬御厨介入の前年、永治2(1142)年に上野国緑野郡高山御厨が成立(再寄進と思われる)するが、これに関する「起請寄文」を皇大神宮に奉じたのは「故左馬頭家」であった。つまり、義朝は永治2(1142)年までは武蔵国にあり、高山御厨の管理は重綱三男・三郎重遠にゆだねたと考えられる。なお、重綱の館は、秩父氏の氏寺と思われる平澤寺近くで交通の要衝であった菅谷あたりであろうか。のちに畠山重忠が館を構えたのはその由緒によるものか。

 その翌年の康治2(1143)年には上総国へ移り、今度は上総権介常澄と繋がって、平常重が下司職を有していた下総国相馬郡御厨の再寄進を目論んだ。これは常澄の「浮事」を利用したものであるが、両総平氏を源家被官人として改めて再構成する目的のものと考えられる。そして義朝は相馬御厨を「掠領」するも、再寄進することなく、翌年の天養元(1144)年には「称伝得字鎌倉之楯、令居住之間」とあるように上総国を離れて鎌倉に居住している。なお、常澄の九男・九郎常清が相馬氏を称しているのは、このときに義朝代官として相馬郡に入部したためかもしれない。

 そして、天養元(1144)年9月、義朝は相模国の在庁らを率い、大庭御厨は鎌倉郡内と称して大庭御厨に乱入。伊勢神官末流の荒木田彦松の頭を割ったり御厨下司の大庭景宗の屋敷を破壊するなどの狼藉をはたらいた。そのため、義朝は朝廷から譴責の対象となり、朝廷から相模国司へ義朝の濫妨停止の宣旨が下される。その後、義朝は上洛したとみられるが、皇大神宮の神威を恐れた義朝は翌天養2(1145)年3月11日、在京中に相馬御厨を神宮へ寄進したと思われる。大庭御厨に対しての狼藉行為は義朝にとって得るものはなく、最大の目的は、義家郎従の鎌倉景正末裔である大庭氏の再編入化にあったと考えられる。

 義朝の東国下向の最大の目的は、京都で院の信頼を失った為義が摂関家に近づくに当たり、その最大の強みである「武士」としての警衛力を固めるため、武蔵国、上総国、下総国、相模国の将軍頼義、陸奥守義家以来の被官層の再構築を行う事であったと考えられる。義朝は足掛け四年余りでこれらを完了させて上洛を果たしているように、為義が嫡子義朝を東国へ下したのは、その力量を見込んでのものであって、決して「廃嫡」という後ろ向きな理由ではない。次弟の義賢が東宮躰仁親王の帯刀先生となり、官途の上で義朝を抜いたのも、義朝が留守の間も源家の地位向上を目指す為義の運動工作によるものであろう。

 のち義賢が関東に下ったのは、為義の命によって東山道の要衝を抑えることが最大の理由であって、義平との対立のためではないだろう。義賢と義平の対立は、重綱の後継者となった秩父重隆が、義平を擁する甥・畠山庄司重能(義平乳母の孫であろう)と、義平舅の新田義重からの圧力に対抗するために、上野国多胡から招聘して女婿とし、みずからの居館である菅谷館からほど近い大蔵の高台に住まわせたと考えるのが自然だろう。そして久寿2(1155)年8月16日、義平は義賢を大蔵館に攻めて討つこととなるが、これは義平と義賢の対立から生じたものではなく、秩父氏内の争いが発端であったと考えられる。

九条兼実と源頼朝は終生疎遠ではなかった等(令和2年10月22日更新記録の一部追加)

●「千葉介」の千葉介常胤を全面改訂
千葉介常胤の項目については、常胤に直接関係はないが、当時の一連の社会情勢も鑑みて『玉葉』などの日記からも京都の情勢を取り上げ追記し、全面改訂した。

●「千葉氏その他の疑問」に「甚乏少、為之如何」と「万ヲボツカナシ」の誤解~頼朝と兼実の関係~を追加
『玉葉』『愚管抄』などを読んでみると、中世史のいわゆる「通説」にふと疑問がわく。そのひとつが九条兼実と頼朝の離合である。頼朝は後白河院との関係から兼実と結ぶも険悪化。その後、頼朝は兼実の政敵通親と組んで大姫入内工作を目論むが、今度は通親が頼朝を裏切って自らの養女を入内させてしまい、頼朝は大姫の死もあって入内の悲願叶わず、自らも死を迎え、その病床で兼実に詫びの手紙を書く、といったような説が通説としてある。どうしてそのような解釈となるのか、根本的な誤読・誤訳と思われる二点を取り上げてみた。いずれも頼朝二度目の上洛の際のエピソードである。

①「甚乏少、為之如何」の誤読
 建久6(1195)年3月30日、頼朝は御所内で兼実と対面し(『吾妻鏡』『玉葉』建久六年三月卅日条)、兼実は「謁頼朝卿、談雑事」(『玉葉』建久六年三月卅日条)と雑事を談じたとある。そして翌4月1日、頼朝は兼実へ「頼朝卿送馬二疋」ったが、これに対し兼実は「甚乏少、為之如何」(『玉葉』建久六年四月一日条)と述べる。通説では、頼朝が兼実には馬二頭しか献上せず、兼実も「甚乏少、為之如何」という感想を述べていることに対して、頼朝の冷遇または兼実の傲慢として捉えられているが、これは頼朝の「冷遇」なのだろうか。
 「為之如何」の意をそのまま読めば、「これを為すのにどうしたらよいのか」という困惑以外にはなく、それは頼朝が送ってきた馬の頭数がわずかに二頭であり、この二頭でどうやって用事(何らかの雑事であろう)を行えばよいのか、という意味となろう。想像するに前日の面会での雑事についての話の中で、兼実は頼朝に馬の提供を求め、頼朝も快諾したと思われる。しかし具体的な頭数の話はなかったため、このような行き違いが発生したのだろう。この日以降『玉葉』の日記はないため、この結末がどうなったのかはわからない。
 このような単純なメモ程度の日記が、なぜ頼朝の冷遇の根拠とされたのか。それはおそらく「如何」と「何如」の誤訳であろう。「何如」であれば「甚乏少、為之何如」は「馬二頭しか送ってよこさず甚だ少ないが、どういったことだ」と読めなくもないので、この誤読を以て、頼朝の冷遇と兼実の傲慢な態度へつながってしまったことも想像できる。

②「万ヲボツカナシ」の誤訳
 頼朝は二度目の上洛に際しては、「内裏ニテ又度々殿下見参シツゝアリケリ、コノ度ハ万ヲボツカナクヤアリケム」(『愚管抄』第六)という。通説では、「頼朝は兼実と内裏で度々面会するも、まったく素っ気ないものであった」というものである。実際そうなのであろうか。この点については「ヲボツカナ(シ)」の単純誤訳に基づくものである。「ヲボツカナ(シ)」とは、不審な様や明瞭ではない様を表すが、一方で、会いたくて待ちわびるという意味がある。前文から考えてもこの場合の「ヲボツカナ(シ)」は、明らかに後者であろう。前回上洛時には頼朝は兼実に、「後白河院に配慮して、表向き疎遠を演じるが、実際はまったく疎遠には思っていない」と告げているように、頼朝と兼実は接触を控えている。しかし、今回の上洛では後白河院もすでに崩じ憚るところはなかったのである。そのため慈円は前回の上洛と今回の上洛を比較して「コノ度ハ万ヲボツカナクヤアリケム」と述べているのである。これを否定的に「素っ気ない」等と誤訳してしまったものが、現在でも通説として用いられているとみられる。

 近年の頼朝と兼実の関係を否定的にとらえる大きなベースが、上記の二つであろう。

 以上のことから、実際の兼実と頼朝との関係は、
①後鳥羽天皇が「殿下、鎌倉ノ将軍仰セ合セツゝ世ノ政ハアリケリ」(『愚管抄』第六)とあるように、天皇は兼実、頼朝と朝務に関する情報や問題点を共有していた。
②頼朝は、兼実が関白を辞する直前まで兼実と政務に関して条々を交わし続けていた(最後の返信が兼実に届いたのは、関白が基通へ移った後であった)。
③兼実が関白を辞したのちも、頼朝は中宮(兼実娘)の再入内を考えていた。
④頼朝が死の間際に兼実へ宛てた「今年心シヅカニノボリテ、世ノ事沙汰セント思ヒタリケリ、万ノ事存ノ外ニ候」という手紙を送達している。

以上のことから見ても、頼朝と兼実の関係は一貫して良好なままであったことがわかる。こうした兼実と頼朝との関係は当然その跡を引きついだ人々へも継承され、九條家からの鎌倉殿頼経誕生へとつながっていったと考えられる

●そのほか思ったことを本文でも記載しています(通説とは異なる部分があると思われます)。

①頼朝が権大納言、右大将の任官後すぐに辞任し帰途につく
 後白河院が頼朝へ権大納言及び右大将任官を強要し、頼朝が已む無く受けるも即辞任して鎌倉へ帰還する行の解釈として、院が頼朝を大臣(任大臣の要件は原則として大納言及び近衛大将の任官が必須のため、院は両官を頼朝へ強要した)として京常駐を目論む(治安維持及び自らの安保のためか)が、官途による束縛および勲功賞を受けないという一貫したポリシーから両官を辞して帰途についたと考える。頼朝が家人郎従等に対して京都の顕官を認めることを渋ったのも、こうした頼朝の考え方に準じたものだろう。なお、近衛大将は後先にも決して武家の棟梁たる証ではなく、公卿が任大臣のために必要な一過程に過ぎない。近衛大将も兼官となる馬寮御監も実質的な軍事指揮権はなく、一時的な名誉職である。

②安田義定、義資の誅殺
 これは甲斐源氏の勢力減退をねらったものと考えられている。しかし、『吾妻鏡』の記述を事実として捉えたとすれば、義資が女官に艶書を投書したという永福寺の新造薬師堂供養は、その時期から大姫の病気平癒祈願も含まれていた可能性が高いと考える。こうした性格の薬師堂供養において不埒な行いがあったとすれば、通常であれば許されるような罪科であっても許されなかった可能性はあったであろう。父の義定は義資殺害に当然ながら怒りを禁じえなかったであろうと思われ、頼朝または告口した梶原氏に対する意趣を含んだ可能性は十分考えられる。
 この頃は、安田氏が源氏勢力の一翼を担った頃とは情勢は大きく変わり、鎌倉家政所の支配下にある安田氏の影響力は相対的にかなり低かったことは間違いなく、頼朝が安田氏を危険視することは考えにくいと思われる。つまり、安田義定らの誅殺は彼らの権勢を恐れたものではなく、義資は祈願内容を弁えぬ不貞行為による刑死、義定は義資殺害に対する報復発覚による誅殺と考えられる。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当の葉月です今日のテーマは「あなたの好きなスポーツは?」ですいよいよ10月に入り、今年もあと二ヵ月となりましたねスポーツの秋なんて言われますが、皆様は好きなスポーツはありますか私はスポーツを見る方が好きなんですが、2019年のワールドカップ以降ラグビーを見ることにハマっていますかなりミーハーですけど、ワイルドなスポーツなのに礼儀正しい選手たちに感銘を受...
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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その七(比企氏)

●比企尼について

 久安3(1147)年に京都で誕生した源頼朝の乳母として登用されたのが、のちの比企尼となる女性でした。そして、この比企尼の娘「丹後内侍」が藤九郎盛長の妻となる女性とされていました。ただし、これまでの考察で見たように、比企尼の娘は源家に女房として仕えた「丹後局」で島津忠久の母となった女性であって、藤九郎盛長とは何ら関わりのない人物です。藤九郎盛長の妻は「丹後内侍」で、出自は不明ながらおそらく頼朝母の出身家・熱田大宮司家と何らかのかかわりを持っていた女性の可能性があります。

 永暦元(1160)年、頼朝が平治の乱の罪により伊豆に流された際、比企尼は「存忠節余、以武蔵国比企郡為請所、相具夫掃部允、掃部允下向、至治承四年秋、廿年之間、奉訪御世途、今当于御繁栄之期、於事就被酬彼奉公」(『吾妻鏡』寿永元年十月十七日条)と、「武蔵国比企郡」を「請所」とし、夫の掃部允とともに比企郡へ下向しました※1。そして、「掃部允」は治承四年秋までの二十年にわたって頼朝を援助し続けたとあります。このとき、比企郡を請所とした主体は「比企尼」であることから、比企郡は掃部允所縁の地ではなく、もともとは比企尼由縁の地であったことが想定されます。比企郡は在京国司に代わって国務を奉行した留守所の秩父氏が支配する一帯であり、比企尼はその支配を受ける郡司層(比企氏)の出身家だったのでしょう。娘の一人が秩父氏惣領家の河越太郎重頼の妻※2になっているのもそれを物語っています。

 頼朝誕生の前年「久安四年歳時戊辰二月廿九日」に、「當国大主散位平朝臣茲縄」が比企郡の平沢寺に経筒を埋納してますが、「茲縄」は留守所の秩父権守重綱のことで、自ら武蔵国大主と称するほどの権力を有していたことがわかります。そして、この重綱の妻(乳母御前)は頼朝の兄・源太義平の乳母で、義平からは「御母人」と慕われていました。義平は永治元(1141)年の生まれであり、頼朝の父・源義朝は、当時東国で重綱と深く交わり、その妻を義平乳母に起用したものと思われます。比企尼の起用も重綱所縁の女性を求めたためかもしれません。

●比企掃部允について

 比企尼の夫である「掃部允」とはいかなる人物だったのでしょう。『吉見系図』(『群書類従』所収)によれば「武州比企郡少領」と記されています。ところが「掃部允」は「六位侍任之」(『職原鈔 上』)という官職であって、仁平元(1151)年9月28日には橘景良が「皇嘉門院御給」によって「掃部允」となり、保元3(1158)年11月17日に中原基兼が「院当年御給」によって「掃部少允」となっています(永井晋編『官吏考証』続群書類従完成会 1998所収「保元三年秋除目大間」)
 このように、「掃部允」は中原氏、惟宗氏、橘氏などを出自とする侍品が就任する実務官でした。つまり比企尼の夫「掃部允」もおそらく在京の実務官僚家出身の可能性を考えるべきでしょう。掃部允某が「掃部允」だった時期については不明ですが、頼朝が伊豆に流された永暦元(1160)年までに掃部允の官職にあって、比企郡に下向以降は名乗りとして定着したものと思われます。

【参考】諸書に見える掃部允
・橘景良…仁平元(1151)年9月28日「掃部允」:皇嘉門院御給(『山塊記』除目部類)
・中原基兼…保元3(1158)年11月17日「掃部少允」:院当年御給(永井晋編『官吏考証』続群書類従完成会 1998所収「保元三年秋除目大間」)
・平景弘(佐伯景弘)…応保2(1162)年正月27日「掃部允」(『山塊記』除目部類)
 ※掃部属は同族の佐伯忠盛が任じられた

 比企郡に下った掃部允は、おそらく比企尼の出身家と思われる比企氏(比企郡司?)を継承し、比企郡内で「タウ(党)」を組織していたことが「ヒキハ其郡ニ父ノタウトテ。ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ。一万御前ガ母ヲバマウケタル也。ソノ行時ハ又児玉タウヲムコニシタルナリ」(『愚管抄』)からうかがえますが、この「タウ」とは武蔵七党のような強大な武士団ではなく、比企氏という地方豪族そのものを指すのでしょう。郡司職である「比企郡少領」は国司の指示を受ける立場にありましたが、国司の平知盛は在京のため、在地の河越太郎重頼の支配のもとにあったと推測されます。

 『吉見系図』では比企尼が女聟三人(盛長、河越重頼、伊東祐清)を指図して頼朝を支えたと見えますが※3、『吾妻鏡』では頼朝が「被酬彼奉公」により「件尼、以甥義員為猶子、依挙申」と見え、頼朝は掃部允の奉公に感謝の念を持ち、それに酬いんがために、比企尼の甥(姉妹の子)である「義員」を尼の猶子として召したとあり、配所の頼朝をおもに支えたのは掃部允であったと推測されます。この事実は平家政権も把握していたと見られ、源三位の乱への参戦のために在京していた相模国の大庭三郎景親が、平家被官の上総介藤原忠清から「北條四郎、比企掃部允等、為前武衛於大将軍、欲顕叛逆之志者」(『吾妻鏡』治承四年八月九日条)と聞かされています。比企掃部允は北条時政と同等の危険分子として平家から警戒されていたことを物語ります。しかし、景親は「北条者已為彼縁者之間、不知其意、掃部允者、早世者也者」と返答しており、掃部允は治承4(1180)年5月までに亡くなっていたのでしょう。

 なお、比企掃部允の比企家を継承したのは、比企藤内朝宗と思われます(比企尼の実家・郡司比企氏の出身か)。彼は「内舎人」として朝廷に伺候した経歴があったと見られ、『吾妻鏡』の記述方法からも比企尼の猶子・比企藤四郎能員よりも一族内での格は上でした(能員はあくまで比企尼の所領を継承した新立の比企氏別家の立場か)。しかし、比企能員は比企尼の由緒で若公頼家の乳母夫となって以降権勢を増し、朝宗を上回る右衛門尉・検非違使に補任されるに及び、比企氏を統べる立場になったと思われます。

 余談ですが、のちの鎌倉幕府の中枢を担った中原親能・大江広元らの父(義父か)にあたる中原広季は掃部寮の長官である「掃部頭」に任官していた可能性が高く(『尊卑分脈』※4)、掃部允の上官だった可能性も?

※1 のち平家が彼を「比企掃部允」と呼称していることから、比企郡に在住した可能性が高いだろう。

※2 『吾妻鏡』寿永元(1182)年八月十二日条、頼家誕生に伴う諸儀式の記録の中に「河越太郎重頼妻比企尼女、依召參入、候御乳付」とあることから、河越重頼の妻は比企尼の娘であった事は間違いない。『吉見系図』では比企尼の娘は三人記載されているが、『吾妻鏡』で比企尼の娘と明記されているのは、河越重頼の妻のみである。重頼の嫡子・河越重房は比企尼娘所生とすれば、仁安三(1168)年生まれ(『源平盛衰記』)と推測される。当時、河越重頼は平家の被官であるため、重頼と比企尼娘との婚姻は頼朝の指示ではなく、地縁(血縁)に拠った比企尼と河越氏との間での婚姻と考えられよう。

※3 『吉見系図』に見られるような、比企尼が聟三人に指示を出して生活を支えていたという記述については、そもそも盛長は頼朝を扶持できるような自領はなく、妻の「丹後内侍」は比企尼の娘ではない。河越重頼は平知盛に伺候する立場にあり、伊東祐清は父・祐親入道が平家与党であって頼朝を援助する力はない。これらのことから『吉見系図』の記述は後世の伝であると考えられる。

※4 『尊卑分脈』によれば、小一条流の大膳大夫藤原時綱の母は「掃部頭広季女」とある。この小一条流は陸奥守藤原師綱以来、大膳大夫を歴任しており、大江広元の陸奥守、大膳大夫といった任官はこの師綱流藤原氏の由縁かもしれない。また、中原親能・大江広元の掃部頭への任官は、養父の中原広季の先例であろう。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その六(丹後内侍)

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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その五(丹後内侍と丹後局)

●「丹後内侍」と「丹後局」

「丹後内侍」は藤九郎盛長の妻となった女性で、通説では比企尼の娘「丹後局」と同一人物とされています。
 しかし彼女について明確な伝はなく、比企尼との関連も系譜以外に伝えられているものはありません。はたして「丹後内侍」と「丹後局」は同一人物と考えてよいのでしょうか。

 まず、比企氏関係の伝で「丹後内侍」および「丹後局」が記載されているものには、三河守範頼の裔・吉見氏に伝わる『吉見系図』と、薩摩島津氏に伝わる島津家正史『島津氏正統系図』の二種があり、それぞれ比企氏出身者として「丹後内侍」「丹後局」を挙げています。

(一)『吉見系図』

 「比企尼の娘」である「丹後内侍」と藤九郎盛長が婚姻し、その娘が三河守範頼の妻となって二人の男子を産んだとされています。
 また、丹後内侍は盛長との婚姻前に惟宗広言と「密通」して惟宗忠久(島津忠久)を産んだとあります。

(二)『島津氏正統系図』

 比企判官能員(比企尼養子)の妹「丹後局」が頼朝の寵愛を受けて身籠り、御台所政子に鎌倉を追われて「摂津住吉」で男子(のちの忠久)を出産したと記載されています。

(三)『吾妻鏡』
 文治2(1186)年6月10日条、6月14日条に、丹後内侍の病悩の見舞いのため、頼朝が供を二人のみ連れて密かに甘縄邸を訪問していること、病悩平癒のため密かに立願していたこと、14日には平癒を聞いて安堵していることが記されています。

(一)(二)共通しているのは、「丹後内侍」または「丹後局」が比企氏由緒であるという点です。そのうち「丹後局」が比企氏由縁であることは、子の島津忠久が建仁3(1203)年9月2日の「比企能員の乱」で、能員の「縁坐」として日向・薩摩・大隅三国の守護職を解かれていることからも明らかです。ところが、この島津家伝には「丹後局」と藤九郎盛長との関係は一切記されていません。つまり、島津家には藤九郎盛長の伝承はなかったのでしょう。(三)については史実が記されている可能性が高いです。

(一) 「丹後内侍」は比企尼娘で藤九郎盛長の妻。京都の惟宗広言と密通して島津忠久を生む(=忠久母)。
(二) 「丹後局」は比企尼娘。頼朝の寵愛を受けて島津忠久を生む(=忠久母)。
(三)・「丹後内侍」は藤九郎盛長の妻。(『吾妻鏡』では「丹後内侍」を女房「丹後局」と同一視することはない)
   ・「丹後内侍」は安達景盛の母。
   ・「嶋津左衛門尉忠久」は「能員縁坐」で九州三か国の守護職没収。建仁3(1203)年9月4日条

(三)から、盛長妻は「丹後内侍」であって「丹後局」ではないことがわかります。つまり、「丹後内侍」は比企尼娘である「丹後局」ではないため、安達氏と比企氏の間に縁戚関係はないことになります。そして、嶋津忠久は比企能員の縁戚だったことがわかるため、忠久の母は系譜に見える比企尼娘「丹後局」であると推測されます。

「藤九郎盛長妻」=「丹後内侍」≠「丹後局」=「比企尼娘」「嶋津忠久の母」

(一)『吉見系図』では、比企尼娘「丹後内侍」が盛長との婚姻前に惟宗広言と密通して、島津忠久を出産したと記載されています。『吉見系図』では嶋津忠久は惟宗氏出身であると明確にしており、(二)『島津氏正統系図』のような頼朝落胤という伝はありません。しかし、嶋津氏は吉見氏とはまったく縁戚関係のない家であるにも関わらず、「丹後局」の説話が吉見氏の創生譚に取り込まれたのはいかなる理由があったのでしょう。

 推論ですが、おそらく自家の祖・三河守範頼の妻が藤九郎盛長の娘である以上、その母である「丹後内侍」の出自についても記す必要に迫られ、「丹後内侍」の情報を集めた結果によるものと思われます。その「丹後内侍」にまつわる様々な情報が系譜に取り込まれたことにより、「無双歌人」の性格(源三位頼政の私歌集『頼政集』に登場する「丹後内侍」の説話を取り込んだもの)が付与。そして、吉見氏が武蔵国横見郡吉見庄を比企尼から継承したという理由付けとして、島津家の「比企尼娘・丹後局」の伝を吸収したものと思われます。『吉見系図』では、もともと吉見氏に伝わっていた盛長妻「丹後内侍」の情報と、比企尼娘である「丹後局」の性格が合成されてしまったものでしょう。

 「丹後内侍」と「丹後局」が同一視された時期としては、弘安8(1295)年11月に勃発した「霜月騒動」よりも後、さらに言えば南北朝期と思われます。実は「霜月騒動」の発端の一つが、「丹後内侍」の子・安達景盛が実は「忝モ右大将頼朝卿ノ末」(『保暦間記』)という噂だったのです。景盛の子孫である安達氏が実は頼朝の落胤であり、将軍の座を狙っているという噂がたち、結局安達一族は滅ぼされてしまいます。このいわば源氏将軍の「呪縛」が解かれた南北朝期、嶋津氏は祖・忠久は「丹後局」が頼朝の寵愛を受けて生まれた落胤であるという筋書を作り上げました。これは、盛長妻「丹後内侍」が頼朝から丁重に扱われていた説話をエッセンスとして取り込んだ可能性は高いと思われますが、それは「丹後局」が頼朝から寵愛を受ける動機付けとして取り込まれたに過ぎず、比企尼娘「丹後局」と盛長妻「丹後内侍」を同一とすることはなく、嶋津家の伝では藤九郎盛長についての記述はありません。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その四

●安達氏と比企氏、頼家、北条氏との関係、その後の安達氏

 頼朝のもとには様々な出自の御家人が参集したが、とくに頼朝との私的関係から御家人になったのが、安達氏のほかでは北条氏(頼朝縁戚家)と比企氏(頼朝乳母家)が代表です。北条氏は頼家の外戚家ですが、頼家を養育したのは頼朝の命を受けた比企氏(頼朝乳母家)でした。頼家は北条氏と対立していた比企氏の影響を強く受けて育ったため、北条氏に対して反抗的な態度を持っていました。

 比企氏と安達氏の関係については、祖の藤九郎盛長は比企尼(頼朝乳母)の娘を妻としたとされ、比企氏と安達氏は親密な関係にあったとされています。しかし、実際はどうなのでしょう。

 推論ですが、盛長の妻・丹後内侍は後述のように実際には比企尼娘ではなく、頼朝の母方・熱田大宮司家所縁の女性で、丹後守ゆかりの人物を縁者に持っていた可能性が高いと思われます。安達氏は御台所との緊密な関係を考えると、北条氏と親密であって、北条氏と対立関係にあった比企氏とは疎遠であったと考えられます。また、藤九郎盛長以降、安達氏は上野国奉行人を務めていますが、比企右衛門尉能員は奥州征討時に上野国高山・大胡などの御家人を率い、上野国渋河の御家人・渋河兼忠の娘を室とするなど、比企氏と安達氏は上野国内における権力の重なりがみられ、比企氏と安達氏はこの部分でも対立関係にあった可能性があります。安達氏が比企氏と縁戚関係になかったのは、建仁3(1203)年9月2日の比企能員の乱で安達氏が一切罰せられていないことからも明らかでしょう(当時鎌倉におらず戦いに直接加わっていない比企能員の義甥・島津忠久ですら大隅薩摩日向三か国の守護職を没収)。

 頼家の安達氏敵視は北条氏敵視と重なっている可能性が高く、建久10(1199)年3月23日、頼家は三河国内の「太神宮御領六箇所被止地頭職」を行いました。これは、頼家が将軍宣下を受けた直後に行った「御宿願」とありますが、この六か所の地頭職は北条時政と盛長(推測)であるため、北条氏と安達氏へ対する一種の敵視政策の一環の可能性が考えられます。

 しかし、三代将軍・実朝は頼家とは異なり北条氏の影響下で育っていたためか、頼朝同様に安達氏を優遇しました。安達景盛は実朝政権下で信任を受けてその側近として活躍しますが、「源家の私的従者」の性格は継承されており、承久の乱に際しては、景盛が「二品(政子)」の言葉を代弁して御家人らに訓示している点(『吾妻鏡』承久三年五月十九日条)や、頼朝の姪孫にあたる皇子降誕(順徳天皇皇子、のちの仲恭天皇)に対する使者として上洛(建保六年十月二十七日条)するなど、頼朝・政子に繋がる事柄への対応が目だっています。

 御台所や実朝を通じて北条氏と親密な関係にあった安達景盛は、娘を執権北条泰時の長男・時氏へ嫁がせて縁戚関係となり、その子・経時や時頼を執権に擁立し、執権北条氏の外戚として安達氏は大きな力を持ちました。

 その後、宝治元(1247)年6月の「宝治合戦」で宿敵の三浦一族を葬り去り、景盛の孫・泰盛の代にその卓越した手腕も加わり、安達(城)氏は幕府最高執行機関である評定衆、引付衆にも選ばれて権勢は最高潮に達しました。ところが、北条宗家の内管領・平頼綱入道との対立が激化し、弘安8(1285)年11月17日、泰盛は殺害され、安達一族も全国で討たれて安達宗家氏は滅亡しました(霜月騒動)。

 ただ、安達氏は族滅したわけではなく、生き残った安達氏はその後も北条氏の縁戚として幕政に参与しましたが、鎌倉幕府の滅亡とともに一門の多くが幕府と運命をともにしました。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その三

●安達氏の性格

 安達氏の氏族としての特徴は、まず源家との強い「私的な主従関係」が挙げられます。おそらく盛長はもともと頼朝個人の「私的従者(雑色的な性格も兼ねる)」であり、頼朝の深い信頼関係で結ばれた近臣として重用されました。この盛長の出自から、その後の源家の「執事」的な氏族的立場が生まれたのでしょう。

 では、盛長はいつから頼朝に仕えたのでしょう。盛長は少なくとも平治元(1159)年12月の「平治の乱」の時点では頼朝と行動をともにしていないため、仕えた時期は、永暦元(1160)年3月に頼朝が伊豆に流された後であろうと思われます。先述のように、盛長は熱田大宮司家との関係が考えられ、頼朝出仕の時期やその信頼感から考えて、頼朝配流の際、頼朝の叔父「祐範」が付けた「郎従一人」が盛長そのひとである可能性も強ち有り得ないことではありません。

 頼朝配流から二十年後、藤九郎盛長は頼朝挙兵に当たっては各地の「累代御家人」に協力を依頼する使者として走り回り、千葉介常胤を味方に引き入れることに成功しました。鎌倉入部後は頼朝が尊崇した甘縄の伊勢社の管理のためか「甘縄」に屋敷を構えました。この盛長の「甘縄邸」は、後述のように、その後の頼朝をはじめとする歴代将軍が公式行事を行ったり、仮御所としたりするなど「公邸」の意味合いを持っていた様子がうかがえることから、「甘縄邸」はおそらく「源家別邸」的な性格の施設として建てられたものと思われます。そして、もっとも信頼する従者で、執事的存在の藤九郎盛長を主として据え置き、子孫の安達(城)氏もこれを代々継承していったのでしょう。頼朝が行った最初の「公的行事」は、治承4(1180)年12月20日の、新造御所から他所へ移る「御行始」でした(『吾妻鏡』治承四年十二月廿日条)。

 こうした盛長の頼朝個人の「私的従者」という性格は、盛長が宿老になっても残り、生涯を通じて官途に就くことがなかったのは、一般の御家人とは一線を画す存在だったためでしょう。名字を名乗らなかったのも頼朝個人の「私的従者(一部雑色的な存在)」の性格を有していたためでしょう。頼朝薨去の直後に「安達」の名字を称するようになりますが、これは頼朝個人との「私的従者(一部雑色的性格)」関係が解消されたということかもしれません。ただし、その後の安達氏と源家(尼御台含め)との個人的な繋がりは維持されており、それは個人の「私的従者」という立場から家の「私的従者(執事的存在)」へ昇華していると思われます。

 ところが、盛長のこうした「従者」という出自は、三浦氏ら有力な御家人からは一等低く見られていた可能性があり、宝治元(1247)年6月5日、安達景盛入道が子の城介義景、孫の城九郎泰盛を招いて、「被遣和平御書於若州之上者、向後彼氏族、独窮驕、益蔑如当家之時、憖顕対揚所存者、還可逢殃之條、置而無疑、只任運於天、今朝須決雌雄、曽莫期後日」と叱責している通り(『吾妻鏡』宝治元年六月五日条)、「当家を蔑如」にしてきた三浦泰村の態度がうかがわれます。

 そして、安達氏が源家の私的従者との認識が端的に表れているのが、頼朝の後継者である二代将軍・源頼家による景盛追討令です。正治元(1199)年8月、藤九郎盛長入道の管掌国・三河国で起こった叛乱の鎮定を景盛に命じ、その留守中に景盛の妾女を強奪するという暴挙に出、さらに帰国後に不平を言った廉で景盛追討を企てました。これは頼家が安達氏を「私的従者」であるとの認識があったからに他ならないでしょう。これは決して頼家だけの認識ではなく、政所別当・中原広元(のち大江広元)が「如此事非無先規、鳥羽院御寵愛祗園女御者源仲宗妻也、而召 仙洞之後、被配流仲宗隠岐国」と、頼家と景盛の関係を鳥羽院と源仲宗(院近臣)との関係に准えており、御家人中にも、安達氏は源家の「私的従者」であるという認識があったことをうかがわせます。

 なお、この強奪事件では、頼家の命を受けた「鎌倉中壮士等」が「藤九郎入道蓮西之甘縄宅」へ押寄せたため、尼御台がみずから甘縄邸に駆けつけ、頼家を激しく叱責し「若猶可被追討者、我先可中其箭」とまで言って、諸士を引き上げさせており、安達氏と尼御台は非常に緊密な関係にあったことがうかがわれます。頼家の安達氏(とくに景盛)に対する「敵意」は、頼家が伊豆国修善寺に押し込めになったのちも続き、「於安達右衛門尉景盛者、申請之、可加勘発之旨」を尼御台に対して願っていますが(『吾妻鏡』建仁三年十一月六日条)、「御所望条々、不可然」と悉く却下されました。この頼家の安達氏に対する激しい敵意は、その育った環境が強く影響していると思われます。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その二

●藤九郎盛長の出自

 前条のことから、藤九郎盛長は武蔵足立氏とは血縁関係のない氏族出身者と推測されますが、では盛長はどのような出自の人物だったのでしょう。明確な資料は残されておらず「推測」となりますが、

(一)頼朝の叔父に当たる「法眼範智」の伝に「藤九郎盛長〃人云々」の記述が見られ、盛長と熱田大宮司家の関連をうかがわせる(『尊卑分脈』)
(二)頼朝は母所縁の人物をことのほか大事にした→流人時代から盛長を殊に重用していた
(三)盛長は熱田大宮司家に所縁のある三河国との接点が深い
(四)子孫と思われる城九郎直盛は、尾張国の熱田大宮司領を押領し訴えられている→大宮司家との接点が?
(五)頼朝の配流にあたって、頼朝叔父「祐範」が付けた「郎従一人」が盛長そのひとの可能性?

などの理由から、熱田大宮司家と所縁の人物であろうと推測されます。また、盛長の妻「丹後内侍」も、その後の頼朝の特別な配慮から、こちらも熱田大宮司家との関係が強い可能性があります。

 ただ、一方で盛長は伊勢神宮との関連も感じさせる一面があります。

(一)盛長は伊勢別宮たる鎌倉の「甘縄神明社」の維持管理を任されていた。
   ⇒盛長邸(甘縄邸)が甘縄に造営された理由は、甘縄神明社の守護・管理のためと推測。
(二)盛長が奉行人を務めた「上野国」は、鎌倉時代初期には坂東諸国と比較すると伊勢神領がとても多い。
 〔参考〕建久3(1192)年8月当時の坂東諸国の伊勢神領(「神鳳抄」:『鎌倉遺文』614)
  国名    神領  
  相模国  大庭御厨、(鎌倉御厨?)
  武蔵国  榛谷御厨、七松御厨、大河土御厨
  上野国  薗田御厨、須永御厨、青柳御厨、玉村御厨、高山御厨、邑楽御厨
  下野国  片梁田御厨、寒河御厨
  安房国  東條御厨
  下総国  相馬御厨、夏見御厨
  常陸国  小栗御厨

(三)盛長が奉行人をつとめた「三河国」も伊勢神領が多い
   ⇒後年、二代将軍頼家が三河国の神領六ヶ所の権限を「地頭」から取り上げて伊勢神官の裁量とするが、
    その後、盛長の代官が狼藉を働いたとして伊勢神官が幕府に訴えている。
(四)安達(城)氏の被官・野田氏は、尾張国内の伊勢神領・野田御園の氏族か。

 しかし、伊勢との関わりについては、頼朝がもっとも信頼する家人盛長へ、尊崇する伊勢社の管理を任せたという理由であって、盛長の出自とは関係はないと思われます。また、上野国の奉行人についても、これは木曾義仲の上野・信濃への拘りに対する措置と思われることから、国奉行就任と伊勢神領との関わりもないと思われます。やはり、盛長は熱田大宮司家と何らかのかかわりを持っていた人物と思われます。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その一

「安達氏」は、鎌倉時代の有力御家人の一族ですが、実はその出自には諸説あってよくわかっていないというのが実際のところです。祖は、源頼朝のの従者として『吾妻鏡』にみえる「藤九郎盛長」という人物なのですが、実はこの始祖・藤九郎盛長がどのような人物なのか、前半生が判然とせず、頼朝に仕えたきっかけや時期すらはっきりしていません。

 現在では、武蔵足立氏の一族とされ、源頼朝の乳母・比企尼の長女である丹後内侍を妻とし、これをきっかけに頼朝に随い、御家人に列したというのがほぼ定説となっているようです。武蔵足立氏の当主・足立遠元の娘は、後白河院近臣の藤原光能(後白河院皇子・以仁王妾の兄弟)に嫁いでおり、足立氏は頼朝挙兵に深く関係した以仁王との関わりが指摘されています。

 しかしながら、具体的に安達氏が足立氏とともに行動する様子は『吾妻鏡』からはうかがえず、縁戚関係については『尊卑分脈』とそれを基にしたと推測される系譜以外にみられません。

 いったい安達氏とはどのような出自を持ち、どのような過程を経て成長していったのか、推論してみます。

●安達氏の出自

 安達氏は武蔵国足立郡の豪族・足立氏の一族であるという研究があります(金沢正大「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義‐上‐」『政治経済史学156』、「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義-下-」『政治経済史学157』)。

 たしかに『尊卑分脈』には魚名公流に藤九郎盛長の名が見え、世代的にも問題はありません。しかし、安達氏と足立氏が同族であるという点には、やはり否定的に見ざるを得ません。

【一】藤九郎盛長にはもともと郎従など被官層がいない

 まず、安達氏が武蔵国の有力豪族である足立氏と同族であれば、当然、安達氏も足立郡ゆかりの郎従がみられるはずですが、記録に残る初期安達氏の郎従としては、始祖・藤九郎盛長が国奉行を務めた「上野国」や秩父地方、別庄のあった武蔵南部の武士であって、足立郡内の氏族は見えません。

『吾妻鏡』(元久二<1205>年六月二十二日条)
・畠山重忠の乱で、安達景盛が先陣したときに率いた郎従六騎(参考:福島金治『安達泰盛と鎌倉幕府』有隣堂)
 ●野田与一 三河国愛智郡野田御園(愛知県名古屋市中川区野田~中村区野田町)か
 ●加治次郎 (宗季) 武蔵国高麗郡加治(飯能市岩沢)
 ●飽間太郎 上野国碓氷郡飽間郷(安中市秋間)
 ●鶴見平次 武蔵国鶴見郷(横浜市鶴見区)
  ・仁治二(1241)年十一月四日条に「秋田城介義景」の「別庄」記載。
 ●玉村太郎 上野国玉村御厨(佐波郡玉村町)
  ・たまむらのむまの太郎やすきよ:元寇時の安達泰盛の執事(1274年)
  ・たまむらの三郎盛清:元寇時の安達盛宗の側近(1281年)
 ●与藤次 不明

 もちろんこの六騎が景盛の抱えるすべての郎従ではありませんが、六騎はのちに執事家になった玉村氏がみられるため、景盛の側近かつ鎌倉の甘縄屋敷に常駐した主要な郎従たちと思われます。

 ①主要な郎従に新規被官層が就いている
 ②頼朝配流先で藤九郎盛長に被官がいた形跡がない

これらのことから、盛長はもともと被官はおらず、取立てによって新規被官を獲得したということと思われ、足立郡内に勢力を有していた武藏足立氏との積極的な関係性をみるのは困難と思われます。

【二】盛長が「アダチ」を称したのは晩年のみ

 実は『吾妻鏡』には、安達氏が「足立」としてみられる記事があります。
 ・正治元(1199)年十月廿七日条:「足立藤九郎入道」

 ところが、翌日には「安達藤九郎盛長入道」と記述されており、その後も盛長子息・景盛が「安達」を称していることからも、「足立藤九郎入道」の「足立」は「アダチ」と訓むが故の当て字であるとする方が自然でしょう。

 盛長や景盛が「安達」姓を称した実際の時期は不明ですが、同年4月時点で盛長は「藤九郎入道蓮西」(『吾妻鏡』建久十年四月十二日条)、7月には「安達弥九郎景盛」と見えることから(『吾妻鏡』正治元年七月十六日条)、4月から7月あたりのことかもしれません。盛長が晩年まで頑なに名字を名乗らず「藤九郎」と称していたのは、もともと盛長自身に領所を由緒とする「名字」が存在しなかったためであることと、後述の頼朝個人との「私的主従関係」に基づくものかもしれません。

 建久10(1199)年正月十三日の頼朝薨去の直後ともいえる時期に「安達」姓を称したのは、頼朝の死によって盛長が頼朝個人との「私的主従関係」を解消(ただし、源家および鎌倉殿との伝統的な私的主従関係は鎌倉時代を通じて存続)し、名字を名乗って一般御家人と同格となったためか。「安達」の由緒も確定的ではありませんが、陸奥国安達保(後年の建保6年立券)の地頭職などの所以か?

【三】『尊卑分脈』の疑問

 『尊卑分脈』によれば、足立氏と安達氏は共通の祖として小野田三郎兼広の名が見えます。その長男が「安達六郎」こと「小野田藤九郎盛長」、次男が「安達藤九郎」こと「民部丞遠兼」となっています。この次男・遠兼の子が「足立左衛門尉遠元」となっており、遠元は藤九郎盛長の「甥」ということとなります。しかし、

 ①足立遠元は平治元(1159)年12月の「平治の乱」ですでに源義朝の郎従として活躍し「右馬允」に任官。
 ②足立遠元の娘所生の二位藤原光俊(藤原光能の子)は治承3(1179)年生まれ。
 ③盛長が「城介」とされ、小野田姓を称する。
 ④盛長が「六郎」を称した傍証はなく、遠兼項の「安達藤九郎」との混濁?

といった疑問点が生じます。同じく『尊卑分脈』によれば盛長は保延元(1135)年生まれ(没年等からこれはほぼ妥当か)とされており、①②によって足立遠元は藤九郎盛長よりおよそ一世代前の人物と推測されます。『尊卑分脈』の記述を信用すれば、遠元は盛長より相当年上の甥ということになり、あまり現実的ではありません。そのほか、③のように盛長に対して「城介」とされていることや、『吾妻鏡』等の史料で盛長を小野田とする記述はないこと、④のように、盛長・遠兼の通称に明らかな混乱がみられる部分からも、『尊卑分脈』に採用された安達氏系譜の信頼性は非常に低いものと言わざるを得ません。

※足立遠元の父・遠兼の来歴はまったく知られませんが、大治5(1131)年12月2日の「女院熊野詣御門出」に際し、列した鳥羽院武者所の「侍」として「兼仲、為雅、頼倫、国政、実信、遠兼」が見えます(『中右記』大治五年十二月二日条)
 ・「国政」:摂津源氏頼綱の子・源国政?
 ・「実信」:秀郷流藤原氏の後藤実信?
 ・「遠兼」:足立遠兼?

 この時代、鳥羽院北面に良門流「藤原遠兼」がいますが、彼は父は従四位上大膳大夫親輔、自身ものちに従四位下左馬助まで昇っていて(『尊卑分脈』)、彼は侍品ではありません。

千葉常重はほんとうに大椎から千葉に移った?

 千葉氏が千葉以前は「大椎」に本拠を構えたとされています。しかし、はたしてそれは事実か、若干の考察を試みます。

 千葉介常胤の父・常重が千葉に移住したとされるのは大治元(1126)年とされています。ところが、『吾妻鏡』承元三(1209)年十二月十五日条に、千葉介成胤は

「先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間」

と見えることから、当時の千葉宗家の伝承には、先祖の「千葉大夫」が元永年中(1118~19)には千葉庄の検非違使として、千葉に在住していた記録が残されていたと考えてよいでしょう。「千葉大夫」については、時代からも『桓武平氏諸流系図』に「千葉大夫」としてみられる常重に相当します。このことから、常重が千葉へ移ったとされる大治元(1126)年にはすでに常重は千葉に地盤を築いていたことになります。そもそも「本拠」に腰を据えずに短期間のうちに数回の変遷をみるのは不自然です。ではなぜ、常重は「大椎」から「千葉」に移住したとされたのでしょう。それはおそらく、系譜上の誤記から発生したものと推測されます。

 千葉氏の記載がある系譜で比較的古いものとしては、鎌倉期成立とみられる『桓武平氏諸流系図』および鎌倉期に肥前国小城に渡った千葉家系譜の写本『徳島本千葉系図』がありますが、常重の項目については、それぞれ

 『桓武平氏諸流系図』:「大権介」
 『徳島本千葉系図』 :「大椎介」

となっています。「権」「椎」の行書体は非常に似通っており、この「大権介」「大椎介」は同じことを指していると考えられます。ではどちらが正しいのでしょう。結論から言えば、古い千葉家の伝を引いてエッセンスとしたとみられる平家物語の異本『源平闘諍録』にも「大権介」とみえますので、おそらく「大権介」が本来記載されていたものと推測されます。この「大」については、常重の子・常胤についても『桓武平氏諸流系図』には「大千葉介」との記載があることから、敬称としての「大」であると推測されます。さらに、室町期成立とみられる千葉家伝『千学集』においては「大椎権介」という記載のされ方に変わります。

 以上のことを踏まえた推論としては、
①もともとこれらの千葉家に関する系譜の根本となった「原」系譜が存在
 ・常重:「大権介」

②系譜が転記される中で「権」と「椎」が混同
 ・常重:「大権介」「大椎介」

③「大椎介」写本の系譜が「原」系譜と突合され、「椎」を「権」と側註が記載される
 ・常重:「大椎(権)介」

④室町期までに「大椎権介」と記載の系譜ができあがる
 ・常重:「大椎権介」⇒この系統の系譜の伝を引いて『千学集』の常重の肩書きが記される

あくまで推論ですが、このような可能性も否定できないかと考えます。

千葉山

 国道16号線の穴川交差点近く、千葉県スポーツセンター前にある山が、千葉宗家代々の廟所である「千葉山」です。字名は「長者山」といいます。明治39年4月、三和尋常小学校長の安川辰蔵が十三基の古墳を確認し、その墳丘墓から、鎌倉期の常滑の骨蔵器を発掘しています。現在、千葉宗家の菩提寺である稲毛区の大日寺(大日寺HP)にある石塔は、ここから移されたものとも伝わります。
※ただし、この石塔のうちもっとも巨大な石塔については、大日寺が開創の伝の通り「仁生(=忍性)」との所縁であるとすれば、律宗の僧の墓もしくは供養塔でしょう。

千葉山1 千葉山2 星宮
 ▲塚              ▲塚(モミジで見えづらい)   ▲星宮

 数年前までは、竹林の中にも墳丘状の廟所がはっきり見えたのですが、先日訪問したときは、完全に竹林に埋没し、余程近くに行かないと見えなくなっていました。ここを管理しているのは千葉市なのですが、史跡を保存しよう、観光に生かそうという意識はザンネンなことに、まるでないです。

千葉山の現状
 ▲いまの千葉山墳丘遠景

 ほかの墳丘は、道路を挟んだ北側の雑木林にあるはずなのですが、もはや確認できないほど荒れ果てています。なんとか整備をしてもらいたいです~。

 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

相馬救援隊

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110406t63054.htm
http://d.hatena.ne.jp/Mapple/20110409/p2
http://www.facebook.com/sohma.aid?sk=app_151263924927023

地震による被害、津波による被害、さらに相馬・双葉地方に襲いかかった原発の被害。
その相馬地方に、旧相馬中村藩主の子孫、相馬行胤さん・相馬陽胤さんの兄弟を中心に立ち上がった「相馬救援隊」というボランティア団体が入って、救援・復興を行なっています(物資の受付は終了しています)。

相馬家は千葉介常胤の次男・相馬次郎師常を祖とする千葉一族で、鎌倉時代に相馬に移って以来、廃藩置県に到るまでの数百年にわたって同地を治めました。現在でも毎年7月に行なわれる「相馬野馬追い」では、藩主家の子孫は総大将をつとめ、相馬地方との繋がりは強く続いてきました。

http://www.city.soma.fukushima.jp/
相馬市も立谷秀清市長を中心に復興作業が進んでいます。市長の断固たる決意と復興への熱意がこもったメールマガジンがお薦めです。

相馬の一日も早い復興を願っています。

●追記
相馬行胤さんが経営されている北海道大樹町柏台牧場のブログです。
支援について記載されています。
http://ameblo.jp/kashiwadai1964/theme-10017345415.html

テーマ : 東日本大震災
ジャンル : 日記

水戸2010

 1年ぶりに水戸へ行ってきました 水戸藩士の系譜『水府系纂』と『一橋徳川家文書』の確認です。県立歴史館へ向う前に、「桜田門外の変」のロケで使われた桜田門周辺のセット見物に行ってきました。セットは水戸駅の南に広がる千波湖畔に作られていて、撮影後の現在はセットに入って自由に見ることができます。

 入場料は800円とややお高めですが、不思議な雰囲気を味わうこともできると思うので、払って損はないと思います。ただ、ボランティアの人の数が多すぎるかも。ワタシは開場直後に入ったからそう感じたのか。。。

 会場に入るとすぐに桜田門のセットが見えます。なるほど、結構なつくりです。石垣はやや作った感がありますが、全体的にそっくりです 地面に敷き詰められているのは雪のように真っ白な細かい石です!! 70トン近い砕石を撒いているそうです。すげー。屋根の上の白い雪も白い砂利です。雪の降る中行なわれた桜田門外の変を再現するために、こんな努力をしているんですな。

桜田門セット3 外桜田門実物
 ▲セットの外桜田門        ▲実際の外桜田門

桜田門セット2 桜田門実物
 ▲セットの桜田門          ▲実際の桜田門

桜田門セット4 桜田門セット1
 ▲セット外桜田門内側      ▲桜田門を通して彦根藩邸。すごい近い~

桜田門セット5 桜田門セット6 桜田門セット7
 ▲杵築藩邸表門         ▲彦根藩邸表門         ▲松の廊下

 ほかに米沢藩邸や広島藩邸の門が再現されていますが、若干角度と門の位置が実際とは違っています。米沢藩邸の表門は桜田門と対面し、広島藩邸の表門は桜田門側にはありませんでした。また、セットでは杵築藩邸と広島藩邸が平行して建っていますが、実際は広島藩邸は杵築藩邸とは南西に逆扇形で接していました。ただ、セットについては映画の演出上敢えて行なっているようです。少し残念に思ったのは、彦根藩邸と桜田門があまりに近く写り過ぎていることです。おそらく実際の距離の10分の1以下しか離れていないので、違和感があります。遠近感を出すために小さく門を作ってもよかったのではと思ったものの、これもやはり演出上(彦根藩邸の存在感)の問題かもしれません。

黄門様 湖畔 水戸の紅葉1 水戸の紅葉2
 ▲黄門様です      ▲水戸はすっかり紅葉です

 セットを出て、歴史館へ向かいます。千波湖の周りは遊歩道になっていて、走ったり散歩したりする人がたくさん。周りの公園もすっかり紅葉です。空が青いのでよく映えます。水戸光圀の銅像も建ってます。ちょっと偕楽園にも寄ってみますが、この時期は誰もいません。あと数ヶ月もして梅が咲く頃になると、歩けないくらいの人が押し寄せますので、かえってこういうときのほうが、偕楽園内をゆっくり散歩できるかもしれません。

偕楽園 
 ▲この時期の偕楽園は誰もいません…

 偕楽園をでて、県立歴史館へ。ここで一橋徳川家文書などを見ます。一橋家に仕えていた相馬家を追っているのですが、国会図書館蔵の江戸幕府の役職武鑑には、一橋家の家臣として本来載せられているべき相馬家初代「相馬多宮(正胤)」の名がなく、まったく同時代に「相馬半左衛門」が記載されていました。しかし「半左衛門」の通称が寛政譜の相馬正胤の項目に記載されていないため、両者の関係は不明でしたが、一橋家文書の記載により相馬正胤の通称が半左衛門だったことが判明し、両者が同一人物とわかり、謎がひとつ解けました。

柿 みかん
 ▲実家の庭では柿やらミカンやらがわんさか実り出しました!

 実家ではすでに柿とミカンの収穫をやっていました。収穫が終ればすぐ冬です。まだ一橋家文書は読みたい部分がたくさんありますが、冬の水戸は寒さが厳しいので、あったかくなるまではしばらくお預けです。


 

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

麻布十番の賢崇寺

 会社帰りに、ちょっと麻布十番に寄ってきました。

 このまち、食べ物屋が多いですね。しかもなんだか少し高そう。昼飯を食べず昼時にウロウロすると危険です Mr.Childrenのアルバム「BOLERO」の撮影ポイント「パティオ十番」の階段を横目で見つつ、目指すは佐賀藩主鍋島家の菩提寺・賢崇寺です。

 この寺は佐賀藩士の菩提寺もなっていて、佐賀調査時に確認できなかった千葉胤廣(佐賀市の松原神社に、鍋島一門とともに石燈篭を寄進した人物)の墓所があるかもしれないという憶測で訪問してみました。

佐賀燈篭
 ▲佐賀市松原神社の燈篭銘(千葉胤廣)

 街なかにある急坂を登った先にある広大なお寺。境内に至るまでの急坂の参道は、ちょうどイチョウから銀杏が落ちる時期ということもあり、馥郁たる異臭が漂ったりしていましたが、麻布十番の雑踏とは無縁の静かな山内です。木も多く木陰は涼しい風が吹いていました。

 境内を入って右手に本堂、正面に鐘楼、本堂裏手にはすぐ佐賀藩主家の廟域があり、その周りに「佐賀県士族」「佐賀住」など旧佐賀藩士の家柄と思われる家の墓石が並んでいました。その中にやはり「千葉胤廣」の墓石がありました! 家紋は佐賀藩士千葉家と同様の十一曜星紋です。残念ながら、彼が佐賀藩千葉家のどの系統に属していたかの確認はできませんでしたが、彼が法曹界で活躍したであろうことの確認はできました。

鍋島2
 ▲千葉胤廣の十一曜星紋   
 (賢崇寺千葉家墓所)

 そのほか、旧佐賀藩士で歴史学者として名高く、やはり佐賀の松原神社に燈篭を寄進していた久米邦武博士もこの寺を菩提寺としていました。ほか、小城鍋島家、神代家、多久家、鍋島主水家など多くの佐賀藩所縁の家々が見られました。その法名の書体と刻み方も佐賀風が伺えます。

鍋島7       星巌寺
 ▲小城藩主鍋島家墓石    ▲佐賀県小城市の星巌寺(小城鍋島家菩提寺)
 (賢崇寺)

 小城鍋島家は本来は鍋島嫡子家だった鍋島三支藩の一家。ただ、藩公廟所は佐賀県小城市の星巌寺にありますので、こちらの墓はどういった位置づけのものかはわかりません。

鍋島6
 ▲鍋島主水直朗(小城藩初代藩主・鍋島紀伊守元茂二男)と鍋島主水茂和(直朗の孫)

鍋島5
 ▲神代鍋島弥平左衛門茂堯(神代領主)と神代家当主(確認失念)

鍋島1
 ▲藩主家の廟所。巨大な五輪塔が見えます。この廟域はフェンスで囲まれていて、一般の人が入ることはできませんが、人為的に柵を壊して中に侵入した形跡が見えます。ロクでもないのがいるもんです。

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

持法院の曼珠沙華’10

 下総相馬氏の一族・藤ヶ谷相馬家の菩提寺・持法院へ行ってきました。ここは彼岸花の名所として知られていますが、大量に咲いているわけではなく、秋口の谷津田の一風景として寺に溶けこんでいる感があります。

彼岸花2 彼岸花4 彼岸花3 彼岸花1

 今年は残暑が長かったせいか、まだ満開というほどではありませんでしたが、早朝にもかかわらず駐車場はすでにいっぱい。カメラを手にした人たちが大勢いました。参道脇のスペース一帯が彼岸花の群生地で、境内でも石仏や鐘搗堂、本堂のまわりに咲いています。相馬家の伝に拠れば、相馬家の一子・登慶が貞応元(1222)年に開いた寺院とされ、現在の堂宇は明治初期、藤ヶ谷相馬家重臣の家柄である勝柴家の母屋が移築されたもので、塔頭の「登慶坊」「順慶坊」を解体して、格天井と欄間(龍と天女)が付されました。

持法院山門
 持法院山門

 この寺の山上には、墓地が広がっていますが、墓地の最上段には、相馬家祖・相馬師常の父親、千葉介常胤ゆかりの如意輪観音を祀った観音堂があり、その周りにも彼岸花が咲いていました。

如意輪観音堂
 如意輪観音堂

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

第6回企画展 「銘文は伝える」~沼南の歴史をおりなす金石史料~

 旧沼南町役場(現在の柏市役所沼南庁舎)に隣接する郷土資料展示室にて、「柏市史」(沼南町史史料集金石文3)刊行記念の展示が行われていました。ここに展示されている「手賀原氏」の位牌を見に行ってきました。

沼南庁舎
 ▲柏市役所沼南庁舎

 手賀原氏は臼井原氏の一族とされ、柏市手賀一帯を治めていた千葉一族です。ただ、臼井原氏との血縁上の関わりについては正確には判明していない謎の氏族です。手賀城は小田原落城の影響を受けて開城したと思われ、その後、江戸幕府に召し出されて代々江戸南町奉行所与力職を勤め、幕末の当主・原胤昭はキリスト教教誨師として数多くの囚人を救済した名士として知られます。

 手賀原氏については、原胤昭が遺した奉行所内の文書・与力の系譜類が千代田区によって整理され、活字化されて出版されています(現在三巻目まで)。江戸時代の奉行所の仕事や役割がよくわかる書籍です。千代田区役所または千代田区立四番町歴史民俗資料館にて頒布されています。なお、郷土資料展示室で展示されていた、「満福寺(現在の柏市柳戸の弘誓院)」の梵鐘(模造)の実物は、図らずも千代田区立四番町歴史民俗資料館に展示されています。

 史料
 ▲『江戸町与力の世界=原胤昭が語る幕末』

テーマ : 柏市周辺
ジャンル : 地域情報

塚越又右衛門

 千葉周作の兄・塚越又右衛門は、「気仙の須藤家」に養子に入ったのち、岡部藩士の塚越家の養子になったとされています。『剣豪 千葉周作』にも、「故あって気仙の須藤家を継ぎ、塚越と称した。…塚越の姓は、周作の兄又右衛門が松戸に移住後、江戸に出て武州岡部藩主安部摂津守鉾右衛門に迎えられ、のち師範となって塚越家を継いだので初めて塚越を名乗った」とあります。

 しかし、孫の塚越三治の書状の中には「気仙千葉の男」「塚越家に養子に参り候」とあるのみで、他の諸書にも又右衛門と気仙の須藤家との関わりを記すものは見たことがありません。

 一方、岡部藩の文書においては、又右衛門は一度「塚越」を名乗った(岡部藩周辺に塚越姓が散在しているので、その養子に入ったものか?)のち、「岡部藩須藤家」の養子となって須藤を称したことが記されています。その後、許しを得て「塚越」に復姓しています。そして、岡部藩の資料に拠れば、又右衛門以前に塚越という岡部藩士はないため、「師範となって塚越家を継いだ」ということはありません。

 つまり、又右衛門は「気仙の須藤家」を継いだのではなく「岡部藩の須藤家」を継いだ「気仙千葉の男」で、岡部藩須藤家の養子に入る前に「塚越」を称していました。須藤家の養子に入ったあと、塚越姓に復姓し、岡部藩塚越家が誕生しました。又右衛門は「一刀流」の免許者であり、周作同様に一刀流の中西道場で学んだのかもしれません。

 又右衛門の子・又右衛門(初名は鉾五郎)は道場を持ち、叔父・千葉周作が開創した北辰一刀流の玄武館道場に出入りしていたことが見られます(『玄武館出席大概』)。

 岡部藩塚越家は二代続いて明治維新を迎えました。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

春の東京~松戸散策

 桜の季節、花見を兼ねて歴史散歩してみました。

 巣鴨から雑司が谷霊園まで行って、千葉定吉・千葉重太郎のお墓参りをしてきました。「龍馬伝」で里見浩太郎さんと渡辺いっけいさんが演じてますが、坂本龍馬が入門した北辰一刀流桶町道場(龍馬入門時には桶町にはなかったようです)の道場主の一家です。千葉家の末裔で家紋も月星紋です。
定吉
 ▲千葉定吉、重太郎の墓碑

 雑司が谷には桜は咲いていないので、次は谷中霊園へ。やはり桜の季節は人が多いですね。霊園ですが、みなさん茣蓙ひいて酒宴です

yanaka 天王寺

 このあたりはかつて天王寺というお寺があって、その五重塔跡も残っています。が、その礎石も花見の椅子と化していました。時代も変われば、その石の役割も変わるってことですな。

 谷中霊園の中には、かつての大名家のお墓も遺されています。その中でも、一橋徳川家の墓地内には、旧一橋徳川家の旧臣が明治になって奉納した石灯籠があり、名前が列挙されていて、幕末の嵐を生き抜いた一橋旧臣の名前がわかる史料でもあります。

谷中灯篭
 ▲右端に、下総相馬家末裔の相馬胤富の名があります。

 ここから上野公園の桜を見に行きますが、途中にある寛永寺に立ち寄ります。

寛永寺本堂 寛永寺
 ▲現在の寛永寺本堂        ▲本堂前の石灯籠

 本堂前には石灯籠が並んでいますが、なぜか奉納年月日と寄進者、奉納した対象の将軍名が刻み消されています。明治維新時に、寄進者の家が徳川将軍家との関係を知られたくなかったからなのか、官軍による辱めなのか…または後世のいたずらなのか。その理由はわかりませんが、唯一本堂境内で銘が残っていたのは、本堂脇の一角にあったものだけでした。

 寛永寺1 寛永寺2 寛永寺3
 ▲寛永寺境内            ▲徳川家綱廟所前            ▲徳川綱吉廟勅額門

 本堂の裏手には寛永寺墓所があり、その敷地内には、将軍家や天璋院などが眠る廟所が今も遺されています。老中から奉納された石灯籠が霊廟前にずらっと並んでいます。そして、寛永寺墓所をさらに奥へ行くと、いまや誰も訪れることなくひっそりと広大な廟所があります。徳川家綱(厳有院殿)、徳川家治(浚明院殿)、徳川家斉(文恭院殿)の墓所になっています。

 天璋院と家定の墓所などはこの家綱廟所とは少し離れた西側にあります。こちらの内部はまったく見ることはできません。

 寛永寺から天王寺にいたる谷中霊園には、徳川家ゆかりの墓所が点在しています。点在していた、という方が正しいかもしれませんが。かつての将軍家の奥方達の墓所は寛永寺墓地から撤去され、跡地は一般墓地として分譲されます。一般市民となった徳川家が広大な墓所を管理するのは至難の業です。毀された史跡は二度と見ることはできません。国や都、区が、江戸時代の文化財として史跡を守るという姿勢を見せてほしかったもんです。

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

千葉周作について

千葉周作の出自について研究されている書籍を紹介します。

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千葉周作は奥州千葉氏の末裔にして、北辰一刀流の開祖。
北辰一刀流は、坂本竜馬、海保帆平、清河八郎、伊東甲子太郎ら幕末の志士が学んだ流派です。その弟子三千人を数える江戸三大流派のひとつでした。

そんな千葉周作ですが、その出自は諸説あって、なかなか定まりませんでした。

●誕生地
(1)陸奥国栗原郡荒谷村(宮城県大崎市荒谷)
(2)陸奥国気仙郡気仙村(宮城県陸前高田市気仙)
(3)陸奥国栗原郡花山村(宮城県栗原市花山)

●父親
(1)千葉忠左衛門成胤
(2)千葉幸右衛門

●祖父
 千葉吉之丞(北辰夢想流開祖)

北辰一刀流の命名
(1)北辰夢想流+一刀流
(2)北辰流+一刀流

これらの千葉周作に関する矛盾を見事に解決する書籍があります。

『剣豪千葉周作 ~生誕地の謎を明かす~』(宝文館)佐藤訓雄氏著

これまで千葉周作研究の根本となっていた『千葉周作遺稿』の矛盾や誤記を鋭く指摘され、千葉武雄氏の地道な実地調査による「千葉周作」の発見とその修正点、さらに各説どの説も第三者的な目で緻密な分析をされている研究大作で、周作の出自について研究される方はベースになるものと思われます。

残念なことに版元が廃業しているため、絶版となっていますが、都道府県図書館に所蔵されている場合もあるようです。

興味がある方はご覧ください。

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 千葉周作北辰一刀流

豪徳寺

世田谷豪徳寺へ行ってきました。彦根藩主井伊家の菩提寺です。
小田急豪徳寺駅、世田谷線宮の坂駅が最寄りになります(豪徳寺周辺マップ)。

ネットのニュースに「豪徳寺井伊直弼の墓石修復と調査」という記事を見つけたため、井伊家の墓所も寛永寺徳川家墓所のようについに整理かも? と、さっそく出かけてみました。井伊直弼は安政七年三月三日雪の降る朝、登城するために藩邸を出たのち、桜田門付近で襲撃されて討たれました。

桜田門遠景     桜田門外
 ▲旧彦根藩邸より桜田門を望む       ▲桜田門

彦根藩二代藩主・井伊直孝が鷹狩の帰りに門前にいたこの寺の飼い猫に招かれて寺に入り、豪雨の難を避けたことで井伊家の菩提寺になったという伝承があり、多くの招き猫が奉納されています。江戸時代に井伊家の菩提寺となり、井伊直孝の「豪徳天英」の法名から「豪徳寺」と称されるようになりました。

大老井伊家の菩提寺らしく、かなり広い境内にかなりの参拝の人。境内地の西側半分がこれまた広大な墓所になっています。本堂は仏殿の裏手にありますが、法事が営まれていたので井伊家廟所へ。途中に観音堂とあたらしめの三重塔があります。

豪徳寺2 豪徳寺3 豪徳寺1
 ▲総門         ▲仏殿               ▲観音堂(この脇に招き猫奉納場がある)

墓所の南三分の一程度が井伊家の廟所になっています。廟所入口には藩主や代表的な子女の配置図が記されています。この廟所は平成20年に国指定の史跡に指定されました。

豪徳寺4
 ▲廟所配置図

入口からまっすぐ参道を行くと、井伊直孝の墓石があります。

豪徳寺7
 ▲左側が中興開基の井伊直孝(二代藩主)、右側が井伊直(九代藩主)

直孝墓所の左側には江戸後期の井伊家墓所がありますが、井伊直弼墓所の発掘調査のため立ち入り禁止。説明版が設置されていました。

豪徳寺5
 ▲説明版。江戸時代の豪徳寺絵図と井伊直弼墓所の写真などが紹介されています。

豪徳寺6
 ▲奥の白いビニールシートが井伊直弼墓所。発掘が行なわれたがまだ棺は見つからず。

彦根藩には千葉一族・相馬家も上級藩士として仕えていました。豪徳寺には彦根藩士の墓もあるとネットで見ていたので、相馬家の墓石を探しましたがやはり見つかりませんでした。なお、子孫の相馬永胤は専修大学創始者の一人です。

そのあとは豪徳寺の隣にあった世田谷城跡に行く予定でしたが、時間がなく断念。世田谷城は室町時代につくられた城で、城主は吉良家。忠臣蔵の吉良上野介とは先祖は同じですが、血縁的にはほとんど関係ありません。江戸時代には蒔田と名乗りますが、吉良上野介が赤穂浪士に討たれた後、吉良姓に戻っています。

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

tag : 豪徳寺井伊直弼発掘

持法院の曼珠沙華

 今年も曼珠沙華(彼岸花)で有名な、柏市藤ヶ谷の持法院に行ってきました。

 ここ持法院は千葉一族・相馬氏の菩提寺で、鎌倉時代初期に建立されたという古刹です。室町時代の板碑も発掘されていて、この頃にはすでに伽藍があったと思われます。

持法院1 持法院3

 山門までの参道の左側に赤く茂っています。それほど広範囲に咲いているわけではありませんが、却って真っ赤っかな毒々しさもあまりありません。境内にも所々に咲いていて、中には白や黄色の花も咲いています。とくに黄色のは結構珍しいですね。

持法院2 持法院3

 門前の階段を登っていくと、如意輪寺があります。といっても、お堂がイッコあるだけですが、ここに祀られている如意輪観音は、伝に拠れば鎌倉の千葉介常胤の夢に出てきた観音を彫らせたものとされ、それを相馬氏(相馬師胤とされる)が領地の下総国相馬郡番場村に持参し、草堂を造って祀りました。このとき、草堂を藤の花で覆ったために、「藤萱(フジガヤ)村」と称するようになりました。

 如意輪寺のお堂の裏には、藤ヶ谷相馬宗家のお墓があります。旧陸奥国中村藩(福島県相馬市)の藩主・相馬家は、鎌倉時代末に下総相馬家から分かれて東北へ移った、相馬重胤の末裔で、藤ヶ谷相馬家とは「胤」字と九曜紋が共通しています。旗本になった相馬家も藤ヶ谷相馬家とは遠縁になり、やはり「胤」字と九曜紋が共通です。
 
持法院6 持法院4

テーマ : 柏市周辺
ジャンル : 地域情報

相馬野馬追い 7月25日 +相馬家史跡めぐり

 7月25日、今日は「相馬野馬追」の最後を飾る「野馬懸」です。

 南相馬市小高区(こないだまでは小高町)の相馬小高神社で行なわれる、神馬奉納の儀式です。相馬小高神社は、古く鎌倉時代から室町期にかけて相馬家が居城とした古城址にある神社で、千葉一族・相馬家ゆかりの妙見を祀っています。南北朝時代、南朝の鎮守府将軍・北畠顕家が、惣領代・相馬光胤(関東から東北へ移った相馬重胤の次男)がこの小高城で戦い、相馬一族が多数戦死しました。ただ、六百七十年前の戦いの跡はまったく残っていません。

小高城
 ▲小高城

 9時01分、小高駅着。六百九十年の昔、相馬家が下総から移り住んだ土地です。昨日の夕方から夜にかけての雨がウソっぱちのような晴天です。ジリジリと暑い…いや熱い。。。小高神社まではしばらく歩かなくてはならず、水を買って腕にかけながらの移動です。

 およそ15分で小高神社へ到着。こちらの橋から見える赤い橋は「妙見橋」といい、小高神社の表参道になります。まだ神事が始まるまで時間があるので、相馬家ゆかりの寺址と館跡をめぐることにしました。

 小高神社を左に見て北へ向う坂道を数百メートル行くと、中世相馬氏ゆかりの「金性寺(錦繍寺)」「長命寺」跡があります。今となってはすっかり森になっていますが、かつては小高神社の別当寺として立派な伽藍がありました。その金性寺の南に隣り合っていたのが、「長命寺」です。こちらも相馬家にゆかりの深い寺で、相馬家が下総から持ってきたお寺です。両寺は場所を変え、今でも大きなお寺として残っています。

金性寺址 長命寺址
 ▲金性寺跡           ▲長命寺跡。向こうに見えるのが小高神社裏口。

 その両寺と東西に隣り合っていたのが、相馬家の館(東館)です。今では畑と森になっています。相馬家は小高城を中心に、東西に館を持ち、東館のさらに東には岩迫館を構えていました。まだ神事まで時間があったので、岩迫館、さらに奥にあった歓喜寺の跡へ行くことにしました。

東館 岩迫館
 ▲東館跡            ▲岩迫館跡

 岩迫館をぐるりと東に回って道なりに進むと、やがて行き止まりとなりますが、ここが相馬家の祈願寺だった歓喜寺の跡になります。歓喜寺も相馬家が中村(現在の相馬市中村)へ移るに及び、相馬へ移り、今でも相馬市に広大な寺域を持っています。

歓喜寺址 歓喜寺
 ▲歓喜寺跡            ▲相馬市にある現在の歓喜寺

 時間は9時35分。そろそろ小高神社へ行かないと、場所が取れない。ということで、急ぎ小高神社へ

 神社へつくと、とりあえず全体が見渡せる小高い土盛の上に場所を取ることに成功。木陰なので暑くもなく、涼しい風も吹いてきて、結構ベストポジションです。

 そうこうしている間に、法螺貝が鳴り響き、やがて相馬の民謡「相馬流れ山」がはじまりました。七百年前、下総からこの相馬地方へ下ってきた相馬孫五郎重胤ゆかりの民謡で、重胤が故郷流山(千葉県流山市)を懐かしんで口ずさんだものが始まりとされています。

小高城内法螺 相馬流山
 ▲法螺役による法螺貝         ▲相馬流れ山

 その後、清めの儀式が行なわれて、いよいよ野馬懸神事が始まりました。野に放たれた荒駒を騎馬武者が神社の境内に追い込み、当主側近の御小人が素手で捕らえ、神社に奉納するという、なんとも野性味あふれた神事です。

 やがて、神社の下のほうから怒号と馬蹄の響き! ドドドドド…! と、裸馬と騎馬武者が飛び込んできました! 

野馬懸1 
 ▲境内に追い込まれた馬

 追っている所を見たほうがリアルなんでしょうが、今、この木陰で高見のポジションを動いてしまったら、二度とコノ場所には戻れない。今回は仕方なくこの場所から観戦です。

 最初に入ってきた白馬は、勢いよく飛び込んできたと思ったら、草に滑ってドスンと転んでしまいました。ちょっと呆然としたあと、その馬はのどかに食事タイム。。。「荒駒」とは程遠いイメージです。

野馬懸3 野馬懸5 野馬懸6
 ▲のどかに草をハモハモ…  ▲逃げる!         ▲奉納された馬

 野馬懸一本終るごとに、騎馬武者の一人が、観覧の総大将に終了の報告です。そして、あわせて五頭が境内に集められると、御神水を浸したでっかい刷毛で、馬に目印をつけます。その御神水のついた馬を、御小人が素手で捕らえるわけですが、はじめに目をつけられた白馬は境内から逃げようと、木陰に隠れてしまい、静かに捕まってしまいました

 残りの馬は、のちほど競りの対象となりますが、この馬たちも御小人によって捕らえられます。こっちの馬のほうが「荒駒」を髣髴とさせる暴れぶりを見せていました。

野馬懸2
 ▲逃げる!

 この野馬懸が終ると、馬競りです。何万、何十万と競っていますが、ほんとに買うんでしょうか?? ずいぶん安い買い物のような気がする。。。

 そして、競りも終ると、小高郷による神旗争奪戦です。境内の西の外れの一角で、小高神社の御神旗を打ち上げ、もみくちゃに取り合います。かなり近くでの観戦なので、雲雀が原の争奪戦よりも迫力があります!

小高御神旗
 ▲小高郷による神旗争奪戦

 しばらく観戦したあと、祭りとは離れて史跡の調査です。神旗争奪戦の広場に面して、明治の戊辰戦争時、活躍して戦死した相馬中村藩士の供養石碑が立てられています。その筆頭に見えるのが、相馬藩公家の一門だった相馬将監胤真です。その生没年が不明だったのですが、この石碑によれば三十五歳での戦死だったことがわかります。「鬼将監」と呼ばれた相馬胤真は、西軍に攻められていた平城(いわき市)の援軍に駆けつけ、西軍との戦いの中で陣頭指揮を採り、銃弾に斃れました。

相馬将監
 ▲相馬将監胤真の名

 なお、この相馬将監胤真の子も、父と同じ「胤真」を名乗り、馬術の名人として明治期に名を知られた人物でした。相馬胤真の碑は相馬中村城の大手門をくぐった先に残っています。

 このとき時間はすでに11時45分。11時59分小高駅発の電車に乗る予定なので、ちょっと急ぎ足で小高駅に戻らなくては。そして、11時56分、小高駅着。相馬駅に戻ります。

小高駅
 ▲小高駅

 12時47分、相馬駅着。ここからまず、相馬家の菩提寺の一つ、蒼龍寺(跡)へ向います。すでに蒼龍寺は南の馬場野へ移転してしまっているので、ここにあるのは墓所だけです。この寺の東側には、かつて相馬家御一家の泉家の菩提寺・東泉院がありました。今回はその跡地調査です。…が、もはや何も残っていません 幕末の時点では泉家歴代の墓碑が残っていたのですが、今は住宅となっています。そりゃそうか。

 続いて、相馬将監・相馬主税など相馬家御一家衆の菩提寺だった永祥寺跡へ。ここ一帯は「北山史跡」として昭和50年代まではかなり史跡が残されていたようですが、今は住宅と道路に様変わりしています。そんな中でも永祥寺跡はしっかり残っていて、住宅地に残されたちょっとした山道を入ると、多くの碑が残っていました。ただ、高台にあるためか、文字はすっかり風化しています。

永祥寺1 永祥寺2
 ▲永祥寺跡に残る石碑群  ▲永祥寺跡遠景

 これにて野馬追いおよび、相馬家史跡めぐりは終了です。

 帰りの5時過ぎの上り電車を待つ間の残り時間は、駅前の図書館で資料の閲覧+納涼。。。 やっぱし酷暑の中の図書館は天国です。。。

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