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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その七(比企氏)

●比企尼について

 久安3(1147)年に京都で誕生した源頼朝の乳母として登用されたのが、のちの比企尼となる女性でした。そして、この比企尼の娘「丹後内侍」が藤九郎盛長の妻となる女性とされていました。ただし、これまでの考察で見たように、比企尼の娘は源家に女房として仕えた「丹後局」で島津忠久の母となった女性であって、藤九郎盛長とは何ら関わりのない人物です。藤九郎盛長の妻は「丹後内侍」で、出自は不明ながらおそらく頼朝母の出身家・熱田大宮司家と何らかのかかわりを持っていた女性の可能性があります。

 永暦元(1160)年、頼朝が平治の乱の罪により伊豆に流された際、比企尼は「存忠節余、以武蔵国比企郡為請所、相具夫掃部允、掃部允下向、至治承四年秋、廿年之間、奉訪御世途、今当于御繁栄之期、於事就被酬彼奉公」(『吾妻鏡』寿永元年十月十七日条)と、「武蔵国比企郡」を「請所」とし、夫の掃部允とともに比企郡へ下向しました※1。そして、「掃部允」は治承四年秋までの二十年にわたって頼朝を援助し続けたとあります。このとき、比企郡を請所とした主体は「比企尼」であることから、比企郡は掃部允所縁の地ではなく、もともとは比企尼由縁の地であったことが想定されます。比企郡は在京国司に代わって国務を奉行した留守所の秩父氏が支配する一帯であり、比企尼はその支配を受ける郡司層(比企氏)の出身家だったのでしょう。娘の一人が秩父氏惣領家の河越太郎重頼の妻※2になっているのもそれを物語っています。

 頼朝誕生の前年「久安四年歳時戊辰二月廿九日」に、「當国大主散位平朝臣茲縄」が比企郡の平沢寺に経筒を埋納してますが、「茲縄」は留守所の秩父権守重綱のことで、自ら武蔵国大主と称するほどの権力を有していたことがわかります。そして、この重綱の妻(乳母御前)は頼朝の兄・源太義平の乳母で、義平からは「御母人」と慕われていました。義平は永治元(1141)年の生まれであり、頼朝の父・源義朝は、当時東国で重綱と深く交わり、その妻を義平乳母に起用したものと思われます。比企尼の起用も重綱所縁の女性を求めたためかもしれません。

●比企掃部允について

 比企尼の夫である「掃部允」とはいかなる人物だったのでしょう。『吉見系図』(『群書類従』所収)によれば「武州比企郡少領」と記されています。ところが「掃部允」は「六位侍任之」(『職原鈔 上』)という官職であって、仁平元(1151)年9月28日には橘景良が「皇嘉門院御給」によって「掃部允」となり、保元3(1158)年11月17日に中原基兼が「院当年御給」によって「掃部少允」となっています(永井晋編『官吏考証』続群書類従完成会 1998所収「保元三年秋除目大間」)
 このように、「掃部允」は中原氏、惟宗氏、橘氏などを出自とする侍品が就任する実務官でした。つまり比企尼の夫「掃部允」もおそらく在京の実務官僚家出身の可能性を考えるべきでしょう。掃部允某が「掃部允」だった時期については不明ですが、頼朝が伊豆に流された永暦元(1160)年までに掃部允の官職にあって、比企郡に下向以降は名乗りとして定着したものと思われます。

【参考】諸書に見える掃部允
・橘景良…仁平元(1151)年9月28日「掃部允」:皇嘉門院御給(『山塊記』除目部類)
・中原基兼…保元3(1158)年11月17日「掃部少允」:院当年御給(永井晋編『官吏考証』続群書類従完成会 1998所収「保元三年秋除目大間」)
・平景弘(佐伯景弘)…応保2(1162)年正月27日「掃部允」(『山塊記』除目部類)
 ※掃部属は同族の佐伯忠盛が任じられた

 比企郡に下った掃部允は、おそらく比企尼の出身家と思われる比企氏(比企郡司?)を継承し、比企郡内で「タウ(党)」を組織していたことが「ヒキハ其郡ニ父ノタウトテ。ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ。一万御前ガ母ヲバマウケタル也。ソノ行時ハ又児玉タウヲムコニシタルナリ」(『愚管抄』)からうかがえますが、この「タウ」とは武蔵七党のような強大な武士団ではなく、比企氏という地方豪族そのものを指すのでしょう。郡司職である「比企郡少領」は国司の指示を受ける立場にありましたが、国司の平知盛は在京のため、在地の河越太郎重頼の支配のもとにあったと推測されます。

 『吉見系図』では比企尼が女聟三人(盛長、河越重頼、伊東祐清)を指図して頼朝を支えたと見えますが※3、『吾妻鏡』では頼朝が「被酬彼奉公」により「件尼、以甥義員為猶子、依挙申」と見え、頼朝は掃部允の奉公に感謝の念を持ち、それに酬いんがために、比企尼の甥(姉妹の子)である「義員」を尼の猶子として召したとあり、配所の頼朝をおもに支えたのは掃部允であったと推測されます。この事実は平家政権も把握していたと見られ、源三位の乱への参戦のために在京していた相模国の大庭三郎景親が、平家被官の上総介藤原忠清から「北條四郎、比企掃部允等、為前武衛於大将軍、欲顕叛逆之志者」(『吾妻鏡』治承四年八月九日条)と聞かされています。比企掃部允は北条時政と同等の危険分子として平家から警戒されていたことを物語ります。しかし、景親は「北条者已為彼縁者之間、不知其意、掃部允者、早世者也者」と返答しており、掃部允は治承4(1180)年5月までに亡くなっていたのでしょう。

 なお、比企掃部允の比企家を継承したのは、比企藤内朝宗と思われます(比企尼の実家・郡司比企氏の出身か)。彼は「内舎人」として朝廷に伺候した経歴があったと見られ、『吾妻鏡』の記述方法からも比企尼の猶子・比企藤四郎能員よりも一族内での格は上でした(能員はあくまで比企尼の所領を継承した新立の比企氏別家の立場か)。しかし、比企能員は比企尼の由緒で若公頼家の乳母夫となって以降権勢を増し、朝宗を上回る右衛門尉・検非違使に補任されるに及び、比企氏を統べる立場になったと思われます。

 余談ですが、のちの鎌倉幕府の中枢を担った中原親能・大江広元らの父(義父か)にあたる中原広季は掃部寮の長官である「掃部頭」に任官していた可能性が高く(『尊卑分脈』※4)、掃部允の上官だった可能性も?

※1 のち平家が彼を「比企掃部允」と呼称していることから、比企郡に在住した可能性が高いだろう。

※2 『吾妻鏡』寿永元(1182)年八月十二日条、頼家誕生に伴う諸儀式の記録の中に「河越太郎重頼妻比企尼女、依召參入、候御乳付」とあることから、河越重頼の妻は比企尼の娘であった事は間違いない。『吉見系図』では比企尼の娘は三人記載されているが、『吾妻鏡』で比企尼の娘と明記されているのは、河越重頼の妻のみである。重頼の嫡子・河越重房は比企尼娘所生とすれば、仁安三(1168)年生まれ(『源平盛衰記』)と推測される。当時、河越重頼は平家の被官であるため、重頼と比企尼娘との婚姻は頼朝の指示ではなく、地縁(血縁)に拠った比企尼と河越氏との間での婚姻と考えられよう。

※3 『吉見系図』に見られるような、比企尼が聟三人に指示を出して生活を支えていたという記述については、そもそも盛長は頼朝を扶持できるような自領はなく、妻の「丹後内侍」は比企尼の娘ではない。河越重頼は平知盛に伺候する立場にあり、伊東祐清は父・祐親入道が平家与党であって頼朝を援助する力はない。これらのことから『吉見系図』の記述は後世の伝であると考えられる。

※4 『尊卑分脈』によれば、小一条流の大膳大夫藤原時綱の母は「掃部頭広季女」とある。この小一条流は陸奥守藤原師綱以来、大膳大夫を歴任しており、大江広元の陸奥守、大膳大夫といった任官はこの師綱流藤原氏の由縁かもしれない。また、中原親能・大江広元の掃部頭への任官は、養父の中原広季の先例であろう。
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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その六(丹後内侍)

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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その五(丹後内侍と丹後局)

●「丹後内侍」と「丹後局」

「丹後内侍」は藤九郎盛長の妻となった女性で、通説では比企尼の娘「丹後局」と同一人物とされています。
 しかし彼女について明確な伝はなく、比企尼との関連も系譜以外に伝えられているものはありません。はたして「丹後内侍」と「丹後局」は同一人物と考えてよいのでしょうか。

 まず、比企氏関係の伝で「丹後内侍」および「丹後局」が記載されているものには、三河守範頼の裔・吉見氏に伝わる『吉見系図』と、薩摩島津氏に伝わる島津家正史『島津氏正統系図』の二種があり、それぞれ比企氏出身者として「丹後内侍」「丹後局」を挙げています。

(一)『吉見系図』

 「比企尼の娘」である「丹後内侍」と藤九郎盛長が婚姻し、その娘が三河守範頼の妻となって二人の男子を産んだとされています。
 また、丹後内侍は盛長との婚姻前に惟宗広言と「密通」して惟宗忠久(島津忠久)を産んだとあります。

(二)『島津氏正統系図』

 比企判官能員(比企尼養子)の妹「丹後局」が頼朝の寵愛を受けて身籠り、御台所政子に鎌倉を追われて「摂津住吉」で男子(のちの忠久)を出産したと記載されています。

(三)『吾妻鏡』
 文治2(1186)年6月10日条、6月14日条に、丹後内侍の病悩の見舞いのため、頼朝が供を二人のみ連れて密かに甘縄邸を訪問していること、病悩平癒のため密かに立願していたこと、14日には平癒を聞いて安堵していることが記されています。

(一)(二)共通しているのは、「丹後内侍」または「丹後局」が比企氏由緒であるという点です。そのうち「丹後局」が比企氏由縁であることは、子の島津忠久が建仁3(1203)年9月2日の「比企能員の乱」で、能員の「縁坐」として日向・薩摩・大隅三国の守護職を解かれていることからも明らかです。ところが、この島津家伝には「丹後局」と藤九郎盛長との関係は一切記されていません。つまり、島津家には藤九郎盛長の伝承はなかったのでしょう。(三)については史実が記されている可能性が高いです。

(一) 「丹後内侍」は比企尼娘で藤九郎盛長の妻。京都の惟宗広言と密通して島津忠久を生む(=忠久母)。
(二) 「丹後局」は比企尼娘。頼朝の寵愛を受けて島津忠久を生む(=忠久母)。
(三)・「丹後内侍」は藤九郎盛長の妻。(『吾妻鏡』では「丹後内侍」を女房「丹後局」と同一視することはない)
   ・「丹後内侍」は安達景盛の母。
   ・「嶋津左衛門尉忠久」は「能員縁坐」で九州三か国の守護職没収。建仁3(1203)年9月4日条

(三)から、盛長妻は「丹後内侍」であって「丹後局」ではないことがわかります。つまり、「丹後内侍」は比企尼娘である「丹後局」ではないため、安達氏と比企氏の間に縁戚関係はないことになります。そして、嶋津忠久は比企能員の縁戚だったことがわかるため、忠久の母は系譜に見える比企尼娘「丹後局」であると推測されます。

「藤九郎盛長妻」=「丹後内侍」≠「丹後局」=「比企尼娘」「嶋津忠久の母」

(一)『吉見系図』では、比企尼娘「丹後内侍」が盛長との婚姻前に惟宗広言と密通して、島津忠久を出産したと記載されています。『吉見系図』では嶋津忠久は惟宗氏出身であると明確にしており、(二)『島津氏正統系図』のような頼朝落胤という伝はありません。しかし、嶋津氏は吉見氏とはまったく縁戚関係のない家であるにも関わらず、「丹後局」の説話が吉見氏の創生譚に取り込まれたのはいかなる理由があったのでしょう。

 推論ですが、おそらく自家の祖・三河守範頼の妻が藤九郎盛長の娘である以上、その母である「丹後内侍」の出自についても記す必要に迫られ、「丹後内侍」の情報を集めた結果によるものと思われます。その「丹後内侍」にまつわる様々な情報が系譜に取り込まれたことにより、「無双歌人」の性格(源三位頼政の私歌集『頼政集』に登場する「丹後内侍」の説話を取り込んだもの)が付与。そして、吉見氏が武蔵国横見郡吉見庄を比企尼から継承したという理由付けとして、島津家の「比企尼娘・丹後局」の伝を吸収したものと思われます。『吉見系図』では、もともと吉見氏に伝わっていた盛長妻「丹後内侍」の情報と、比企尼娘である「丹後局」の性格が合成されてしまったものでしょう。

 「丹後内侍」と「丹後局」が同一視された時期としては、弘安8(1295)年11月に勃発した「霜月騒動」よりも後、さらに言えば南北朝期と思われます。実は「霜月騒動」の発端の一つが、「丹後内侍」の子・安達景盛が実は「忝モ右大将頼朝卿ノ末」(『保暦間記』)という噂だったのです。景盛の子孫である安達氏が実は頼朝の落胤であり、将軍の座を狙っているという噂がたち、結局安達一族は滅ぼされてしまいます。このいわば源氏将軍の「呪縛」が解かれた南北朝期、嶋津氏は祖・忠久は「丹後局」が頼朝の寵愛を受けて生まれた落胤であるという筋書を作り上げました。これは、盛長妻「丹後内侍」が頼朝から丁重に扱われていた説話をエッセンスとして取り込んだ可能性は高いと思われますが、それは「丹後局」が頼朝から寵愛を受ける動機付けとして取り込まれたに過ぎず、比企尼娘「丹後局」と盛長妻「丹後内侍」を同一とすることはなく、嶋津家の伝では藤九郎盛長についての記述はありません。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その四

●安達氏と比企氏、頼家、北条氏との関係、その後の安達氏

 頼朝のもとには様々な出自の御家人が参集したが、とくに頼朝との私的関係から御家人になったのが、安達氏のほかでは北条氏(頼朝縁戚家)と比企氏(頼朝乳母家)が代表です。北条氏は頼家の外戚家ですが、頼家を養育したのは頼朝の命を受けた比企氏(頼朝乳母家)でした。頼家は北条氏と対立していた比企氏の影響を強く受けて育ったため、北条氏に対して反抗的な態度を持っていました。

 比企氏と安達氏の関係については、祖の藤九郎盛長は比企尼(頼朝乳母)の娘を妻としたとされ、比企氏と安達氏は親密な関係にあったとされています。しかし、実際はどうなのでしょう。

 推論ですが、盛長の妻・丹後内侍は後述のように実際には比企尼娘ではなく、頼朝の母方・熱田大宮司家所縁の女性で、丹後守ゆかりの人物を縁者に持っていた可能性が高いと思われます。安達氏は御台所との緊密な関係を考えると、北条氏と親密であって、北条氏と対立関係にあった比企氏とは疎遠であったと考えられます。また、藤九郎盛長以降、安達氏は上野国奉行人を務めていますが、比企右衛門尉能員は奥州征討時に上野国高山・大胡などの御家人を率い、上野国渋河の御家人・渋河兼忠の娘を室とするなど、比企氏と安達氏は上野国内における権力の重なりがみられ、比企氏と安達氏はこの部分でも対立関係にあった可能性があります。安達氏が比企氏と縁戚関係になかったのは、建仁3(1203)年9月2日の比企能員の乱で安達氏が一切罰せられていないことからも明らかでしょう(当時鎌倉におらず戦いに直接加わっていない比企能員の義甥・島津忠久ですら大隅薩摩日向三か国の守護職を没収)。

 頼家の安達氏敵視は北条氏敵視と重なっている可能性が高く、建久10(1199)年3月23日、頼家は三河国内の「太神宮御領六箇所被止地頭職」を行いました。これは、頼家が将軍宣下を受けた直後に行った「御宿願」とありますが、この六か所の地頭職は北条時政と盛長(推測)であるため、北条氏と安達氏へ対する一種の敵視政策の一環の可能性が考えられます。

 しかし、三代将軍・実朝は頼家とは異なり北条氏の影響下で育っていたためか、頼朝同様に安達氏を優遇しました。安達景盛は実朝政権下で信任を受けてその側近として活躍しますが、「源家の私的従者」の性格は継承されており、承久の乱に際しては、景盛が「二品(政子)」の言葉を代弁して御家人らに訓示している点(『吾妻鏡』承久三年五月十九日条)や、頼朝の姪孫にあたる皇子降誕(順徳天皇皇子、のちの仲恭天皇)に対する使者として上洛(建保六年十月二十七日条)するなど、頼朝・政子に繋がる事柄への対応が目だっています。

 御台所や実朝を通じて北条氏と親密な関係にあった安達景盛は、娘を執権北条泰時の長男・時氏へ嫁がせて縁戚関係となり、その子・経時や時頼を執権に擁立し、執権北条氏の外戚として安達氏は大きな力を持ちました。

 その後、宝治元(1247)年6月の「宝治合戦」で宿敵の三浦一族を葬り去り、景盛の孫・泰盛の代にその卓越した手腕も加わり、安達(城)氏は幕府最高執行機関である評定衆、引付衆にも選ばれて権勢は最高潮に達しました。ところが、北条宗家の内管領・平頼綱入道との対立が激化し、弘安8(1285)年11月17日、泰盛は殺害され、安達一族も全国で討たれて安達宗家氏は滅亡しました(霜月騒動)。

 ただ、安達氏は族滅したわけではなく、生き残った安達氏はその後も北条氏の縁戚として幕政に参与しましたが、鎌倉幕府の滅亡とともに一門の多くが幕府と運命をともにしました。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その三

●安達氏の性格

 安達氏の氏族としての特徴は、まず源家との強い「私的な主従関係」が挙げられます。おそらく盛長はもともと頼朝個人の「私的従者(雑色的な性格も兼ねる)」であり、頼朝の深い信頼関係で結ばれた近臣として重用されました。この盛長の出自から、その後の源家の「執事」的な氏族的立場が生まれたのでしょう。

 では、盛長はいつから頼朝に仕えたのでしょう。盛長は少なくとも平治元(1159)年12月の「平治の乱」の時点では頼朝と行動をともにしていないため、仕えた時期は、永暦元(1160)年3月に頼朝が伊豆に流された後であろうと思われます。先述のように、盛長は熱田大宮司家との関係が考えられ、頼朝出仕の時期やその信頼感から考えて、頼朝配流の際、頼朝の叔父「祐範」が付けた「郎従一人」が盛長そのひとである可能性も強ち有り得ないことではありません。

 頼朝配流から二十年後、藤九郎盛長は頼朝挙兵に当たっては各地の「累代御家人」に協力を依頼する使者として走り回り、千葉介常胤を味方に引き入れることに成功しました。鎌倉入部後は頼朝が尊崇した甘縄の伊勢社の管理のためか「甘縄」に屋敷を構えました。この盛長の「甘縄邸」は、後述のように、その後の頼朝をはじめとする歴代将軍が公式行事を行ったり、仮御所としたりするなど「公邸」の意味合いを持っていた様子がうかがえることから、「甘縄邸」はおそらく「源家別邸」的な性格の施設として建てられたものと思われます。そして、もっとも信頼する従者で、執事的存在の藤九郎盛長を主として据え置き、子孫の安達(城)氏もこれを代々継承していったのでしょう。頼朝が行った最初の「公的行事」は、治承4(1180)年12月20日の、新造御所から他所へ移る「御行始」でした(『吾妻鏡』治承四年十二月廿日条)。

 こうした盛長の頼朝個人の「私的従者」という性格は、盛長が宿老になっても残り、生涯を通じて官途に就くことがなかったのは、一般の御家人とは一線を画す存在だったためでしょう。名字を名乗らなかったのも頼朝個人の「私的従者(一部雑色的な存在)」の性格を有していたためでしょう。頼朝薨去の直後に「安達」の名字を称するようになりますが、これは頼朝個人との「私的従者(一部雑色的性格)」関係が解消されたということかもしれません。ただし、その後の安達氏と源家(尼御台含め)との個人的な繋がりは維持されており、それは個人の「私的従者」という立場から家の「私的従者(執事的存在)」へ昇華していると思われます。

 ところが、盛長のこうした「従者」という出自は、三浦氏ら有力な御家人からは一等低く見られていた可能性があり、宝治元(1247)年6月5日、安達景盛入道が子の城介義景、孫の城九郎泰盛を招いて、「被遣和平御書於若州之上者、向後彼氏族、独窮驕、益蔑如当家之時、憖顕対揚所存者、還可逢殃之條、置而無疑、只任運於天、今朝須決雌雄、曽莫期後日」と叱責している通り(『吾妻鏡』宝治元年六月五日条)、「当家を蔑如」にしてきた三浦泰村の態度がうかがわれます。

 そして、安達氏が源家の私的従者との認識が端的に表れているのが、頼朝の後継者である二代将軍・源頼家による景盛追討令です。正治元(1199)年8月、藤九郎盛長入道の管掌国・三河国で起こった叛乱の鎮定を景盛に命じ、その留守中に景盛の妾女を強奪するという暴挙に出、さらに帰国後に不平を言った廉で景盛追討を企てました。これは頼家が安達氏を「私的従者」であるとの認識があったからに他ならないでしょう。これは決して頼家だけの認識ではなく、政所別当・中原広元(のち大江広元)が「如此事非無先規、鳥羽院御寵愛祗園女御者源仲宗妻也、而召 仙洞之後、被配流仲宗隠岐国」と、頼家と景盛の関係を鳥羽院と源仲宗(院近臣)との関係に准えており、御家人中にも、安達氏は源家の「私的従者」であるという認識があったことをうかがわせます。

 なお、この強奪事件では、頼家の命を受けた「鎌倉中壮士等」が「藤九郎入道蓮西之甘縄宅」へ押寄せたため、尼御台がみずから甘縄邸に駆けつけ、頼家を激しく叱責し「若猶可被追討者、我先可中其箭」とまで言って、諸士を引き上げさせており、安達氏と尼御台は非常に緊密な関係にあったことがうかがわれます。頼家の安達氏(とくに景盛)に対する「敵意」は、頼家が伊豆国修善寺に押し込めになったのちも続き、「於安達右衛門尉景盛者、申請之、可加勘発之旨」を尼御台に対して願っていますが(『吾妻鏡』建仁三年十一月六日条)、「御所望条々、不可然」と悉く却下されました。この頼家の安達氏に対する激しい敵意は、その育った環境が強く影響していると思われます。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その二

●藤九郎盛長の出自

 前条のことから、藤九郎盛長は武蔵足立氏とは血縁関係のない氏族出身者と推測されますが、では盛長はどのような出自の人物だったのでしょう。明確な資料は残されておらず「推測」となりますが、

(一)頼朝の叔父に当たる「法眼範智」の伝に「藤九郎盛長〃人云々」の記述が見られ、盛長と熱田大宮司家の関連をうかがわせる(『尊卑分脈』)
(二)頼朝は母所縁の人物をことのほか大事にした→流人時代から盛長を殊に重用していた
(三)盛長は熱田大宮司家に所縁のある三河国との接点が深い
(四)子孫と思われる城九郎直盛は、尾張国の熱田大宮司領を押領し訴えられている→大宮司家との接点が?
(五)頼朝の配流にあたって、頼朝叔父「祐範」が付けた「郎従一人」が盛長そのひとの可能性?

などの理由から、熱田大宮司家と所縁の人物であろうと推測されます。また、盛長の妻「丹後内侍」も、その後の頼朝の特別な配慮から、こちらも熱田大宮司家との関係が強い可能性があります。

 ただ、一方で盛長は伊勢神宮との関連も感じさせる一面があります。

(一)盛長は伊勢別宮たる鎌倉の「甘縄神明社」の維持管理を任されていた。
   ⇒盛長邸(甘縄邸)が甘縄に造営された理由は、甘縄神明社の守護・管理のためと推測。
(二)盛長が奉行人を務めた「上野国」は、鎌倉時代初期には坂東諸国と比較すると伊勢神領がとても多い。
 〔参考〕建久3(1192)年8月当時の坂東諸国の伊勢神領(「神鳳抄」:『鎌倉遺文』614)
  国名    神領  
  相模国  大庭御厨、(鎌倉御厨?)
  武蔵国  榛谷御厨、七松御厨、大河土御厨
  上野国  薗田御厨、須永御厨、青柳御厨、玉村御厨、高山御厨、邑楽御厨
  下野国  片梁田御厨、寒河御厨
  安房国  東條御厨
  下総国  相馬御厨、夏見御厨
  常陸国  小栗御厨

(三)盛長が奉行人をつとめた「三河国」も伊勢神領が多い
   ⇒後年、二代将軍頼家が三河国の神領六ヶ所の権限を「地頭」から取り上げて伊勢神官の裁量とするが、
    その後、盛長の代官が狼藉を働いたとして伊勢神官が幕府に訴えている。
(四)安達(城)氏の被官・野田氏は、尾張国内の伊勢神領・野田御園の氏族か。

 しかし、伊勢との関わりについては、頼朝がもっとも信頼する家人盛長へ、尊崇する伊勢社の管理を任せたという理由であって、盛長の出自とは関係はないと思われます。また、上野国の奉行人についても、これは木曾義仲の上野・信濃への拘りに対する措置と思われることから、国奉行就任と伊勢神領との関わりもないと思われます。やはり、盛長は熱田大宮司家と何らかのかかわりを持っていた人物と思われます。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その一

「安達氏」は、鎌倉時代の有力御家人の一族ですが、実はその出自には諸説あってよくわかっていないというのが実際のところです。祖は、源頼朝のの従者として『吾妻鏡』にみえる「藤九郎盛長」という人物なのですが、実はこの始祖・藤九郎盛長がどのような人物なのか、前半生が判然とせず、頼朝に仕えたきっかけや時期すらはっきりしていません。

 現在では、武蔵足立氏の一族とされ、源頼朝の乳母・比企尼の長女である丹後内侍を妻とし、これをきっかけに頼朝に随い、御家人に列したというのがほぼ定説となっているようです。武蔵足立氏の当主・足立遠元の娘は、後白河院近臣の藤原光能(後白河院皇子・以仁王妾の兄弟)に嫁いでおり、足立氏は頼朝挙兵に深く関係した以仁王との関わりが指摘されています。

 しかしながら、具体的に安達氏が足立氏とともに行動する様子は『吾妻鏡』からはうかがえず、縁戚関係については『尊卑分脈』とそれを基にしたと推測される系譜以外にみられません。

 いったい安達氏とはどのような出自を持ち、どのような過程を経て成長していったのか、推論してみます。

●安達氏の出自

 安達氏は武蔵国足立郡の豪族・足立氏の一族であるという研究があります(金沢正大「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義‐上‐」『政治経済史学156』、「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義-下-」『政治経済史学157』)。

 たしかに『尊卑分脈』には魚名公流に藤九郎盛長の名が見え、世代的にも問題はありません。しかし、安達氏と足立氏が同族であるという点には、やはり否定的に見ざるを得ません。

【一】藤九郎盛長にはもともと郎従など被官層がいない

 まず、安達氏が武蔵国の有力豪族である足立氏と同族であれば、当然、安達氏も足立郡ゆかりの郎従がみられるはずですが、記録に残る初期安達氏の郎従としては、始祖・藤九郎盛長が国奉行を務めた「上野国」や秩父地方、別庄のあった武蔵南部の武士であって、足立郡内の氏族は見えません。

『吾妻鏡』(元久二<1205>年六月二十二日条)
・畠山重忠の乱で、安達景盛が先陣したときに率いた郎従六騎(参考:福島金治『安達泰盛と鎌倉幕府』有隣堂)
 ●野田与一 三河国愛智郡野田御園(愛知県名古屋市中川区野田~中村区野田町)か
 ●加治次郎 (宗季) 武蔵国高麗郡加治(飯能市岩沢)
 ●飽間太郎 上野国碓氷郡飽間郷(安中市秋間)
 ●鶴見平次 武蔵国鶴見郷(横浜市鶴見区)
  ・仁治二(1241)年十一月四日条に「秋田城介義景」の「別庄」記載。
 ●玉村太郎 上野国玉村御厨(佐波郡玉村町)
  ・たまむらのむまの太郎やすきよ:元寇時の安達泰盛の執事(1274年)
  ・たまむらの三郎盛清:元寇時の安達盛宗の側近(1281年)
 ●与藤次 不明

 もちろんこの六騎が景盛の抱えるすべての郎従ではありませんが、六騎はのちに執事家になった玉村氏がみられるため、景盛の側近かつ鎌倉の甘縄屋敷に常駐した主要な郎従たちと思われます。

 ①主要な郎従に新規被官層が就いている
 ②頼朝配流先で藤九郎盛長に被官がいた形跡がない

これらのことから、盛長はもともと被官はおらず、取立てによって新規被官を獲得したということと思われ、足立郡内に勢力を有していた武藏足立氏との積極的な関係性をみるのは困難と思われます。

【二】盛長が「アダチ」を称したのは晩年のみ

 実は『吾妻鏡』には、安達氏が「足立」としてみられる記事があります。
 ・正治元(1199)年十月廿七日条:「足立藤九郎入道」

 ところが、翌日には「安達藤九郎盛長入道」と記述されており、その後も盛長子息・景盛が「安達」を称していることからも、「足立藤九郎入道」の「足立」は「アダチ」と訓むが故の当て字であるとする方が自然でしょう。

 盛長や景盛が「安達」姓を称した実際の時期は不明ですが、同年4月時点で盛長は「藤九郎入道蓮西」(『吾妻鏡』建久十年四月十二日条)、7月には「安達弥九郎景盛」と見えることから(『吾妻鏡』正治元年七月十六日条)、4月から7月あたりのことかもしれません。盛長が晩年まで頑なに名字を名乗らず「藤九郎」と称していたのは、もともと盛長自身に領所を由緒とする「名字」が存在しなかったためであることと、後述の頼朝個人との「私的主従関係」に基づくものかもしれません。

 建久10(1199)年正月十三日の頼朝薨去の直後ともいえる時期に「安達」姓を称したのは、頼朝の死によって盛長が頼朝個人との「私的主従関係」を解消(ただし、源家および鎌倉殿との伝統的な私的主従関係は鎌倉時代を通じて存続)し、名字を名乗って一般御家人と同格となったためか。「安達」の由緒も確定的ではありませんが、陸奥国安達保(後年の建保6年立券)の地頭職などの所以か?

【三】『尊卑分脈』の疑問

 『尊卑分脈』によれば、足立氏と安達氏は共通の祖として小野田三郎兼広の名が見えます。その長男が「安達六郎」こと「小野田藤九郎盛長」、次男が「安達藤九郎」こと「民部丞遠兼」となっています。この次男・遠兼の子が「足立左衛門尉遠元」となっており、遠元は藤九郎盛長の「甥」ということとなります。しかし、

 ①足立遠元は平治元(1159)年12月の「平治の乱」ですでに源義朝の郎従として活躍し「右馬允」に任官。
 ②足立遠元の娘所生の二位藤原光俊(藤原光能の子)は治承3(1179)年生まれ。
 ③盛長が「城介」とされ、小野田姓を称する。
 ④盛長が「六郎」を称した傍証はなく、遠兼項の「安達藤九郎」との混濁?

といった疑問点が生じます。同じく『尊卑分脈』によれば盛長は保延元(1135)年生まれ(没年等からこれはほぼ妥当か)とされており、①②によって足立遠元は藤九郎盛長よりおよそ一世代前の人物と推測されます。『尊卑分脈』の記述を信用すれば、遠元は盛長より相当年上の甥ということになり、あまり現実的ではありません。そのほか、③のように盛長に対して「城介」とされていることや、『吾妻鏡』等の史料で盛長を小野田とする記述はないこと、④のように、盛長・遠兼の通称に明らかな混乱がみられる部分からも、『尊卑分脈』に採用された安達氏系譜の信頼性は非常に低いものと言わざるを得ません。

※足立遠元の父・遠兼の来歴はまったく知られませんが、大治5(1131)年12月2日の「女院熊野詣御門出」に際し、列した鳥羽院武者所の「侍」として「兼仲、為雅、頼倫、国政、実信、遠兼」が見えます(『中右記』大治五年十二月二日条)
 ・「国政」:摂津源氏頼綱の子・源国政?
 ・「実信」:秀郷流藤原氏の後藤実信?
 ・「遠兼」:足立遠兼?

 この時代、鳥羽院北面に良門流「藤原遠兼」がいますが、彼は父は従四位上大膳大夫親輔、自身ものちに従四位下左馬助まで昇っていて(『尊卑分脈』)、彼は侍品ではありません。

千葉常重はほんとうに大椎から千葉に移った?

 千葉氏が千葉以前は「大椎」に本拠を構えたとされています。しかし、はたしてそれは事実か、若干の考察を試みます。

 千葉介常胤の父・常重が千葉に移住したとされるのは大治元(1126)年とされています。ところが、『吾妻鏡』承元三(1209)年十二月十五日条に、千葉介成胤は

「先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間」

と見えることから、当時の千葉宗家の伝承には、先祖の「千葉大夫」が元永年中(1118~19)には千葉庄の検非違使として、千葉に在住していた記録が残されていたと考えてよいでしょう。「千葉大夫」については、時代からも『桓武平氏諸流系図』に「千葉大夫」としてみられる常重に相当します。このことから、常重が千葉へ移ったとされる大治元(1126)年にはすでに常重は千葉に地盤を築いていたことになります。そもそも「本拠」に腰を据えずに短期間のうちに数回の変遷をみるのは不自然です。ではなぜ、常重は「大椎」から「千葉」に移住したとされたのでしょう。それはおそらく、系譜上の誤記から発生したものと推測されます。

 千葉氏の記載がある系譜で比較的古いものとしては、鎌倉期成立とみられる『桓武平氏諸流系図』および鎌倉期に肥前国小城に渡った千葉家系譜の写本『徳島本千葉系図』がありますが、常重の項目については、それぞれ

 『桓武平氏諸流系図』:「大権介」
 『徳島本千葉系図』 :「大椎介」

となっています。「権」「椎」の行書体は非常に似通っており、この「大権介」「大椎介」は同じことを指していると考えられます。ではどちらが正しいのでしょう。結論から言えば、古い千葉家の伝を引いてエッセンスとしたとみられる平家物語の異本『源平闘諍録』にも「大権介」とみえますので、おそらく「大権介」が本来記載されていたものと推測されます。この「大」については、常重の子・常胤についても『桓武平氏諸流系図』には「大千葉介」との記載があることから、敬称としての「大」であると推測されます。さらに、室町期成立とみられる千葉家伝『千学集』においては「大椎権介」という記載のされ方に変わります。

 以上のことを踏まえた推論としては、
①もともとこれらの千葉家に関する系譜の根本となった「原」系譜が存在
 ・常重:「大権介」

②系譜が転記される中で「権」と「椎」が混同
 ・常重:「大権介」「大椎介」

③「大椎介」写本の系譜が「原」系譜と突合され、「椎」を「権」と側註が記載される
 ・常重:「大椎(権)介」

④室町期までに「大椎権介」と記載の系譜ができあがる
 ・常重:「大椎権介」⇒この系統の系譜の伝を引いて『千学集』の常重の肩書きが記される

あくまで推論ですが、このような可能性も否定できないかと考えます。

持法院の曼珠沙華

 今年も曼珠沙華(彼岸花)で有名な、柏市藤ヶ谷の持法院に行ってきました。

 ここ持法院は千葉一族・相馬氏の菩提寺で、鎌倉時代初期に建立されたという古刹です。室町時代の板碑も発掘されていて、この頃にはすでに伽藍があったと思われます。

持法院1 持法院3

 山門までの参道の左側に赤く茂っています。それほど広範囲に咲いているわけではありませんが、却って真っ赤っかな毒々しさもあまりありません。境内にも所々に咲いていて、中には白や黄色の花も咲いています。とくに黄色のは結構珍しいですね。

持法院2 持法院3

 門前の階段を登っていくと、如意輪寺があります。といっても、お堂がイッコあるだけですが、ここに祀られている如意輪観音は、伝に拠れば鎌倉の千葉介常胤の夢に出てきた観音を彫らせたものとされ、それを相馬氏(相馬師胤とされる)が領地の下総国相馬郡番場村に持参し、草堂を造って祀りました。このとき、草堂を藤の花で覆ったために、「藤萱(フジガヤ)村」と称するようになりました。

 如意輪寺のお堂の裏には、藤ヶ谷相馬宗家のお墓があります。旧陸奥国中村藩(福島県相馬市)の藩主・相馬家は、鎌倉時代末に下総相馬家から分かれて東北へ移った、相馬重胤の末裔で、藤ヶ谷相馬家とは「胤」字と九曜紋が共通しています。旗本になった相馬家も藤ヶ谷相馬家とは遠縁になり、やはり「胤」字と九曜紋が共通です。
 
持法院6 持法院4

テーマ : 柏市周辺
ジャンル : 地域情報

上野の桜はまだです 3/21

 3/21 桜開花宣言。

…というわけで、上野公園に行ってきました。

がっ! ほとんど咲いていません。ピンクの大柄な桜は咲いていましたが。

桜花
 ▲濃いピンクの桜

 今日、靖国神社の基準木の花が咲いたというだけのハナシで、上野は花見をするには程遠い感じです。それにもかかわらず、土曜日の午後ということでかなりの人出でした。
見頃は休日だと来週3/28、29から4/4~4/5あたりがメインになりそうです。

 上野公園の北、国立博物館では、3/31から「国宝 阿修羅展」が開催されます。奈良の興福寺の仏像の一つで、奈良時代の作。2年ほど前、興福寺の国宝館で拝観しましたが、かなりリアルで端正な顔立ちです。ぜひ阿修羅展にも行ってみたいですねぇ。

「国宝 阿修羅展」http://www.asahi.com/ashura/

 上野公園がある場所は、江戸時代も桜の名所として有名でした。ただ、ここは公園ではなく、徳川将軍家の菩提寺、東叡山寛永寺というお寺がどーんとありました。

 山号の「東叡山」とは東の比叡山という意味で、不忍池は琵琶湖、中ほどにある弁天島は竹生島と対比しています。開山は徳川家ゆかりの慈眼大師(天海大僧正)。寛永2(1625)年の建立で、勅許を以って元号「寛永」を寺名に冠した名刹です。寺のトップは皇族が京都から下向して就き、その寺域は上野公園全域はもちろん、谷中霊園の大部分、日暮里駅の手前までに至る広大なものでした。現在の国立博物館は本坊跡です。

天海    公園
 ▲天海大僧正像(日光)   ▲法華堂・荒行堂跡(道の真ん中)から本堂跡(国立博物館)を望む

 しかし、幕末の慶応4(1868)年5月、彰義隊をはじめとする旧幕府側の武士たちがこの寛永寺に立てこもって、新政府軍に抵抗しました。「上野戦争」と呼ばれています。とくに激戦になったのが、いまの上野公園の桜並木に入るあたりにあった「黒門」でした。現在黒門は撤去されて、南千住の円通寺に移されていますが、当時の戦闘の跡が生々しく残っています。そして、この上野戦争で寛永寺はほぼ燃え尽きてしまいました。

上野黒門 黒門1 
 ▲黒門(移築)          ▲黒門に残る上野戦争の弾痕

 その後、公園として整備され、今のような形になりました。しかし、上野東照宮、五重塔、清水堂など、お寺だった頃の名残が、あちこちに見られます。

 国立博物館の入口のすこしヨコには、鳥取藩三十二万石の池田家上屋敷門(黒門)があります。かなりの大きさで、門に住めますな。

池田家
 ▲鳥取藩上屋敷門

 国立博物館を少し北に行ったところには、現在の寛永寺根本中堂があります。川越の喜多院から移築されたもので、かつての威容はまったくありませんが、周囲の並木にとけこんでいい雰囲気をかもし出しています。参道の石灯籠は大名からの奉納品ですが、奉納者ならびに被奉納者の名がうまいこと削られていて、誰が奉納した灯篭かは不明です。

本坊
 ▲寛永寺根本中堂

 スミのほうには、いかにも由緒ありげな石塔や宝塔が放置されていました。宝塔や石塔はここにあったものとは考えられませんが、将軍家ゆかりの人の墓石だったことは、その形や法名から推測できます。先日も谷中霊園内の奥方様墓地が撤去されましたが、国や都は文化財の散逸を防ぐ意味でも、予算をつけてほしいもんです。

塔1
 ▲「桂芳院(一橋治済正妻・寿賀宮在子女王)」とある三葉葵紋付宝筐印塔

塔2
 ▲「青蓮院妙香日■(徳川家斉側室於瑠璃方)」、「是心院妙雪観空大姉」

塔3
 ▲無紋の八角宝塔:徳川家斉生母・慈徳院(於富方) 『徳川将軍家墓碑総覧』より

テーマ : 日記
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広尾を歩く

 千代田区銀座から港区広尾を友人夫妻と食べ歩きしてきました。

 ●自然式食堂 餉餉(けけ) http://keke.jp/
 
 プランタン銀座の真裏にある2時間食べ放題のお店で、ランチは2,200円。
 
 特別にチョコフォンデュのチョコの滝が設置されていて、バナナやイチゴを串に刺して滝につっこみ、チョココーティングしてみました。写真はとてもまずそうですが、味はいたって美味です。チョコの滝つぼに具を落として、必死で探している人もいましたね。

チョコ チョコフォンヅ

 料理は和洋中とりそろえたブッフェで、お盆のような木皿に直接料理を盛っていきます。とくにサラダが美味でした。

けけ

 食事のあとは一路広尾へ。腹ごなしの有栖川公園散策です。

 有栖川公園は江戸時代には盛岡藩十万石の下屋敷がありました。公園は池をベースに東に傾斜した高台からなる林泉式庭園で、林や小さな滝、小さな梅の広場があります。

有栖川2
 ▲有栖川公園庭園

 高台を登りきったところにある広場には、馬に乗った軍人の銅像がありますが、明治時代、ここに屋敷を構えた有栖川宮熾仁親王の銅像です。去年の大河ドラマ「篤姫」でもわずかに出演した熾仁親王は、徳川家定に嫁いだ和宮親子内親王の元婚約者でした。また、最後の将軍・徳川慶喜とも親戚に当たります(熾仁親王の大叔母が慶喜の母)。

有栖川1  広尾
 ▲有栖川宮熾仁親王  ▲公園内の小川

 有栖川公園を出た後は広尾駅方面へ戻り、最近できたチョコ専門店に行って来ました。

 ●ショコラティエ ボナ 広尾allaboutより
 公式サイト

ショコラボナ
 ▲ショコラティエ・ボナ

 店のおばちゃんが親切で、メニューにあるモノについていろいろ説明してもらいました。紅茶と同じで産地によって微妙な違いがあるようです。とりあえずはオーソドックスっぽいもの(フランボワーズショコラ)を注文し、チョコケーキ(チョコラショー)もついでに頼んでみました。がっ! この二つ、想像以上に濃厚で強敵でした。味は上品でコクがあってかなりウマイのですが、濃厚ココア+超濃ケーキは選択に失敗した感がありました。

フランボワーズ ショコラショー
 ▲フランボワーズショコラ    ▲ショコラショー(特濃美味)

 その後、広尾のまちを散歩しましたが、商店街の突き当りに禅寺を発見。しかもかなり大きな禅寺と見え、山門の脇に「祥雲禅寺」とあり、中にいくつか塔頭がありました。本坊は禅宗様の白漆喰壁、建仁寺や天龍寺を彷彿とさせます。そして、ここはいくつかの大名家の菩提寺でもありました。ということで、さっそく参拝しました。

祥雲寺1
 ▲祥雲禅寺

 境内墓所にはいきなり大きな五輪塔が三つ、福岡藩黒田家の墓石です。法名が確認できた右端のものは福岡藩六代藩主・黒田継高の奥さん(黒田吉之娘)のものでした。ほかに曲直瀬家(医師家)、一柳家(摂津小野藩)、金森家(美濃郡上藩)などの墓石があり、もっとも奥には秋月藩黒田甲斐守家の大名墓群が数十基建ち並び、その脇の覆屋の中には福岡藩祖・黒田長政の巨大な墓が鎮座していました。

黒田家墓   秋月藩  黒田長政
 ▲圭光院殿         ▲黒田甲斐守家(秋月藩主)   ▲黒田長政墓
 
 まさか広尾の真ん中にこんな広い境内を持った禅寺があるとは想像もしていませんでしたが、大きな収穫でした。

テーマ : 日記
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千葉一族更新日記

 最近、サイトの容量が増えてまいりまして、契約容量との兼ね合いで、サイトの構造形態を変更せざるを得ない仕儀と相成りました。

 これまではフォントの色や大きさ、枠組みなどをすべて<font>や<table border="1" width="900">などで作っていましたが、より軽く表示も可能なcssを用いた形態に変更作業中です。とりあえず、暫定的なTOPページ、千葉氏の当主ならびに一族のページに更新しました。お見苦しい点、多々ご容赦ください。

鎌倉紅葉2008

 鎌倉へ紅葉狩りに行ってきました

円覚寺1
 ▲円覚寺

 がー、鎌倉の紅葉満開(?)は来週半ば頃かな、という感じで、まだ緑の葉が目立っていました。例年は12月初旬が見頃なのですが、今年もまぁ同じくらいか。境内の紅葉ももうちょい。

円覚寺2
 ▲円覚寺の参道

 ところで、紅葉には関係ありませんが、円覚寺の本来の入口は、現在の入口の南側、踏切を渡った先にありました。参道の左右にある池は、建武元(1334)年頃の『円覚寺境内絵図』にはすでに記載があります。

円覚寺3
 ▲木戸跡と鎌倉時代の迂回路(左へ入る小道)

 円覚寺の旧参道に面した道路は、かつては円覚寺門前の広場でした。広場の東西は木戸が設けられ、道は南にやや迂回する∪形になっていました。現在もその小道が残っています。

 円覚寺のあとは建長寺へ。例年では円覚寺のあとは、イチョウを観に明月院に寄っているのですが、今年はあまり見応えがないという情報と、ここの受付の人のモノの言い方(拝観料で小銭を出さないと、しつこく、ぶっきら棒に小銭を求める)がキライなので、パス。

 建長寺はあまり紅葉スポットはないのですが、鎌倉といえば円覚寺、建長寺。ということで、ちらっと立ち寄りました。時間が早いこともあり、客は少なく、本尊のお地蔵様をお参りして、鶴岡八幡宮へ。

鶴岡八幡宮
 ▲八幡宮

 ここ鶴岡八幡宮は、かつては「鶴岡八幡宮寺」というお寺で、僧侶が諸役を務めていました。三代将軍・源実朝をこの八幡宮大階段上で暗殺した甥の公暁(二代将軍・源頼家の子)も八幡宮寺若宮の別当を就ってました。

 鶴岡八幡宮ではツアー客にまぎれて参拝を済ませ、舞殿で行なわれていた結婚式を眺め、北条政子ゆかりの寿福寺へ。寿福寺も紅葉がキレイなスポットがあるのですが、今年はまだっぽいですな。

寿福寺
 ▲寿福寺

阿仏尼
 ▲伝阿仏尼供養塔

 続けて、海蔵寺へ。ここへ行く途中、道の左側のヤグラに石塔が建っています。これは、公家の冷泉為相(近くの浄光明寺の裏山に墓がある)の母親・阿仏尼(安嘉門院四條。『十六夜日記』の著者)の供養塔とされていますが、実際のところはどうなのでしょう。

 その先を道なりに行くと海蔵寺となりますが、その手前の道端にキレイな紅葉がありました。

紅葉1 紅葉2 紅葉3
 ▲海蔵寺手前の紅葉

 このへんで昼も近くなったので、友人から聞いていた、小町通りの厚焼き玉子の「おざわ」に行ってみました。がっ、けっこうな行列で断念。すぐ近くの豆腐料理の定食屋「鎌倉小町」に少し並んで入ってみました。

豆腐
 ▲店長のオススメ(「小町御膳」だったかな…¥1,500)

 料理は大変うまかったですが、ごはんの量がちょいと少なかったかも。コップに入ってるのは、豆腐を漉した感じの濃厚な豆腐汁(?)。外から見ると狭そうな店ですが、中は案外広く、料理もさっさと出てきました。内容もへるしーでオススメですな。

 昼飯を済ませて、千葉氏ゆかりの妙隆寺へ。小町大路に面した日蓮宗の寺で、千葉氏の屋敷跡に建てられました。屋根には千葉氏の家紋・月星が彫られています。

妙隆寺
 ▲妙隆寺

妙隆寺月星
 ▲本堂の屋根に光る月星紋

 続けて、鎌倉北条氏の菩提寺にして最期の地・東勝寺跡へ。小町大路を東に入ってまっすぐ行った先の高台一帯を占めていた寺でした。元弘3(1333)年の新田義貞による鎌倉攻めによって、多くの北条一門がこの東勝寺で自殺しました。今は住宅地と自転車置き場と野原になっています。

東勝寺への道
 ▲東勝寺跡への坂道

東勝寺
 ▲東勝寺跡

 この時点で約13時。今回の鎌倉旅行は紅葉がイマイチだったこともあって、混んでくる前に切り上げることにしました。紅葉のピークは休日であれば、来週の土日になるんでしょう。

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南町奉行与力 原胤昭の資料

 昨年、東京都千代田区市ヶ谷駅にほどちかい、区立四番町歴史民俗資料館で、「江戸町与力の世界=原胤昭が語る幕末」という特別展が行われました。ワタシはあとでその開催を知ったのですが、すでに「原胤昭旧蔵資料調査報告書(一)」なるモノが資料館で販売されていることがわかりました。

 さっそく会社を定時に切り上げ、市ヶ谷にダッシュ。閉館ギリでなんとか購入。南町奉行所の仕事や由緒書などの史料、原氏をはじめとする与力たちの系譜など、かなり濃い内容でした

史料

 「原胤昭旧蔵資料調査報告書(一)」とあるくらいなので、きっと(二)もそのうち出るんでしょう。いまから楽しみです。

 原胤昭は「免囚保護の父」とよばれた明治の名士。最後の南町奉行与力で、下総国相馬郡手賀村(千葉県柏市手賀)の領主だった千葉一族・原氏の末裔です。いまでも手賀には胤昭をはじめとする一族が眠っています。

■手賀原氏
http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/hara21.htm

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一橋家文書

水戸
茨城県立歴史館

茨城県水戸市にある県立歴史館に行ってきました。

ここの閲覧室では、ほかでは見ることのできない史料を閲覧することができます。
水戸徳川家から一橋徳川家に養子に入り、最後の将軍になった徳川慶喜ゆかりの「一橋家文書」もその一つです。八代将軍徳川吉宗の子・徳川宗尹を祖とする一橋徳川家には、千葉一族の相馬氏が家臣として入っていました。今回はその調査に出向いたわけです。

歴史館は、茨城の歴史を紹介するのがメインの博物館で、その展示もなかなかオモシロいので、時間があるときは拝観しますが、今回は閉館ギリまで閲覧室に籠っていたので、そっちはまた今度ということで。。。

茨城県立歴史館

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谷中の徳川家廟所

 東京の日暮里駅の線路沿いに、谷中霊園という広大な墓地があります。それはそれは広大な墓地で、メインストリート両側には桜が植えられていて、春は花見客で盛り上がっています。ピザ屋が墓地の番地で宅配している姿をよく見かけました。

 この霊園には、旧華族や文豪、政治家などけっこう有名人のお墓があったりするのですが、奥の方の一角には、寛永寺が管理している徳川家墓地があり、御台様墓地、田安徳川家墓地、清水徳川家墓地、一橋徳川家墓地が点在しています。

 先日ニュースで御台様墓地の発掘調査のニュースをやっていたので、ちょいと行ってみました。…結構無惨でしたね。

 ただ、確かに現当主徳川さんが個人で維持管理費(http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1163990839/184-283)を払っているとすれば、そいつはかなり気の毒な話ですな。そして、この徳川家から返された徳川家墓地の跡地は、寛永寺が一般墓地として売り出す予定とか。。。

 寛永寺からしてみれば、江戸時代も終わって140年、特別な檀家だけど、いつまでもひろ~い土地を占有してるのはヘンでない? こんな広い土地だし、分譲にさせてもらったほうが……。ま、こんな想像もできちゃったりするわけです。

 田安徳川家、清水徳川家の廟所はいずれも上野の凌雲院(このへんにあった)から移されたものですが、立派な宝塔です。

 御台様墓地
御台様廟所の解体風景

田安徳川家
田安徳川家廟所(移築)

清水徳川家
清水徳川家廟所

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tag : 谷中 徳川 御台様 解体 寛永寺

Newyearコンサート2008 in Bunkamura

bunkamura
Bunkamura

今年は友人夫妻といっしょに行ってきました! Bunkamuraオーチャードホールの東京フィルコンサート。
今年のテーマは「どこかで出会った、あのメロディ」ってなことで、聴いたことある音楽特集。
とはいえ、拙者クラシックにそれほど造詣がないので、知っている音楽はそのうちのいくつかだけ。。。ということで、レンタルCDで予習。本番に臨みました。

実際に聴いて、特にこいつぁよかった!と思った曲は、ウェーバーの「舞踏への勧誘」です。
男性(チェロ)が女性(クラリネット、フルート)をダンスに誘う掛け合い、ダンスを踊るシーン、曲が終わったかと思ったら、最後に男性から女性へありがとうのご挨拶まで表現された見事な一曲! ぜひ聞いてみてください。

パンフレット

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★手賀沼の温泉?

 手賀沼のほとりに温泉の健康センターが建てられています。

 昨年から掘削作業が続いていたのですが、いつのまにやら建物がたっております。「満天の湯」というらしい。

 ビミョーに楽しみにしている自分がおります。

手賀沼温泉1

手賀沼温泉2

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tag : 手賀沼

◆謹賀新年2007 2

 嫁の実家へ。昨年に甥っ子が生まれたので、記念にみんなで写真撮影をば。箱根駅伝を見ながら御節をつっつきます。あぁ「正月」。

 続けて、渋谷のオーチャードホールでのニューイヤーコンサートへ行ってきました。オーケストラの生って初めてでしたが、知っているものばかりだったので飽きずに聴けました。「ボレロ」でトロンボーンの人が少しとちったのが、いくら上手くてもやっぱり人間なんだなと思った次第です。
コンサート
渋谷オーチャードホール

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

◆謹賀新年2007

 実家にごあいさつ。雑煮と御節をつっつきます。あぁ「正月」。

 続けて、初詣に出かけました。場所はやっぱり千葉神社。去年と同じくらいの時間にやってきたのですが、隣のの公園にまでずらーっと長蛇の列! 去年は少しも並ばずに拝めた気がするのですが。。。一方、二階(千葉神社は重層構造なのです)の拝殿はまったく並んでいないのです! 同じ妙見様ならどっちだっていっしょだろうと、二階でお参りして、階段を降り、またそこでも拝んでお守りを買い、幕張のアウトレット初売りへ。
千葉神社
千葉神社

 そういえば、中世の千葉の街のつくりと、鎌倉のつくりはよく似ている気がしますね。。。
千葉中世地図
中世千葉の想像地図

 京葉線の駅までの途中、千葉氏にゆかりの登渡神社へ立ち寄り、千葉みなと駅から海浜幕張駅へ。アウトレットの初売りをチョチョイと済ませて帰途に着きました。
登戸神社
登渡神社

幕張
幕張アウトレット

 千葉氏HP更新。安達氏の祖・藤九郎盛長について少々加筆。『吾妻鏡』を見ていると、盛長はもともと安達を称していたわけではなかったようです。また、彼の祖とされる藤姓「小野田」氏についても、彼が三河国の小野田に地頭職を受けたのちの伝承ではないかと想像できます。盛長はもともと京都にゆかりの深い藤原姓の人物で、藤判官代邦通などと同様、名字を持たない人物で、京都から下って頼朝の側近となっていた人物と推測しました。一説には平家とも血縁関係があったとも言われています。足立遠元の親族という系譜もありますが…その可能性は状況から見てまず無いでしょう。

テーマ : 今日の出来事
ジャンル : 日記

◆クリスマス・イブ♪

 クリスマスも我が家は和風の鍋です。なべ

テーマ : ひとりごと
ジャンル : 日記

◆デジタル一眼購入

 デジタル一眼レフを購入。本当は評判の高いペンタックスのK10Dにしようかと思っていましたが、どこも売り切れ。いままで使っていたカメラも砂が入ってしまいジャリジャリでいつ壊れるかわからない状態。そこで購入を考えたワケですが、K10Dはいつ入荷かわからないような状態だったため、ゴミ落とし機能つきで、写真の解像度が高く、感度を上げてもあまり荒れないといろんな雑誌に載っていたCANONのEOS kiss Digital Xレンズキットを購入しました。

 一眼は初めてなので、ゆっくりと覚えていこうと思ってますが、なんだかこのカメラの写り、ものすごい赤っぽいのです。雑誌の評判ではホワイトバランスはとてもいいと出ていましたが。。。やや不安です。
EOS

◆結婚式 in 舞浜

 舞浜にて友人の結婚式。今年は結婚式ラッシュです。

 友人と舞浜駅に集合して、リゾート線でホテル最寄り駅まで。友人のひとりが、子供にウンコをつけられて遅刻です。式には間に合いましたが、悲惨でしたなバンブー君(仮称)。

 ホテル内がちょっと迷路っぽくて、間違えて客室の棟に上がったり、迷子になったりしましたが、なんとか控え室に到着。

 チャペルは開放的で明るい感じ。式場はシックな感じで、いろんな結婚式があるもんですなぁとしみじみ。またここでもめったに食べられない料理を堪能です。ちょっとおなかが膨れすぎて苦しいくらいでした。
舞浜結婚3

舞浜結婚2

 結婚式ってのは、ほんとにやっぱりめでたいものですな。
舞浜結婚1

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

◆結婚式 in 軽井沢

 軽井沢にて友人の結婚式。軽井沢には年に数回、その友人のところへシゴト(?)で行きますが、以前は車で深夜に4時間かかっていたのが、いまは電車で上野から1時間。近くなったもんです。会社帰りに寄ることもできたり、ひじょーに便利になりました。

 さて、今日は朝から友人たちと上野で集合。長野新幹線で1時間、軽井沢に到着。しかし、天気予報とは裏腹に、軽井沢はふかーーーーーーーーーーーーい霧に包まれ、寒。式まではまだ時間があったので、駅の横にあるショッピングモールで買い物をし、迎えのバスに乗って一路、プリンスホテルへ。

 軽井沢ってところは自然が多くて、式場も緑の中で、結構な趣。いいところですな。
軽井沢結婚5
▲控え室…デカ!

 さて、式では友人と一緒に受付をまったくソツなく颯爽とこなし、披露宴ではめったに食えない料理に舌鼓。奥さんもキレイで、よかったねぇ大隈君(仮称)。

軽井沢結婚4


軽井沢結婚3


軽井沢結婚2


軽井沢結婚1


 二次会のビンゴ大会ではダンボが当たりました。嫁へみやげです。結婚式ってのはやっぱりめでたいものですなぁ。
ビンゴ

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◆ハムスターは手先が器用

 我が家のハムスター、梵天丸。

 にんじんの細切りをあげたところ、リコーダーのように両手で持って食ってました。器用です
侍ハム

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tag : ハムスター

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