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千葉山

 国道16号線の穴川交差点近く、千葉県スポーツセンター前にある山が、千葉宗家代々の廟所である「千葉山」です。字名は「長者山」といいます。明治39年4月、三和尋常小学校長の安川辰蔵が十三基の古墳を確認し、その墳丘墓から、鎌倉期の常滑の骨蔵器を発掘しています。現在、千葉宗家の菩提寺である稲毛区の大日寺(大日寺HP)にある石塔は、ここから移されたものとも伝わります。
※ただし、この石塔のうちもっとも巨大な石塔については、大日寺が開創の伝の通り「仁生(=忍性)」との所縁であるとすれば、律宗の僧の墓もしくは供養塔でしょう。

千葉山1 千葉山2 星宮
 ▲塚              ▲塚(モミジで見えづらい)   ▲星宮

 数年前までは、竹林の中にも墳丘状の廟所がはっきり見えたのですが、先日訪問したときは、完全に竹林に埋没し、余程近くに行かないと見えなくなっていました。ここを管理しているのは千葉市なのですが、史跡を保存しよう、観光に生かそうという意識はザンネンなことに、まるでないです。

千葉山の現状
 ▲いまの千葉山墳丘遠景

 ほかの墳丘は、道路を挟んだ北側の雑木林にあるはずなのですが、もはや確認できないほど荒れ果てています。なんとか整備をしてもらいたいです~。

 
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

水戸2010

 1年ぶりに水戸へ行ってきました 水戸藩士の系譜『水府系纂』と『一橋徳川家文書』の確認です。県立歴史館へ向う前に、「桜田門外の変」のロケで使われた桜田門周辺のセット見物に行ってきました。セットは水戸駅の南に広がる千波湖畔に作られていて、撮影後の現在はセットに入って自由に見ることができます。

 入場料は800円とややお高めですが、不思議な雰囲気を味わうこともできると思うので、払って損はないと思います。ただ、ボランティアの人の数が多すぎるかも。ワタシは開場直後に入ったからそう感じたのか。。。

 会場に入るとすぐに桜田門のセットが見えます。なるほど、結構なつくりです。石垣はやや作った感がありますが、全体的にそっくりです 地面に敷き詰められているのは雪のように真っ白な細かい石です!! 70トン近い砕石を撒いているそうです。すげー。屋根の上の白い雪も白い砂利です。雪の降る中行なわれた桜田門外の変を再現するために、こんな努力をしているんですな。

桜田門セット3 外桜田門実物
 ▲セットの外桜田門        ▲実際の外桜田門

桜田門セット2 桜田門実物
 ▲セットの桜田門          ▲実際の桜田門

桜田門セット4 桜田門セット1
 ▲セット外桜田門内側      ▲桜田門を通して彦根藩邸。すごい近い~

桜田門セット5 桜田門セット6 桜田門セット7
 ▲杵築藩邸表門         ▲彦根藩邸表門         ▲松の廊下

 ほかに米沢藩邸や広島藩邸の門が再現されていますが、若干角度と門の位置が実際とは違っています。米沢藩邸の表門は桜田門と対面し、広島藩邸の表門は桜田門側にはありませんでした。また、セットでは杵築藩邸と広島藩邸が平行して建っていますが、実際は広島藩邸は杵築藩邸とは南西に逆扇形で接していました。ただ、セットについては映画の演出上敢えて行なっているようです。少し残念に思ったのは、彦根藩邸と桜田門があまりに近く写り過ぎていることです。おそらく実際の距離の10分の1以下しか離れていないので、違和感があります。遠近感を出すために小さく門を作ってもよかったのではと思ったものの、これもやはり演出上(彦根藩邸の存在感)の問題かもしれません。

黄門様 湖畔 水戸の紅葉1 水戸の紅葉2
 ▲黄門様です      ▲水戸はすっかり紅葉です

 セットを出て、歴史館へ向かいます。千波湖の周りは遊歩道になっていて、走ったり散歩したりする人がたくさん。周りの公園もすっかり紅葉です。空が青いのでよく映えます。水戸光圀の銅像も建ってます。ちょっと偕楽園にも寄ってみますが、この時期は誰もいません。あと数ヶ月もして梅が咲く頃になると、歩けないくらいの人が押し寄せますので、かえってこういうときのほうが、偕楽園内をゆっくり散歩できるかもしれません。

偕楽園 
 ▲この時期の偕楽園は誰もいません…

 偕楽園をでて、県立歴史館へ。ここで一橋徳川家文書などを見ます。一橋家に仕えていた相馬家を追っているのですが、国会図書館蔵の江戸幕府の役職武鑑には、一橋家の家臣として本来載せられているべき相馬家初代「相馬多宮(正胤)」の名がなく、まったく同時代に「相馬半左衛門」が記載されていました。しかし「半左衛門」の通称が寛政譜の相馬正胤の項目に記載されていないため、両者の関係は不明でしたが、一橋家文書の記載により相馬正胤の通称が半左衛門だったことが判明し、両者が同一人物とわかり、謎がひとつ解けました。

柿 みかん
 ▲実家の庭では柿やらミカンやらがわんさか実り出しました!

 実家ではすでに柿とミカンの収穫をやっていました。収穫が終ればすぐ冬です。まだ一橋家文書は読みたい部分がたくさんありますが、冬の水戸は寒さが厳しいので、あったかくなるまではしばらくお預けです。


 

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

麻布十番の賢崇寺

 会社帰りに、ちょっと麻布十番に寄ってきました。

 このまち、食べ物屋が多いですね。しかもなんだか少し高そう。昼飯を食べず昼時にウロウロすると危険です Mr.Childrenのアルバム「BOLERO」の撮影ポイント「パティオ十番」の階段を横目で見つつ、目指すは佐賀藩主鍋島家の菩提寺・賢崇寺です。

 この寺は佐賀藩士の菩提寺もなっていて、佐賀調査時に確認できなかった千葉胤廣(佐賀市の松原神社に、鍋島一門とともに石燈篭を寄進した人物)の墓所があるかもしれないという憶測で訪問してみました。

佐賀燈篭
 ▲佐賀市松原神社の燈篭銘(千葉胤廣)

 街なかにある急坂を登った先にある広大なお寺。境内に至るまでの急坂の参道は、ちょうどイチョウから銀杏が落ちる時期ということもあり、馥郁たる異臭が漂ったりしていましたが、麻布十番の雑踏とは無縁の静かな山内です。木も多く木陰は涼しい風が吹いていました。

 境内を入って右手に本堂、正面に鐘楼、本堂裏手にはすぐ佐賀藩主家の廟域があり、その周りに「佐賀県士族」「佐賀住」など旧佐賀藩士の家柄と思われる家の墓石が並んでいました。その中にやはり「千葉胤廣」の墓石がありました! 家紋は佐賀藩士千葉家と同様の十一曜星紋です。残念ながら、彼が佐賀藩千葉家のどの系統に属していたかの確認はできませんでしたが、彼が法曹界で活躍したであろうことの確認はできました。

鍋島2
 ▲千葉胤廣の十一曜星紋   
 (賢崇寺千葉家墓所)

 そのほか、旧佐賀藩士で歴史学者として名高く、やはり佐賀の松原神社に燈篭を寄進していた久米邦武博士もこの寺を菩提寺としていました。ほか、小城鍋島家、神代家、多久家、鍋島主水家など多くの佐賀藩所縁の家々が見られました。その法名の書体と刻み方も佐賀風が伺えます。

鍋島7       星巌寺
 ▲小城藩主鍋島家墓石    ▲佐賀県小城市の星巌寺(小城鍋島家菩提寺)
 (賢崇寺)

 小城鍋島家は本来は鍋島嫡子家だった鍋島三支藩の一家。ただ、藩公廟所は佐賀県小城市の星巌寺にありますので、こちらの墓はどういった位置づけのものかはわかりません。

鍋島6
 ▲鍋島主水直朗(小城藩初代藩主・鍋島紀伊守元茂二男)と鍋島主水茂和(直朗の孫)

鍋島5
 ▲神代鍋島弥平左衛門茂堯(神代領主)と神代家当主(確認失念)

鍋島1
 ▲藩主家の廟所。巨大な五輪塔が見えます。この廟域はフェンスで囲まれていて、一般の人が入ることはできませんが、人為的に柵を壊して中に侵入した形跡が見えます。ロクでもないのがいるもんです。

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

持法院の曼珠沙華’10

 下総相馬氏の一族・藤ヶ谷相馬家の菩提寺・持法院へ行ってきました。ここは彼岸花の名所として知られていますが、大量に咲いているわけではなく、秋口の谷津田の一風景として寺に溶けこんでいる感があります。

彼岸花2 彼岸花4 彼岸花3 彼岸花1

 今年は残暑が長かったせいか、まだ満開というほどではありませんでしたが、早朝にもかかわらず駐車場はすでにいっぱい。カメラを手にした人たちが大勢いました。参道脇のスペース一帯が彼岸花の群生地で、境内でも石仏や鐘搗堂、本堂のまわりに咲いています。相馬家の伝に拠れば、相馬家の一子・登慶が貞応元(1222)年に開いた寺院とされ、現在の堂宇は明治初期、藤ヶ谷相馬家重臣の家柄である勝柴家の母屋が移築されたもので、塔頭の「登慶坊」「順慶坊」を解体して、格天井と欄間(龍と天女)が付されました。

持法院山門
 持法院山門

 この寺の山上には、墓地が広がっていますが、墓地の最上段には、相馬家祖・相馬師常の父親、千葉介常胤ゆかりの如意輪観音を祀った観音堂があり、その周りにも彼岸花が咲いていました。

如意輪観音堂
 如意輪観音堂

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

第6回企画展 「銘文は伝える」~沼南の歴史をおりなす金石史料~

 旧沼南町役場(現在の柏市役所沼南庁舎)に隣接する郷土資料展示室にて、「柏市史」(沼南町史史料集金石文3)刊行記念の展示が行われていました。ここに展示されている「手賀原氏」の位牌を見に行ってきました。

沼南庁舎
 ▲柏市役所沼南庁舎

 手賀原氏は臼井原氏の一族とされ、柏市手賀一帯を治めていた千葉一族です。ただ、臼井原氏との血縁上の関わりについては正確には判明していない謎の氏族です。手賀城は小田原落城の影響を受けて開城したと思われ、その後、江戸幕府に召し出されて代々江戸南町奉行所与力職を勤め、幕末の当主・原胤昭はキリスト教教誨師として数多くの囚人を救済した名士として知られます。

 手賀原氏については、原胤昭が遺した奉行所内の文書・与力の系譜類が千代田区によって整理され、活字化されて出版されています(現在三巻目まで)。江戸時代の奉行所の仕事や役割がよくわかる書籍です。千代田区役所または千代田区立四番町歴史民俗資料館にて頒布されています。なお、郷土資料展示室で展示されていた、「満福寺(現在の柏市柳戸の弘誓院)」の梵鐘(模造)の実物は、図らずも千代田区立四番町歴史民俗資料館に展示されています。

 史料
 ▲『江戸町与力の世界=原胤昭が語る幕末』

テーマ : 柏市周辺
ジャンル : 地域情報

塚越又右衛門

 千葉周作の兄・塚越又右衛門は、「気仙の須藤家」に養子に入ったのち、岡部藩士の塚越家の養子になったとされています。『剣豪 千葉周作』にも、「故あって気仙の須藤家を継ぎ、塚越と称した。…塚越の姓は、周作の兄又右衛門が松戸に移住後、江戸に出て武州岡部藩主安部摂津守鉾右衛門に迎えられ、のち師範となって塚越家を継いだので初めて塚越を名乗った」とあります。

 しかし、孫の塚越三治の書状の中には「気仙千葉の男」「塚越家に養子に参り候」とあるのみで、他の諸書にも又右衛門と気仙の須藤家との関わりを記すものは見たことがありません。

 一方、岡部藩の文書においては、又右衛門は一度「塚越」を名乗った(岡部藩周辺に塚越姓が散在しているので、その養子に入ったものか?)のち、「岡部藩須藤家」の養子となって須藤を称したことが記されています。その後、許しを得て「塚越」に復姓しています。そして、岡部藩の資料に拠れば、又右衛門以前に塚越という岡部藩士はないため、「師範となって塚越家を継いだ」ということはありません。

 つまり、又右衛門は「気仙の須藤家」を継いだのではなく「岡部藩の須藤家」を継いだ「気仙千葉の男」で、岡部藩須藤家の養子に入る前に「塚越」を称していました。須藤家の養子に入ったあと、塚越姓に復姓し、岡部藩塚越家が誕生しました。又右衛門は「一刀流」の免許者であり、周作同様に一刀流の中西道場で学んだのかもしれません。

 又右衛門の子・又右衛門(初名は鉾五郎)は道場を持ち、叔父・千葉周作が開創した北辰一刀流の玄武館道場に出入りしていたことが見られます(『玄武館出席大概』)。

 岡部藩塚越家は二代続いて明治維新を迎えました。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

春の東京~松戸散策

 桜の季節、花見を兼ねて歴史散歩してみました。

 巣鴨から雑司が谷霊園まで行って、千葉定吉・千葉重太郎のお墓参りをしてきました。「龍馬伝」で里見浩太郎さんと渡辺いっけいさんが演じてますが、坂本龍馬が入門した北辰一刀流桶町道場(龍馬入門時には桶町にはなかったようです)の道場主の一家です。千葉家の末裔で家紋も月星紋です。
定吉
 ▲千葉定吉、重太郎の墓碑

 雑司が谷には桜は咲いていないので、次は谷中霊園へ。やはり桜の季節は人が多いですね。霊園ですが、みなさん茣蓙ひいて酒宴です

yanaka 天王寺

 このあたりはかつて天王寺というお寺があって、その五重塔跡も残っています。が、その礎石も花見の椅子と化していました。時代も変われば、その石の役割も変わるってことですな。

 谷中霊園の中には、かつての大名家のお墓も遺されています。その中でも、一橋徳川家の墓地内には、旧一橋徳川家の旧臣が明治になって奉納した石灯籠があり、名前が列挙されていて、幕末の嵐を生き抜いた一橋旧臣の名前がわかる史料でもあります。

谷中灯篭
 ▲右端に、下総相馬家末裔の相馬胤富の名があります。

 ここから上野公園の桜を見に行きますが、途中にある寛永寺に立ち寄ります。

寛永寺本堂 寛永寺
 ▲現在の寛永寺本堂        ▲本堂前の石灯籠

 本堂前には石灯籠が並んでいますが、なぜか奉納年月日と寄進者、奉納した対象の将軍名が刻み消されています。明治維新時に、寄進者の家が徳川将軍家との関係を知られたくなかったからなのか、官軍による辱めなのか…または後世のいたずらなのか。その理由はわかりませんが、唯一本堂境内で銘が残っていたのは、本堂脇の一角にあったものだけでした。

 寛永寺1 寛永寺2 寛永寺3
 ▲寛永寺境内            ▲徳川家綱廟所前            ▲徳川綱吉廟勅額門

 本堂の裏手には寛永寺墓所があり、その敷地内には、将軍家や天璋院などが眠る廟所が今も遺されています。老中から奉納された石灯籠が霊廟前にずらっと並んでいます。そして、寛永寺墓所をさらに奥へ行くと、いまや誰も訪れることなくひっそりと広大な廟所があります。徳川家綱(厳有院殿)、徳川家治(浚明院殿)、徳川家斉(文恭院殿)の墓所になっています。

 天璋院と家定の墓所などはこの家綱廟所とは少し離れた西側にあります。こちらの内部はまったく見ることはできません。

 寛永寺から天王寺にいたる谷中霊園には、徳川家ゆかりの墓所が点在しています。点在していた、という方が正しいかもしれませんが。かつての将軍家の奥方達の墓所は寛永寺墓地から撤去され、跡地は一般墓地として分譲されます。一般市民となった徳川家が広大な墓所を管理するのは至難の業です。毀された史跡は二度と見ることはできません。国や都、区が、江戸時代の文化財として史跡を守るという姿勢を見せてほしかったもんです。

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

豪徳寺

世田谷豪徳寺へ行ってきました。彦根藩主井伊家の菩提寺です。
小田急豪徳寺駅、世田谷線宮の坂駅が最寄りになります(豪徳寺周辺マップ)。

ネットのニュースに「豪徳寺井伊直弼の墓石修復と調査」という記事を見つけたため、井伊家の墓所も寛永寺徳川家墓所のようについに整理かも? と、さっそく出かけてみました。井伊直弼は安政七年三月三日雪の降る朝、登城するために藩邸を出たのち、桜田門付近で襲撃されて討たれました。

桜田門遠景     桜田門外
 ▲旧彦根藩邸より桜田門を望む       ▲桜田門

彦根藩二代藩主・井伊直孝が鷹狩の帰りに門前にいたこの寺の飼い猫に招かれて寺に入り、豪雨の難を避けたことで井伊家の菩提寺になったという伝承があり、多くの招き猫が奉納されています。江戸時代に井伊家の菩提寺となり、井伊直孝の「豪徳天英」の法名から「豪徳寺」と称されるようになりました。

大老井伊家の菩提寺らしく、かなり広い境内にかなりの参拝の人。境内地の西側半分がこれまた広大な墓所になっています。本堂は仏殿の裏手にありますが、法事が営まれていたので井伊家廟所へ。途中に観音堂とあたらしめの三重塔があります。

豪徳寺2 豪徳寺3 豪徳寺1
 ▲総門         ▲仏殿               ▲観音堂(この脇に招き猫奉納場がある)

墓所の南三分の一程度が井伊家の廟所になっています。廟所入口には藩主や代表的な子女の配置図が記されています。この廟所は平成20年に国指定の史跡に指定されました。

豪徳寺4
 ▲廟所配置図

入口からまっすぐ参道を行くと、井伊直孝の墓石があります。

豪徳寺7
 ▲左側が中興開基の井伊直孝(二代藩主)、右側が井伊直(九代藩主)

直孝墓所の左側には江戸後期の井伊家墓所がありますが、井伊直弼墓所の発掘調査のため立ち入り禁止。説明版が設置されていました。

豪徳寺5
 ▲説明版。江戸時代の豪徳寺絵図と井伊直弼墓所の写真などが紹介されています。

豪徳寺6
 ▲奥の白いビニールシートが井伊直弼墓所。発掘が行なわれたがまだ棺は見つからず。

彦根藩には千葉一族・相馬家も上級藩士として仕えていました。豪徳寺には彦根藩士の墓もあるとネットで見ていたので、相馬家の墓石を探しましたがやはり見つかりませんでした。なお、子孫の相馬永胤は専修大学創始者の一人です。

そのあとは豪徳寺の隣にあった世田谷城跡に行く予定でしたが、時間がなく断念。世田谷城は室町時代につくられた城で、城主は吉良家。忠臣蔵の吉良上野介とは先祖は同じですが、血縁的にはほとんど関係ありません。江戸時代には蒔田と名乗りますが、吉良上野介が赤穂浪士に討たれた後、吉良姓に戻っています。

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

tag : 豪徳寺 井伊直弼 発掘

本土寺のあじさい

 松戸市にある日蓮宗の名刹・本土寺へ行ってきました。

 この寺も千葉一族にゆかりが深く、このお寺に伝わっている『本土寺大過去帳』は、中世史の重要資料になってマス。最寄り駅はJR常磐線の北小金駅。商店街を抜けると、すぐ参道になります。

 参道は左右の並木に沿って歩道が整備されていて、地面も舗装されているので歩きやすくなっています。数年前までは、木の根っこむき出し、ドロドロざらざらの道だったのでえらい苦労しました。いまは快適な道です。

 参道からさらに奥に入った参道の両側には漬物屋が並んでいます。自家製っぽく、ほんとにイけます。メロンやザーサイなど、あんまり見たことのない漬物もあります。シイタケの漬物(甘辛煮?)や沢庵はメジャーどころですが、うまいです(試食)。

 本土寺17 本土寺18
   ▲漬物屋             ▲漬物こんなかんじ

 境内に入ると、左手には五重塔とあじさいの山。もうすでに写真を撮っている人多数。真正面には本堂があり、新緑の紅葉に埋まっています。あじさいの小道や、あじさいをバックにした菖蒲池など、松戸の街なかとは思えない森林空間が広がっています。

本土寺6 本土寺5 本土寺 本土寺2 本土寺4

本土寺14 本土寺7 本土寺8 本土寺11

 ネコもいたりします。このネコ、人にひじょーに慣れていて、撫でられようがつつかれようが、微動だにしません。毛並みもいいので、大切にされてるんでしょうな。

本土寺16 本土寺9

●長谷山本土寺
  開門時間 8:00~17:00(最終受付16:30) 
  入場料:一般 500円(小学生は300円)

 本土寺ホームページ
 http://www.hondoji.com/

本土寺12 本土寺15 本土寺13
 ▲像師堂              ▲あじさい             ▲菖蒲池

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

佐賀の旅

GWの佐賀旅行。

こんなとこに行ってきました。

■小城円通寺
 千葉家ゆかりの寺で、古くは、京都南禅寺、鎌倉建長寺と並ぶ「三大興国禅寺」として栄えた禅寺でした。しかし、江戸時代の火災や明治維新の廃仏毀釈などによって荒廃してしまいました。今でも江戸時代の千葉家のお墓が残っています。…が、すでに墓石は壊れかかっています。

円通寺 千葉家墓所1
 ▲円通寺の勅使門跡      ▲円通寺墓所の千葉家廟所

■松尾山光勝寺
 円通寺のすぐそばにある千葉家ゆかりのお寺で、九州日蓮宗総本山。肥前千葉氏・千葉大隈守胤貞の猶子だった日祐上人(下総国の中山本妙寺・法華寺三世:現在の法華経寺)が開山となって開かれました。以来、千葉家と密接に関わりあいながら現在に至っています。墓所には江戸期の千葉家の墓所があります。

光勝寺 千葉家墓所2
 ▲光勝寺             ▲光勝寺境内の千葉墓所

■佐賀城と本丸御殿
 鍋島家の居城跡と、最近再建された本丸御殿(資料館になっています)。

佐賀城 本丸御殿 本丸御殿内
 ▲佐賀城堀           ▲本丸御殿復元          ▲御殿内の廊下

 今回の佐賀調査を終えたあとは、一路京都へ。宇治の散策をしてきました。

平等院
 ▲平等院鳳凰堂

 今回の千葉家の調査は全て終らず、もう一度行かないとな、と心に決めました。が、電車賃高いし、時間がないし、さて、いつになることやら。それまでに円通寺の千葉家の墓石が崩壊、取り壊されていないことを祈るのみです。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

持法院の曼珠沙華

彼岸花

 柏市藤ヶ谷にある観音霊場・持法院に曼珠沙華(彼岸花)が咲いていました。毎年、お彼岸の頃になると咲き出す真っ赤な花です。この時期が来ると、早朝から起き出して車で1時間ほどかけてこの寺まで行っています。(持法院所在地:mapion

持法院遠景

 田んぼのはずれに建つお寺で、かつて田んぼを挟んだ向かいにあったお城、藤ヶ谷城の城主だった相馬氏の菩提寺になっています。鎌倉時代からこの相馬地方に連綿と続く名家で、福島県相馬市の相馬中村藩主・相馬氏とは遠縁になります。

 参道前にある石段を登っていくと、観音霊場として知られる小さな観音堂があります。この観音堂の本尊・半跏思惟如意輪観音は、建久元(1190)年に鎌倉の館にいた千葉介常胤が、霊夢に現れた観音さまを彫らせたものと伝わっています。

観音堂

 常胤の子孫・相馬氏は、領内の「番場村」にこの観音様を移して観音堂を建立。藤の花でお堂を覆ったことから、番場村は「藤萱村」と呼ばれるようになったと伝えられています。いまは「藤ヶ谷」と呼ばれています。

 この持法院、結構マニアな所にあるんですが、この彼岸花を撮りに、早朝にもかかわらず人が案外来ていたりして。彼岸花はここだけではなく、ちょっと先の田んぼ道脇にも密集して植わってたりして、東京のビル群では見られない、なんとものどかな風景が広がっています。

トンボ
 ▲彼岸花と赤とんぼ

手賀沼朝もや
 ▲持法院の北にある手賀沼

テーマ : 雑記
ジャンル : 日記

水戸へ

歴史館
茨城県立歴史館

 茨城県立歴史館に行ってきまシタ。家から軽く3時間はかかりますが、ココだけに置かれている「一橋徳川家文書」を読むために、ひたすら頑張ってます
 今回も一橋家に仕えた千葉氏流相馬家を追っての調査でしたが、どうにも調べたい対象の時代が定まらず、あまり効率よく見られなかった気がする…
 というわけで、また調べきれずに課題が残っちまいました

相馬
「相馬」
 
 次回は泊まり込みで行ってもいいんだが、と、ネットを見ると「水戸プリンスホテル」が。ついに水戸にもプリンスホテル進出か?! なんて思っていたら、ビジネスホテルでした けっこうキレイな感じでいいかも  そういえば 「軽井沢プリンスホテル」で結婚式を挙げた友人がいますが、ここのプリンスはでかかった!
軽井沢結婚3
軽井沢プリンス1

軽井沢結婚5
控え室 どーん

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

本土寺のあじさい

 松戸市北小金にある本土寺は、夏はアジサイ、花菖蒲、秋は紅葉で有名な寺です。境内はかなり広く、約1万坪(ディズニーランドの1/15くらい。。。って、わかりづらいですな)あります。

 その歴史は古く、鎌倉時代にまでさかのぼります。このあたりの土豪・平賀氏(源氏の平賀氏とされていますが、実際はこの辺の豪族でしょう)の屋敷あとに建てられた日蓮宗の寺院です。

 中世では領主の原氏や高城氏の庇護を受けて、大きな影響力を持ったお寺に成長しました。梵鐘は国重文、「本土寺大過去帳」は県文化財、ほかにも徳川家康の側室(秋山夫人)のお墓があります。

入場時間 8:00~17:00
入場料 500円(小学生は300円)

http://www.hondoji.com/

アジサイ

アジサイ

ねこ

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

tag : あじさい 紫陽花 アジサイ 菖蒲 歴史

伊豆の旅

 伊豆の旅に出かけました。湯河原から伊豆長岡、修善寺をめぐる旅、鎌倉時代へ(勝手に)タイムスリップです。湯河原の旅館に車を預け、電車で伊豆長岡へ向いました。時期的には観光シーズンでもないし、道はすいてましたね。

 伊豆長岡駅にはレンタサイクルがあり(要事前予約)、こいつに乗って市内散策です。近場で行っておきたいところと言えば、まず願成就院。鎌倉北条氏の広大な菩提寺の跡です。今となっては小さな(とはいえ、普通のお寺に比べたらよっぽどでっかいですが)寺になってしまいましたが、かつては堂塔を配するビッグな寺でした。

願成就院2
願成就院

願成就院1
願成就院跡

称名寺
称名寺の庭園

 さらに境内の池には橋を架けて中島に渡す浄土式庭園が広がっていたといいます。たぶん上の写真のようなイメージか? これは金沢北条氏が、武蔵国金澤(金沢文庫の辺)に建てた称名寺です。

北条時政墓
北条時政墓

 願成就院の境内には、北条時政のお墓が残っています。鎌倉幕府を我が物にしようと、いろいろな企みをした挙句、娘の北条政子と息子の北条義時によって鎌倉を追放されて、北条氏発祥のこの地へ押し込められ、鎌倉に戻ることなく亡くなりました。

堀越御所跡
堀越御所跡

 さて、願成就院の先には、北条政子産湯の井戸と呼ばれる井戸の跡、さらにその周辺一帯は、室町時代中期、鎌倉を追放された鎌倉公方・足利成氏の代わりに京都から派遣された足利政知(八代将軍・足利義政の弟)が御所を構え、「堀越御所」と呼ばれた屋敷跡が残されています。いまは芝生の公園になっています。このあたりも、鎌倉時代には北条氏の屋敷群があったのでしょう。

北条氏屋敷跡
守山麓の北条氏屋敷跡

 堀越御所から自転車で2,3分のところに、北条氏の屋敷跡があります。北条政子もこのあたりで生まれたのでしょう。鎌倉幕府滅亡後もここには北条氏の女性たちが暮らしていたそうです。そして、そのすぐわきを流れている狩野川の対岸が、二代執権・北条義時の屋敷があった「江間」地区になります。

北条義時
北条義時夫妻の墓

 その北条義時と奥さん(佐伯氏)のお墓が江間地区の北条寺にあります。ただし、本当の義時の墓は鎌倉の「大蔵幕府」の北側の山上にあったので、北条寺のお墓は義時の子・泰時が供養墓として建立したものとされています。

蛭が小島
伝蛭が小島

 さて、しばらく東へ走ると、平家によって頼朝が流されていた「蛭が小島」跡に着きます。ここには頼朝と北条政子の銅像が建てられていて、解説ボランティアのオジサンたちもいましたね。少し前に宮城の多賀城に行ったとき、解説ボランティアのオジサンたちから手厚く濃ゆ~い説明をうけてしまったことを思い出し、時間もないのでオジサンたちに見つからないよう、遠巻きに散策。

 実際の頼朝が配流されていた「蛭が小島」は別の場所(もう少し西に寄った中洲)といわれ、この地ではないようですが、まぁ、気分だけでも蛭が小島ということで、隅々まで見て回りました。そして、さらに東へ。すると、江戸時代の韮山代官・江川家の代官所跡が見えてきました。幕末の剣豪にして名代官・江川太郎左衛門英龍もここにいたのかと思うと、なんとも奇妙な気分。ただ、拝観には金がかかるらしいので、今回は却下。

 その江川邸跡の正面の小道をひたすら登っていくと、香山寺というお寺に到着。ここは、頼朝が挙兵をした時に討たれた平家方の伊豆国目代・山木判官代平兼隆の首塚があります。

山木判官墓 香山寺
山木判官平兼隆墓

 山木判官墓から、江川太郎左衛門の反射炉を見て回ろうとしたのですが、時間がなく今回は断念。伊豆長岡駅に戻って自転車を返却し、電車で修善寺へ。

 修善寺ではあまり時間がないので、バスに乗って修善寺温泉へ直行。この地で殺された鎌倉二代将軍・源頼家と、頼朝の弟・三河守範頼の供養墓を見て回り、修禅寺でお参りを済ませて湯河原へ戻りました。しかし、修善寺温泉から駅までのバスが終わっちゃうのが早くて、かなり走りました

源頼家
源頼家墓

源範頼
源範頼墓

修禅寺
修禅寺

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

古河の旅

 古河市は、関東管領足利基氏の子孫である古河公方のお膝下。いまでも、古河公方足利氏の史跡が結構残っています。古河公方には、奉公衆として千葉一族の相馬家が仕えており、子孫は下野国喜連川領主・喜連川家(足利家)の家臣として幕末に至っています。 

 古河公方の御所だった地は、江戸時代には古河城が置かれ、古河藩主土井家の居城になっていましたが、明治時代に渡良瀬川の拡張工事で消滅! 博物館で見た模型では、川べりに浮かぶ船のような城で、なんとまぁもったいない。残っていたら、古河市は間違いなく有名な観光地になっていたろうに…。
kogajouka
古河の武家屋敷跡

 古河城の南には、鴻巣館とよばれる古河公方のもう一つの館跡が残っています。こちらは池や堀、土塁も残っていて、時代を彷彿とさせます。江戸時代初期に義氏の娘・氏姫と、その子・義親まで住み、その後は下野喜連川へ移ったため、館は廃されました。同じ敷地の中に、ひっそりと最後の古河公方・足利義氏のお墓があります。
鴻巣館
鴻巣館と堀

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伝足利義氏墓(芳春院)

 少し南には、古河公方・足利晴氏建立の菩提寺・永仙院があります。。。が、お寺はすでになく、墓が数基残っているだけの、たいへんサミシイ状態です。かつては公方の菩提寺として栄えていた寺院が、いまや塀すらない状況でした。
eiseninato
永仙院跡と参道

 かつての城下町ということもあってか、勢然とした街並みにきれいに区分けされた道路がけっこう印象的なマチでした。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

◆芝増上寺の旅

 芝の増上寺に行ってきました。ここは徳川将軍家の菩提寺であると同時に、開山は千葉介氏胤の子・酉譽聖聰という千葉氏ゆかりのお寺でもあります。

 地下鉄大門駅を出て、少し歩くと、最近建立の増上寺大門があります。「大門」といってもそれほど大きくなく、横浜中華街の門のようなカンジですね。かつてはこの門が「増上寺」の入口でした。
増上寺5
大門

 大門をくぐって少し進むと、安養院という増上寺の塔頭があります。門には「七曜に真向月星」の紋が! 屋根にも同じような七曜月星が。。。この塔頭、千葉氏と関係があるのでしょうか。
増上寺1
塔頭安養院

 さて、また歩いていくと、いよいよ三解脱門です。国道沿いにどーんと構える赤い勇壮な門は、一見すると「表門」のようですが、これは寺の中の門です。中門みたいなもの?

 境内に入ると、真正面に本堂と東京タワーが見えます。これだけ広く見える寺ですが、江戸時代と比べると十分の一以下の広さになってしまっています。
増上寺4
かつての増上寺(薄緑の範囲)

 明治政府によって多くの土地が没収されて公園となり、歴代将軍や公子、御台所などの御廟も、太平洋戦争ですべて壊滅。跡地の多くを西武グループが買い取りました。そのため、諸大名が奉納した燈籠やら建物、門などが全国各地へ流出していきました。一部西武グループが集積して本拠の狭山に寄せ集めで作った寺が狭山不動寺。燈籠などは柵の中に集められて、収容所状態です。しかも節操の無いことに、この不動寺の宗派は増上寺の浄土宗ではなく、寛永寺の天台宗ときてますから開いた口がふさがらない。

 しかも、東京プリンスホテルが建っている場所、そこは歴代将軍が眠っていた霊廟のまさにその場所。さらにプリンスホテルパークタワー(それ以前はゴルフ練習場にしてました)が建っている場所、そこは二代将軍・徳川秀忠霊廟跡です。我が家は旗本の子孫ではないので徳川家に恩も義理もありませんが、そういった霊廟跡というか、廟所跡とあからさまに判っているところにホテル? ゴルフ練習場? 西武創始者の道義的、倫理的な資質は推して知るべしです。
増上寺6
本堂

増上寺7
プリンスホテル(将軍家廟所跡)

増上寺2
鎌倉時代の諸菩薩

 とまぁそんなことを考えつつ、もと来た地下鉄大門駅から帰途に着きました。

テーマ : 今日の出来事
ジャンル : 日記

◆鎌倉の旅

 鎌倉に紅葉狩りへ。いつものことながら、北鎌倉から鎌倉をめぐる一日です。

 ただちょっと紅葉には早かったようで、まだ青い葉っぱがちらほら。うーむ、暖冬ですね。なので、今回はあまり紅葉は気にしないことにして、気ままな鎌倉散策に目的を変更。
紅葉円覚寺
円覚寺前

 まずは北鎌倉駅前の円覚寺、そして明月院はパスして、建長寺へ。この建長寺の外門前には以前は鎌倉期のものと思われる石塔があったのですが、キレイに取り払われて消えていました。所詮、建長寺も文化財に興味を持たなくなったということでしょうか。そう考えたら、寺にお参りするのも馬鹿らしくなりましたが、ココまで来て観光しないのももったいないので、観光地と考えて寺に入り、くるっと一周して終了。巨大な地蔵菩薩が祀られている法堂は、もともと芝の増上寺にあった二代将軍御台所・崇源院の御霊屋です。その先にある唐門も崇源院御霊屋から移築されたもの。かつての崇源院御霊屋は東京プリンスホテルの建物の下敷きになってしまっています。
建長寺1
建長寺法堂(もと増上寺崇源院御霊屋)

建長寺2
建長寺唐門(もと増上寺崇源院御霊屋の唐門)

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

 建長寺を出て鶴岡八幡宮へ。さらに東へ歩き、幕府跡から頼朝の墓へ。ここはもともと頼朝の法華堂があり、近世になってその跡地に島津家が頼朝の墓を建立しました。その東の山の上には、島津忠久、大江広元、毛利季光の三人のものとされるやぐらが遺されています。そしてその崖の下には北条氏(と安達氏)に滅ぼされた三浦一族のやぐら、そして一面に広がる不自然な平地は、北条義時の法華堂(つまりは墓地)が建てられていた跡とされています(私は『吾妻鏡』の記述から疑問を感じていますが、学会は逆に『吾妻鏡』の記述から義時法華堂と断定しています)。

頼朝法華堂
(伝)頼朝法華堂跡

義時法華堂
(伝)義時法華堂跡

三浦氏やぐら
伝三浦一族やぐら

 その後、永福寺跡を見学しました。秋にはススキの海になりますが、今年はすでに枯れてしまっていました。残念。

 永福寺跡からふたたび御所跡を通って鶴岡八幡宮境内に戻り、岩屋堂前を抜けて寿福寺へ。寿福寺の横にある相馬天王社(千葉介常胤次男・相馬師常ゆかりの神社)をお参りして、寿福寺に入ります。門前には鎌倉期のものと思われる石塔が目立たずにひっそりと残っています。ここは頼朝が鎌倉に入る前、三浦半島の豪族・三浦一族の岡崎義実という人が、頼朝の父・義朝のためにお堂を建てていた場所です。頼朝ははじめここに屋敷を作ろうとしましたが、お堂があったことと敷地が狭かったということで、場所を変えました。
寿福寺
寿福寺

 寿福寺を出て、浄光明寺へ。この裏山には裁判のために京都から下ってきた公家・冷泉為相が眠っています。浄光明寺裏のがけをのぼると、鎌倉時代からそこにある地蔵が目に入ります。そこでお参りを済ませて、さらに上の冷泉為相五輪塔を参拝。ここからは遠く材木座海岸を望むことができます。
地蔵堂
地蔵堂

冷泉為相
浄光明寺裏の冷泉為相五輪塔

 浄光明寺を出て、化粧坂に向かいます。相変わらず急な坂ですが、のぼっていて楽しいですね。いい散歩コースです。源氏山公園を横目に、ふたたび下り坂へ。その先に銭洗い弁天があります。ちょっと立ち寄って、弁天様にお参り。ここで洗った金を、今度の年末ジャンボに使うことにします。
化粧坂
化粧坂

銭洗い弁天
銭洗弁財天

 弁天様の祠を出て、さらに下るとようやく平地になります。ここらへんには室町時代中期に関東管領・山内上杉家の屋敷があって、「上杉禅秀の乱」のときの舞台のひとつになりました。いまは全体が住宅地になってしまっていて、当時の面影はまったくありません。

 一本道を歩いた先の十字路を左折して、鎌倉駅に。ここで昼飯をとって、こんどは夕陽を見るために由比ガ浜に向かいます。途中、伝足利持氏の供養塔や伝新羅三郎源義光のお墓などを見物しながら、陽が落ちる直前に浜近くの光明寺に入りました。この寺の脇にある塔頭・蓮乗院は、千葉介常胤の建立によるものと伝えられる名刹です。光明寺の少し北、弁が谷付近に千葉氏の屋敷があったと伝えられ、また、光明寺を建立した良忠上人は常胤の曾孫・鏑木胤定と深い交流がありました。
持氏公
伝足利持氏供養塔

新羅三郎
伝新羅三郎義光墓

 光明寺をぐるっと見た頃、閉門の合図、お坊さんが出てきて、鐘を衝きはじめました。ゴーーーン・・・ゴーーーーーゥン・・・。ちなみに、このお寺にはネコが多く住んでいて、さらに人なれしているので、ネコ好きの方にはいいところかもしれません。
光明寺
光明寺

 光明寺からほんの少し歩いて、夕陽を撮るために材木座海岸に。。。。。。ビューーーーーーーー! なんちゅう風! いままではそれほど感じなかった「風」が建物の間を吹きぬけ、細い道を駆け抜けていきます。さらに砂まで舞い上げて、こりゃヒドイ。とりあえず、海岸に出れば、吹き抜ける風も少しは落ち着くかと海岸に出ましたが、その風は一向にやむ気配はなく、砂を巻き上げて容赦なく人間とカメラを襲います。しかも夕陽は雲に隠れてしまってたいした写真が撮れそうもなく、ちょっと後悔です。

 ここから街なかに戻るためには道路を横断する必要がありますが、そんな横断歩道は由比ガ浜までありません。しかし、どうにもこうにも結局暴風の中ですから、進むほかありません。結局、材木座から由比ガ浜まで暴風の中を歩き、バチバチ当たる砂粒が猛烈に痛いですね。さらに海風でベトベト。。。カメラにも砂が入って、レンズの出し入れにジャリジャリ言い出す始末。。。耳の穴は真っ黒、肩には砂が積もっているような体たらくで由比ガ浜までなんとかたどり着くも、へとへとです。おそるべし海風。。。
稲村ガ崎
稲村ガ崎

 計画では稲村ガ崎、片瀬川、江ノ島方面まで歴史探訪の足を伸ばしたかったのだが、やはり一日で鎌倉を回りとおすのは難しいですな。すっかりヘトって電車に揺られて帰途につきました。

テーマ : 本日の日記
ジャンル : 日記

tag : 鎌倉

◆相馬の旅2

 朝飯の時間まで早朝の散歩をすることに。まず、ホテルの近くにある相馬家菩提寺・興仁寺を訪問しました。このお寺にはすでに相馬家のお墓はありませんが、相馬家家老の熊川家の立派なお墓は残っています。

 続けて、宇多川を渡った対岸にある相馬家菩提寺・蒼龍寺址(今はお墓しかないです。お寺自体は南の馬場野へ移転してしまっています)を見て、戊辰戦争の際に仙台藩代表の宿所となった正西寺へ。このお寺の山門はもともと中村城の城門とのこと。たしかにお寺の門には似つかわしくないシャチホコがついています。

 続けて、相馬家菩提寺・円応寺を訪問です。ここには藩祖・相馬利胤の祖父に当たる天授院殿(相馬盛胤)の御壇が残っています。墓地の中に一本高くそびえる杉の木の根元にそれはありますが、墓石はありません。杉の木が墓標です。

 こうして見ると、相馬家の菩提寺は相馬領内にいくつも点在しています。
盛胤公
円応寺の盛胤御壇

 帰り際に相馬中村藩の居城・中村城を訪れました。今日はここで「相馬神社例大祭」が行われるらしいのですがっ。時間がなくていけません。相馬神社は中村城の本丸跡に建てられた神社で、相馬家祖・相馬次郎師常(千葉介常胤の次男)を祀っています。屋台やら何やらの準備が始まっています。

 そうこうしているうちに、ホテルの朝食タイムが迫ります! やばぃ、はやく戻ろう。ということで、あとは朝食済ませて、図書館に行って調べものの一日。夕方の特急で千葉へ帰ります。

 ちなみに、相馬を訪れた際には必ず行く蕎麦屋があります。相馬市役所前にある「まる久」というお店。ここの蕎麦は大変美味です。相馬に行く機会がある方はぜひ行ってみてください。

テーマ : 日々のつれづれ
ジャンル : 日記

◆相馬の旅1

 相馬への旅。今回の大きな目的は、(1)いわき市平城の戊辰戦争の痕跡、(2)南相馬市小高の相馬岡田氏旧跡の探索、(3)図書館での相馬藩世紀ならびに中村藩士の藩士譜の書写、です。

 いわき市内の戊辰戦争の痕跡として今でも残っているのは、中心街の性源寺山門に残る弾痕くらいなものですが、戊辰戦争の激戦地の跡を何も残っていないにしろ、次に乗る予定の特急が来るまでの約2時間の間に、戊辰戦争の現場をすべて見て回る勢いで歩きました。ゼイゼイ。。。

 性源寺、岩城城址遠望(岩城氏の城址)、松ヶ岡公園(幕末の平藩主・安藤信正像を見る)、秋葉神社遠望(戊辰戦争時、岡田監物隊が布陣)、良善寺(平藩主菩提寺)、急坂を登って飯野八幡宮、六間門跡(幕末の相馬藩御一家・相馬将監胤眞がここで官軍と戦った)、本丸跡など等。。。飯野八幡宮は千葉一族・大須賀氏ゆかりの好嶋庄に鎮座する神社です。

 余談ですが、私がこの神社にお参りしていたときに甥っ子が生まれました。ここで安産祈願もしたので、彼は八幡様ゆかりってことになるんでしょうかね? 八幡太郎ですね。
岩城城
岩城城遠望

六間門
六間門

飯野八幡
飯野八幡宮

岡田将監
秋葉神社遠望

 平城はもはや城跡としての痕跡はほとんどなく、知らない人が歩けば高台にあるただの住宅地です。しかし、「かつてそうだった」的な見地で見ると、道のクランクやちょっとした盛り上がりなどがわずかに「城」をかもし出し、別の風景に見えてくるものです。

 さて、いわき駅を出発して、一路小高へ。

 小高では、まず相馬岡田氏(相馬家御一家筆頭)の館跡を見ます。小高城の南方の高台につくられた館で、その遺構がはっきりと残っていて、いまは初発神社(妙見神社)の境内です。明日は千葉氏顕彰会のご一行もここを訪れる予定になっています。

岡田館
岡田館跡

 その後、小高駅からタクシーに乗って、相馬家の旧菩提寺・長松寺へ向かいます。このお寺、タクシーの運転手も知らないマイナーなお寺になっていました。。。行ってみると、住職もいない閑散とした小寺で、唯一、文化財の梵鐘だけが吊るされていました。

 そのまま駅のほうに戻ってもらい、相馬藩侯の墓所がある同慶寺で下車。同慶寺にある藩侯墓所は普段は門が閉められていて入ることはできませんが、7月の野馬追いの時期だけは開放されています。
同慶寺
同慶寺

 お寺から少し歩いて、相馬家の居城址・小高城へ。小高妙見社をお参りし、境内にある戊辰戦争の碑を見ます。この碑には、戊辰戦争で岩城に討死を遂げた相馬将監胤眞の名が刻まれていました。

 小高駅に戻って、常磐線で相馬へ向かいます。

 相馬駅からタクシーに乗り、相馬家菩提寺・洞雲寺へ。ここは小高で梵鐘だけが残っていた「長松寺」の前身で、明治に至って寺自体は小高に移されました。寺地ならびに墓は洞雲寺が受け継いで現在に至ります。ここは主に藩侯の子女の菩提寺となっていて、寺の高台にご婦人方の巨大な五輪塔が遺されています。ここにお参りをすませ、寺のすぐ隣にある二宮尊徳の墓をお参りしました。相馬地方は、江戸時代の大飢饉のあと、二宮尊徳の「報徳仕法」によって危機を脱しており、今でも二宮尊徳を篤く祀っています。二宮尊徳の子や孫は相馬に住み、孫は北海道に渡って開発に尽力しました。ここをお参りすると、ちょうど日も暮れてきたので、今日の探索はココまでとしました。明日は図書館に籠もる予定ですね。

洞雲寺
洞雲寺の藩侯子女五輪塔

テーマ : 今日の出来事
ジャンル : 日記

tag : 相馬

◆奈良への旅2

 今日はチャリンコで西大寺、秋篠寺、孝謙天皇陵、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡、朱雀門跡、聖武天皇・光明皇后陵を見て回ります。とにかく暑かった。。。

朱雀門
朱雀門

聖武天皇陵
聖武天皇陵

光明皇后陵
光明皇后陵

 光明皇后陵造陵の責任者を務めたのが、当時の白壁王(のちの光仁天皇)、桓武天皇の父親です。

 本当は奈良の古い街並み(南のほうにある)も見る予定でしたが、時間的にムリでした(T_T)

テーマ : 日記
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◆奈良の旅1

 奈良の旅。奈良には小学校以来行っていないので、行ってみたかった、という単純な理由での旅行ですが、もうひとつの大きな目的は、桓武天皇の父と祖父の御陵の取材です。久々に見た興福寺や春日大社、東大寺は、小学校時代にはまったく感じなかった歴史の重みを感じました。

 桓武天皇の父・光仁天皇、祖父の志貴親王の御陵は、春日大社のはるか東の山をいくつも越えていった先にあります。はじめはバスで行こうと思っていましたが、バスはほとんど走ってません! よしんば行っても帰ってくるバスがありません! なので、高いのを覚悟でタクシーで行ってきました(泣)

 このあたりのタクシーの運転手は、観光地のガイドも兼ねているということもあって歴史にとても詳しく、ワタシが乗ったタクシーの運転手は、歴史はとくに好きではないが、観光客のために勉強したという努力家でした。いろいろこのあたりの話を聞きながら御陵に向かいました。光仁天皇と志貴親王の御陵は殊の外マイナーなはずですが、この運転手さんはご存知でした。二人の御陵はそれぞれ別の場所にありますが、畑の中にコジンマリとある点では共通しています。巨大すぎる大阪周辺の伝天皇陵よりもリアルに「墓」という感じがします。

志貴親王
志貴親王(御春日宮天皇)の御陵

光仁天皇陵
光仁天皇陵

 お参りと取材後、再びタクシーに乗り込み、途中、太安万侶の墓を案内してもらい、奈良駅に戻りました。結構走りましたが五千円程度で済みました。ホッ。

 夜は東大寺や春日大社、興福寺で行われた万灯会に出かけて、御盆の雰囲気に包まれてみました。

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ジャンル : 日記

徳川慶喜邸

ビワミン 先日の東照宮に続いて、徳川つながり…ということで、今回は徳川慶喜邸跡です。

 徳川慶喜はいうまでもなく最後の将軍です。家康の再来と討幕派の人々に恐れられた、非常に頭の切れた人物だったようです。幕末の動乱のさなか、江戸に攻めてきた朝廷軍に降伏し、江戸城を西郷どんに明け渡して水戸に謹慎しました。

 慶喜は三十三歳で謹慎を命じられ、謹慎を解かれたあと七十七歳で亡くなるまで趣味の世界に生きました。写真、絵画、自転車、刺繍、釣り、弓……。いずれもプロ級の腕前だったということです。う~ん多才な人です。

 東京に移住後は東京小日向第六天(文京区春日2-8-7)に屋敷をもらって住みました。写真がその屋敷跡(右側の森)なのですが、大玄関前にあったイチョウだけが当時のまま残っています。他のお屋敷なんかは一切合財ぶっ壊されて、官舎になりました。その官舎もすでに廃墟となって壊される日を待っているようです。

●慶喜に関連した書籍のご紹介。
『その後の慶喜―大正まで生きた将軍―』(家近良樹著 講談社選書メチエ)
『徳川慶喜家の子ども部屋』(榊原喜佐子著 角川文庫)
『徳川慶喜家にようこそ』(徳川慶朝著 文藝春秋)

 第六天のお屋敷の話については『徳川慶喜家の子供部屋』がおススメです。実際にそこに住んでいた慶喜の孫にあたる榊原喜佐子さんが、当時の絵日記をもとに回想しています。管理人もこの本を読んで、フラリとこの急坂までやってきたわけです。たぶん、この屋敷跡もまた更地になって、近代的なマンションか何かが建ってしまうのかな。こういう場所は史跡として残しておいてもらいたい、と思った一日でした。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

上野の東照宮

ビワミン 東京上野の上野公園に東照宮があるのをご存知でしょうか? 上野公園は西郷さんが目立っちゃってますが、ちょっと見渡すと歴史的な遺物がぽろぽろ落っこちてます。東照宮もそんな歴史的な遺物のひとつです。公園の喧騒とは裏腹に、木漏れ日の中で蝉時雨だけが聞こえる、ちょっとした癒し空間になっています。まぁ、敷地はそんなに大きくないんですが。

 上野公園は「東叡山寛永寺」という徳川将軍家の菩提寺の敷地だったって知ってますか? 幕末、幕府の彰義隊と西郷隆盛などの新政府軍の間で最後の激戦が行われたお寺なんです。

●幕末の上野戦争
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/meisyo/syougitai.html
●幕末の古写真(長崎大学附属図書館)
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/univj/

桜で混みあう桜並木、上野動物園、国立博物館一帯が全部お寺の敷地! いやぁでっかいお寺です。

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

野馬追前夜

ビワミン 今日は福島県原町市・相馬市で相馬野馬追があるのです。

 相馬野馬追は千葉氏の一族、相馬氏の妙見神事のひとつで、旧相馬藩(旧中村藩)にある大きな三つの妙見神社を中心に、旧中村藩主の子孫の方を総大将に迎えて行われます。

 相馬野馬追は原町市・相馬市のまわりの市町がこぞって参加するでっかい祭りで、ウン十万人の人出があります。おかげで旅館がなかなかとれないのです。管理人はダメもとで見た楽天トラベルで空きを発見! 急いで予約取りました。さらに特急も往復指定席ゲット成功! ほっとして本日を迎えたわけであります。

 実は今日は野馬追メインイベントの日ではなく、殿様以下の出陣などが行われる日で、しかも出陣式は朝早いので間に合わず。相馬中村城跡地の妙見神社にお参りして、相馬駅前の図書館にこもって、ココにしかない限定本『相馬藩世紀』の筆記未刊行分をひたすら読んで書き写してました。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

佐倉にて

 本日は千葉氏の本拠地・佐倉市に史跡めぐりの旅に行きました。

 ただ、これまた下調べが不十分で、とんちんかんな場所を探したり、人の家に迷い込んでご迷惑をかけたりと、結局ほとんど目的を果たすことなく、愛車の日産ラフェスタの天井窓全開にして車をかっとばして一日が終わりました。

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

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もっきー

Author:もっきー
千葉一族、Mr.Childrenをコヨナク愛する千葉県人

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