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義朝が京都から関東へ下向した時期や理由の考察

 ~義朝が京都から関東へ下向した時期や理由の考察~
 
■義朝の下向は後ろ向きな理由ではなく、為義の東国経営のため

 ① 義朝嫡子の義平が「称御母人」として慕ったのが秩父氏当主の秩父重綱の妻であり、幼少時から秩父氏に養育されていた。
 ② ①から、義平実母は早くに亡くなっていると推測される。
 ③ 義平誕生は永治元(1141)年と推定される。
 ④ 幼児を伴っての東国下向は考えにくい。
 ⑤ 義平実母は橋本宿遊女とされる。
 以上の事から、義朝は東国下向の際に橋本宿遊女を伴って秩父重綱のもとへ至り、ここで義平が誕生。しかし、実母の橋本宿遊女は早世し、秩父重綱妻が守育てたと思われる。つまり、義朝の東国下向は遅くとも保延6(1140)年と考えられる。そして、義朝や義平を庇護した秩父重綱は以前より源家との関わりがあったと推測できることから、為義被官人であったと思われる。これは祖の武基、武綱以来の源家との紐帯が続いていたことを意味するものであろう。

 相馬御厨介入の前年、永治2(1142)年に上野国緑野郡高山御厨が成立(再寄進と思われる)するが、これに関する「起請寄文」を皇大神宮に奉じたのは「故左馬頭家」であった。つまり、義朝は永治2(1142)年までは武蔵国にあり、高山御厨の管理は重綱三男・三郎重遠にゆだねたと考えられる。なお、重綱の館は、秩父氏の氏寺と思われる平澤寺近くで交通の要衝であった菅谷あたりであろうか。のちに畠山重忠が館を構えたのはその由緒によるものか。

 その翌年の康治2(1143)年には上総国へ移り、今度は上総権介常澄と繋がって、平常重が下司職を有していた下総国相馬郡御厨の再寄進を目論んだ。これは常澄の「浮事」を利用したものであるが、両総平氏を源家被官人として改めて再構成する目的のものと考えられる。そして義朝は相馬御厨を「掠領」するも、再寄進することなく、翌年の天養元(1144)年には「称伝得字鎌倉之楯、令居住之間」とあるように上総国を離れて鎌倉に居住している。なお、常澄の九男・九郎常清が相馬氏を称しているのは、このときに義朝代官として相馬郡に入部したためかもしれない。

 そして、天養元(1144)年9月、義朝は相模国の在庁らを率い、大庭御厨は鎌倉郡内と称して大庭御厨に乱入。伊勢神官末流の荒木田彦松の頭を割ったり御厨下司の大庭景宗の屋敷を破壊するなどの狼藉をはたらいた。そのため、義朝は朝廷から譴責の対象となり、朝廷から相模国司へ義朝の濫妨停止の宣旨が下される。その後、義朝は上洛したとみられるが、皇大神宮の神威を恐れた義朝は翌天養2(1145)年3月11日、在京中に相馬御厨を神宮へ寄進したと思われる。大庭御厨に対しての狼藉行為は義朝にとって得るものはなく、最大の目的は、義家郎従の鎌倉景正末裔である大庭氏の再編入化にあったと考えられる。

 義朝の東国下向の最大の目的は、京都で院の信頼を失った為義が摂関家に近づくに当たり、その最大の強みである「武士」としての警衛力を固めるため、武蔵国、上総国、下総国、相模国の将軍頼義、陸奥守義家以来の被官層の再構築を行う事であったと考えられる。義朝は足掛け四年余りでこれらを完了させて上洛を果たしているように、為義が嫡子義朝を東国へ下したのは、その力量を見込んでのものであって、決して「廃嫡」という後ろ向きな理由ではない。次弟の義賢が東宮躰仁親王の帯刀先生となり、官途の上で義朝を抜いたのも、義朝が留守の間も源家の地位向上を目指す為義の運動工作によるものであろう。

 のち義賢が関東に下ったのは、為義の命によって東山道の要衝を抑えることが最大の理由であって、義平との対立のためではないだろう。義賢と義平の対立は、重綱の後継者となった秩父重隆が、義平を擁する甥・畠山庄司重能(義平乳母の孫であろう)と、義平舅の新田義重からの圧力に対抗するために、上野国多胡から招聘して女婿とし、みずからの居館である菅谷館からほど近い大蔵の高台に住まわせたと考えるのが自然だろう。そして久寿2(1155)年8月16日、義平は義賢を大蔵館に攻めて討つこととなるが、これは義平と義賢の対立から生じたものではなく、秩父氏内の争いが発端であったと考えられる。

九条兼実と源頼朝は終生疎遠ではなかった等(令和2年10月22日更新記録の一部追加)

●「千葉介」の千葉介常胤を全面改訂
千葉介常胤の項目については、常胤に直接関係はないが、当時の一連の社会情勢も鑑みて『玉葉』などの日記からも京都の情勢を取り上げ追記し、全面改訂した。

●「千葉氏その他の疑問」に「甚乏少、為之如何」と「万ヲボツカナシ」の誤解~頼朝と兼実の関係~を追加
『玉葉』『愚管抄』などを読んでみると、中世史のいわゆる「通説」にふと疑問がわく。そのひとつが九条兼実と頼朝の離合である。頼朝は後白河院との関係から兼実と結ぶも険悪化。その後、頼朝は兼実の政敵通親と組んで大姫入内工作を目論むが、今度は通親が頼朝を裏切って自らの養女を入内させてしまい、頼朝は大姫の死もあって入内の悲願叶わず、自らも死を迎え、その病床で兼実に詫びの手紙を書く、といったような説が通説としてある。どうしてそのような解釈となるのか、根本的な誤読・誤訳と思われる二点を取り上げてみた。いずれも頼朝二度目の上洛の際のエピソードである。

①「甚乏少、為之如何」の誤読
 建久6(1195)年3月30日、頼朝は御所内で兼実と対面し(『吾妻鏡』『玉葉』建久六年三月卅日条)、兼実は「謁頼朝卿、談雑事」(『玉葉』建久六年三月卅日条)と雑事を談じたとある。そして翌4月1日、頼朝は兼実へ「頼朝卿送馬二疋」ったが、これに対し兼実は「甚乏少、為之如何」(『玉葉』建久六年四月一日条)と述べる。通説では、頼朝が兼実には馬二頭しか献上せず、兼実も「甚乏少、為之如何」という感想を述べていることに対して、頼朝の冷遇または兼実の傲慢として捉えられているが、これは頼朝の「冷遇」なのだろうか。
 「為之如何」の意をそのまま読めば、「これを為すのにどうしたらよいのか」という困惑以外にはなく、それは頼朝が送ってきた馬の頭数がわずかに二頭であり、この二頭でどうやって用事(何らかの雑事であろう)を行えばよいのか、という意味となろう。想像するに前日の面会での雑事についての話の中で、兼実は頼朝に馬の提供を求め、頼朝も快諾したと思われる。しかし具体的な頭数の話はなかったため、このような行き違いが発生したのだろう。この日以降『玉葉』の日記はないため、この結末がどうなったのかはわからない。
 このような単純なメモ程度の日記が、なぜ頼朝の冷遇の根拠とされたのか。それはおそらく「如何」と「何如」の誤訳であろう。「何如」であれば「甚乏少、為之何如」は「馬二頭しか送ってよこさず甚だ少ないが、どういったことだ」と読めなくもないので、この誤読を以て、頼朝の冷遇と兼実の傲慢な態度へつながってしまったことも想像できる。

②「万ヲボツカナシ」の誤訳
 頼朝は二度目の上洛に際しては、「内裏ニテ又度々殿下見参シツゝアリケリ、コノ度ハ万ヲボツカナクヤアリケム」(『愚管抄』第六)という。通説では、「頼朝は兼実と内裏で度々面会するも、まったく素っ気ないものであった」というものである。実際そうなのであろうか。この点については「ヲボツカナ(シ)」の単純誤訳に基づくものである。「ヲボツカナ(シ)」とは、不審な様や明瞭ではない様を表すが、一方で、会いたくて待ちわびるという意味がある。前文から考えてもこの場合の「ヲボツカナ(シ)」は、明らかに後者であろう。前回上洛時には頼朝は兼実に、「後白河院に配慮して、表向き疎遠を演じるが、実際はまったく疎遠には思っていない」と告げているように、頼朝と兼実は接触を控えている。しかし、今回の上洛では後白河院もすでに崩じ憚るところはなかったのである。そのため慈円は前回の上洛と今回の上洛を比較して「コノ度ハ万ヲボツカナクヤアリケム」と述べているのである。これを否定的に「素っ気ない」等と誤訳してしまったものが、現在でも通説として用いられているとみられる。

 近年の頼朝と兼実の関係を否定的にとらえる大きなベースが、上記の二つであろう。

 以上のことから、実際の兼実と頼朝との関係は、
①後鳥羽天皇が「殿下、鎌倉ノ将軍仰セ合セツゝ世ノ政ハアリケリ」(『愚管抄』第六)とあるように、天皇は兼実、頼朝と朝務に関する情報や問題点を共有していた。
②頼朝は、兼実が関白を辞する直前まで兼実と政務に関して条々を交わし続けていた(最後の返信が兼実に届いたのは、関白が基通へ移った後であった)。
③兼実が関白を辞したのちも、頼朝は中宮(兼実娘)の再入内を考えていた。
④頼朝が死の間際に兼実へ宛てた「今年心シヅカニノボリテ、世ノ事沙汰セント思ヒタリケリ、万ノ事存ノ外ニ候」という手紙を送達している。

以上のことから見ても、頼朝と兼実の関係は一貫して良好なままであったことがわかる。こうした兼実と頼朝との関係は当然その跡を引きついだ人々へも継承され、九條家からの鎌倉殿頼経誕生へとつながっていったと考えられる

●そのほか思ったことを本文でも記載しています(通説とは異なる部分があると思われます)。

①頼朝が権大納言、右大将の任官後すぐに辞任し帰途につく
 後白河院が頼朝へ権大納言及び右大将任官を強要し、頼朝が已む無く受けるも即辞任して鎌倉へ帰還する行の解釈として、院が頼朝を大臣(任大臣の要件は原則として大納言及び近衛大将の任官が必須のため、院は両官を頼朝へ強要した)として京常駐を目論む(治安維持及び自らの安保のためか)が、官途による束縛および勲功賞を受けないという一貫したポリシーから両官を辞して帰途についたと考える。頼朝が家人郎従等に対して京都の顕官を認めることを渋ったのも、こうした頼朝の考え方に準じたものだろう。なお、近衛大将は後先にも決して武家の棟梁たる証ではなく、公卿が任大臣のために必要な一過程に過ぎない。近衛大将も兼官となる馬寮御監も実質的な軍事指揮権はなく、一時的な名誉職である。

②安田義定、義資の誅殺
 これは甲斐源氏の勢力減退をねらったものと考えられている。しかし、『吾妻鏡』の記述を事実として捉えたとすれば、義資が女官に艶書を投書したという永福寺の新造薬師堂供養は、その時期から大姫の病気平癒祈願も含まれていた可能性が高いと考える。こうした性格の薬師堂供養において不埒な行いがあったとすれば、通常であれば許されるような罪科であっても許されなかった可能性はあったであろう。父の義定は義資殺害に当然ながら怒りを禁じえなかったであろうと思われ、頼朝または告口した梶原氏に対する意趣を含んだ可能性は十分考えられる。
 この頃は、安田氏が源氏勢力の一翼を担った頃とは情勢は大きく変わり、鎌倉家政所の支配下にある安田氏の影響力は相対的にかなり低かったことは間違いなく、頼朝が安田氏を危険視することは考えにくいと思われる。つまり、安田義定らの誅殺は彼らの権勢を恐れたものではなく、義資は祈願内容を弁えぬ不貞行為による刑死、義定は義資殺害に対する報復発覚による誅殺と考えられる。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当の葉月です今日のテーマは「あなたの好きなスポーツは?」ですいよいよ10月に入り、今年もあと二ヵ月となりましたねスポーツの秋なんて言われますが、皆様は好きなスポーツはありますか私はスポーツを見る方が好きなんですが、2019年のワールドカップ以降ラグビーを見ることにハマっていますかなりミーハーですけど、ワイルドなスポーツなのに礼儀正しい選手たちに感銘を受...
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テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

サイトアドレスの変更のお知らせ

突然ではございますが、プロバイダの提供HPスペースの閉鎖がありました関係で、サイトを急遽移動いたしました。

新しいアドレスは、

http://chibasi.net/

です。リンクを設定されておられる方や登録されておられる方は、ご面倒ながらアドレスの変更をお願いいたします。

よろしくお願いいたします。

管理人

更新日記

更新日記

●千葉一族の堤氏、澤田氏、文殊寺氏、橋本氏を追加しました。
 彼らは薩摩国に繁栄した千葉一族ですが、その祖は上総権介秀胤とされています。秀胤一族は宝治合戦(1247)によって滅んでいますが、彼の一族の幼児、乳児等は助命されていることが『吾妻鏡』に見ることができます。そのうちの一人が薩摩国へ下向したとも考えられますが、そのあたりの経緯は不明。

●高望王の母について
 三つの説があり、それぞれを系譜に記載。
(1)右京大夫藤原是緒女
(2)武蔵守橘春成女
(3)仲野親王女

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更新日記

更新日記

●平良文の子孫の秩父党解説、秩父氏、河越氏を新設しました。
 河越氏は秩父党の惣領家で、武蔵国留守所惣検校職を歴任しています。

●千葉一族の牧氏、賦馬氏、戸張氏に加筆しました。
 牧氏は薩摩国に移り住んだ千葉一族。永享年中、大覚寺大僧正義昭(足利義満の子)が将軍家内の争いのなかで自害したのち、島津家に出仕したといわれています。それまでは義昭に仕えていたのでしょう。

●上総氏に加筆。
 千葉介胤正の次男・境平次常秀は、一説には兄の成胤をしのぐ勢力を持ったという見方もされていますが、成胤は惣領権を一族に行使していることや、幕府内での扱いの差から見ても、成胤と常秀の間には、その格に歴然たる差が存在していたと推測されます。また、常秀は確かに成胤の死後、幼少の惣領家をしのぐ官途を持つようになってはいますが、その勢力の伸張についても、決して千葉惣領家に対する敵対ではなく、惣領家を支える一支族としての勢力拡大であり、惣領家と常秀家の間に軋轢を見ることはできません。

 北条家は有力御家人に対し、現実的な「実」と古来からの「名」を分離する政策を採っていたことがうかがえ、しかも「実」の下に「名」を置く傾向が見られます。千葉氏については、兄・千葉介成胤の流れが「実」の千葉氏家督、弟・境常秀の流れが「名」の上総介(もともと房総平氏の惣領家が冠していた)となっています。こういった例は、ほかにも三浦党(兄が佐原三浦家、弟が三浦介家)、秩父党(兄が河越氏家督、弟が留守所惣検校職)にもはっきりと見ることができます。

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更新日記
●三浦氏に追加

 三浦惣領家に三浦介頼盛、三浦介時明、三浦介時継、三浦介高継を追加しました。

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更新日記

更新日記。

●相馬胤綱の項目に加筆。
・安達氏の祖・藤九郎盛長について

 安達氏の歴史が歴史に現れるのは、平家が各国の源氏に対して追討の命を下したことに、治承4(1180)年6月24日、源頼朝が「累代御家人等」を召集せしめた際の「御使」として北条を発った「藤九郎盛長」がはじまりです(『吾妻鏡』)。
 盛長は頼朝の傍近くに仕えていた人物であったことがうかがえ、相当な信頼を得ており、その後も重要な用事の使者として各地に派遣されています。

 一説には盛長は、武蔵国の有力な豪族・足立氏の一族ともされていますが、それは伝承に過ぎません。盛長が「足立」「安達」を称したことが確認できるのは、建久10(1199)年10月27日の「足立籐九郎入道」、翌28日の梶原景時の弾劾連判に見える「安達藤九郎盛長入道」のみです(『吾妻鏡』)。盛長が「安達」を称したのは、奥州藤原氏を追討したのちに功績によって安達郡を与えられたためともされていますが、それ以前の盛長は「名字」はなく「藤原」を称していたのでしょう。

 盛長はもともと三河国に所縁のある人物で、熱田大宮司家(頼朝母方の家)を通じて京都に出仕、頼朝や比企尼ゆかりの人物と交流を持つことによって頼朝に出仕するようになったとするほうが自然で、盛長と同じく頼朝の側近であった「藤判官代邦通」は「洛陽放遊客也、有因縁、盛長依挙申、候武衛」とあるように、京都の下級官吏だった藤原邦通と盛長は「因縁」があり、その縁によって盛長が邦通を頼朝に推挙しています。「因縁」とは具体的には記載はありませんが、京都での同僚、または血縁という可能性も考えられます。

 また、盛長の妻となった女性は、頼朝の乳母・比企尼の娘で、二条院に出仕の丹後内侍という女性でした。この二条院に女房として出仕していたのが、平家に反乱を起こした源三位頼政入道の娘であり、盛長の京都との深い関わりも、配流中の頼朝に側近として重用された一因だったのでしょう。

○詳細はこちら→http://hamuzo001.web.infoseek.co.jp/miurasoryo5.htm#adati

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●東氏に追記。
 東胤行は一説に藤原為家の娘婿とされているものの、その傍証は残念ながらありません。ただ、為家の父・藤原定家の日記『明月記』には、貞永2(1233)年2月7日に「東乃中務尉と云武士」が藤原定家の屋敷を訪れたことが記されています。これは東中務丞胤行のことですが、胤行は定家と深い親交があった歌人・但馬守源家長の手紙を持ってきており、胤行が定家と交流を持ちたがっていたことがわかります。定家はこのとき腰痛で寝込んでいたため対面する事はできませんでしたが、胤行の手筆や歌の体裁が「九條大納言(定家の庇護者だった九条兼実か)」に似ていると評価しています。

 ただし、胤行と定家はこのときまだ顔を合わせたことがないことがこの日記の内容からうかがえますので、定家の子である為家はもちろん、その為家の娘と結婚していたとは思われません。ということは、このころすでに誕生していたと思われる東六郎行氏は、おそらく為家娘所生ではないと推測されます。

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更新日記

更新日記。

●千葉宗家に追記。
千葉介成胤が大蔵御所侍の再建を命じられ、一族を催してその工事を行ったことを追記。成胤が惣領権を行使していたことがうかがえます。

●武蔵千葉氏の千葉実胤に追記。
 千葉実胤は、古河公方と結ぶ原胤房によって千田庄に滅ぼされた千葉胤賢の子ですが、弟の自胤とともに上杉家の支援を受けて武蔵国で再起を図り、実胤は石浜(台東区橋場)に、自胤は赤塚(板橋区赤塚)にそれぞれ配置されたと伝わっています。実胤は扇谷上杉家の「縁者」でしたが、貧困などの理由によって隠遁し、弟の自胤が取り立てられたようです。その後、実胤は復帰しましたが、扇谷上杉家ではなく山内上杉家に接近したようで、山内上杉家の重臣・大石氏の居城、葛西へ移りました。自胤が扇谷上杉家を背景に家督を継いでいたからかもしれません。実胤は敵対していた古河公方を通じて、下総千葉氏の家督を狙いましたが、千葉介孝胤の横槍で失敗。落胆のあまりか、再び隠遁して美濃国へ落ち延びてしまったようです。

●平良文の末裔、三浦惣領家を新設
 ずいぶん長い間ほったらかしになっていた三浦氏について、一新して掲載。良文の末裔の豪族たち(秩父党、中村党、三浦党、鎌倉党)について今後、随時更新予定。

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◆千葉一族更新日記

 千葉氏HP更新。原氏について大幅に更新しましたが、嫡流家と「原越前守」家の関係について関心があります。

(1)応永13(1406)年(『香取社造営料足納帳』)
 ●原越前入道殿 が領していた場所
  →A「小栗原(船橋市本中山)」
   B「長峯(千葉市若葉区大宮町)」…原宗家の本拠・小弓に距離的に近い
   C「高篠(千葉市中央区高品町)」
   D「椎名(千葉市緑区椎名崎町)」…原宗家の本拠・小弓の隣地。ただし、これは「原殿」のみのため、越前守かは不明。

(2)永享3(1431)年(『中山法華経寺文書Ⅰ』)
 ●原宮内少輔胤義
  →「高石神(市川市高石神)」を領す

(3)永享10(1438)年、日親著(『折伏正義抄』)
 ●原宮内少輔…時代的に上記の原宮内少輔胤義と同一人物と思われる。
  →「高石神(市川市高石神)」在所の檀那
 ●原越前入道殿…応永13年の越前入道と同一人物?
  →家来の「佐久間九郎左衛門入道」…佐久間氏は原家の家風(『千学集抜粋』)

(4)文明3(1471)年9月9日『本土寺過去帳』
 ●「原越前入道道喜」
  →「小弓館」で討死。

(5)永正6(1509)年10月(『東路の津登』)
 ●「原宮内少輔胤隆」
  →小弓館で連歌師の柴屋軒宗長と連歌。
   おそらく彼の子孫が原宗家として続く。

 天正末期にも原宗家である原胤栄の一族として「原越前守」が見えますが、こうして見てみると、原宗家(宮内少輔胤隆の子孫)と原越前守家の血縁関係は非常に近いものと見て取れます。ただ、その系譜や関係を示す伝承が伝わっていないため、今のところ両者の血縁は不明です。

テーマ : 本日の日記
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■更新日記

カキ 秋の風物詩・柿が庭にどっさり、食いきる前に悪くなってしまいそうなほど実りました。富有柿なので中にゴマはないのですが、甘柿です。

 柿といえば、仕事柄、毎日顧客に送るものがあり、そのたびに送り状を書いていますが、どこへ送るにもほぼ同じような文面なので使い回ししていたのですが、その文面で「下記までお返事を」というような箇所が数か所、「柿」になっていたのです! それを知らずに、フォーマットを作ってから数日間、あちこちに送り続けていました。いまのところ苦情はありません。


■千葉一族更新日記■

★武石氏の涌谷伊達家に大幅加筆(奥州千葉氏に独立項目)。
★武石氏の佐沼亘理家を大幅加筆修正(奥州千葉氏に独立項目)。
★遠藤氏の遠藤胤統、遠藤胤城に加筆。
★千葉氏の一族に僧侶になった千葉氏(日蓮宗)を追加。

 今回はこの四点の更新をしています。

 奥州に移った千葉氏の代表的な氏族に亘理氏がいます。千葉介常胤の三男・武石三郎胤盛を祖とする氏族で、室町時代に伊達家に従いました。江戸時代には「伊達」の名字を与えられ、涌谷(宮城県遠田郡涌谷町)に一万余石を領する涌谷伊達家として代々続きました。
 当主は代々「安芸」を通称とし、仙台藩お家騒動の伊達安芸宗重が有名です。領内には千葉氏所縁の妙見神を祀り、家紋は「月に八曜」紋を伝えていました。
 しかし、涌谷伊達家は「亘理」の名跡を継いだ家ではないため、亘理家の名跡は別に家がたてられて継承されました。今回は全体的な見直しと、写真の追加、義基、邦隆、胤元などに詳細を記載しました。

 その亘理家の名跡を継いだ家が、登米市佐沼に館を与えられた佐沼亘理家です。初代は亘理宗根といいます。彼の父は伊達政宗の重臣・茂庭綱元、母は高田氏(元伊達政宗の側室)。しかし実父は伊達政宗と伝えられています。佐沼領主として代々続き、幕末にいたりました。今回は定根から邦畿にいたるまでの歴代に詳細を記載しました。

 遠藤氏については、千葉介常胤の六男・東六郎大夫胤頼を遠祖とする一族で、美濃郡上藩主ついで近江三上藩主となった家です。遠藤胤統、胤城は幕府に認められ、胤統は大坂城将として大塩平八郎の乱を平定、胤城は幕府首将のひとりとして長州征討戦に参加しました。明治時代に「東」に名字を改めました。今回の更新では胤統、胤城について加筆しています。
 
 日蓮宗僧侶になった千葉氏出身の僧侶として、中山法華経寺(当時は法華寺・本妙寺)の日祐以下を追加しました。


               ※※※※※
治承4(1180)年11月6日

 上総権介広常は、佐竹秀義が逃げ去ったあとの金砂城に入り、城壁を焼き払った。そののち、頼朝は兵を各地の道々に配置した。これは逃亡した佐竹秀義を捜し捕らえるためだったが、秀義は逃れて陸奥国の花園城へ入ったという。

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

■B'zベスト PleasureⅡ発売+HP更新記録■

 今日のめざましテレビでB'zのベストアルバムが出るとの情報をゲット。発売日は11月30日。タイトルは「PleasureⅡ」。何年も前に出たベスト版「Pleasure」の後ってことでしょう。

 今回のベスト版には「いつかのメリークリスマス」の別Vers.が入っているらしいので、年末に向けての楽しみがひとつ増えました。

 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
 9/25、HP千葉一族を更新。
 
 円城寺氏については、律静房日胤にゆかりという光明山円城寺の写真を追加。この寺は千葉介常胤が息子・日胤の菩提を弔うために建立したと伝えられ、円城寺氏の本拠地がすぐ近くにあります。しかし、ここの寺を探すのは大変苦労しました。なんせお堂がありません。カーナビ情報によれば、確かに寺があるはずなのに、寺らしき物体はありません。とりあえず、その寺と思われる場所の近くで車を降り、あたりを探し回ると、住宅と住宅の間に小道を発見。どうやらこの小さな小道が参道のようです。

 かつての参道には古い地蔵が並び、花などが供えられていて、供養はされています。その向かいには文化財に指定されている大きな木も残っているのですが…。いわゆる本堂もなければ、鐘点堂もありません。どうやらそこにある一軒の家が「お寺」のようです。家の前にはお寺の由来を記した立て看板があり、確かにここが「光明山円城寺」であるようです。参道にも杜はなく、本堂すら消えてしまった状況。。。檀家もなくなってしまったのでしょうか。

 下総相馬氏の小田原相馬氏に、小田原相馬氏の菩提寺・誓願寺の写真を掲載しました。小田原相馬氏は下総相馬氏の流れをくみ、小田原藩士として幕末まで続いています。しかもかなりの上級藩士です。大手門北側に九百七十坪あまりの屋敷地を持っていました(『常総戦国誌』川嶋建著 論書房出版)
 このお寺は箱根の帰りに訪れたのですが、すでに夕方、5時を回り、鉄筋コンクリ製の本堂は閉まっていて、お参りはできなかった。また、お墓への柵も閉じられていたため、相馬家の墓石を見ることはできず、山門のみを撮影してきた。

 「旅先でみた風景」にはいくつかの写真を追加。

 「千葉氏の百寺巡礼」の項目を新設した。

   ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
治承4(1180)年9月28日

 頼朝は使者を江戸重長のもとに派遣して召し出した。
「そなたは大庭景親とともに石橋山の戦いで私に敵対したが、以仁王の令旨の御旨を守って従うべし。武蔵平氏の棟梁家である畠山重能、小山田有重らは在京して留守にしており、今の武蔵国の棟梁はそなたである。大変頼りにしているので、武蔵国内の勇士たちを率いて参陣すべし」と命じた。


 江戸氏をはじめ、武蔵平氏の秩父一族(河越重頼、畠山重能、小山田有重、江戸重長ら)は平家に加担して頼朝と戦った。頼朝が武蔵国に来たときに当地に残っていたのは江戸重長だけだったため、頼朝は江戸重長を棟梁と認め、武蔵国内の勢力を手に入れようとしたのだろう。

テーマ : 日記
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HP更新日記2

 今日は史料編纂所に行ってきました。ただ、国会図書館の方が資料は断然多いので、ついでのとき以外は利用しないですね。しかもココ、対応者が上から目線的で腹立ちます。

~千葉一族HP更新記録~
千葉介歴代のうち、千葉新介一胤、千葉介氏胤、千葉新介重胤、千葉権介俊胤、千葉定胤に加筆しました。他に佐倉藩に馬術師範として仕えた千葉家について追加しました。あとは、千田尼、千田泰胤、千葉清胤、門井正道の加筆と千葉正胤、千葉尚胤父子について項目を追加してあります。

通常、系譜に見える人物は、現在に近づくにつれて信憑性のある資料が増えてくるものと思いますが、こと近世の千葉宗家に関しては、これだ!というような確実な資料が近世以降なくなります。千葉宗家が小田原の陣で所領を失って浪人したため、資料の散逸などがあったと思われます。江戸時代には「我こそは千葉宗家の正統な後継者」と主張している人物が幾人か実在しています。そのうち、千葉権介定胤、千葉源之助知胤、千葉権介正胤・千葉尚胤父子らが特に積極的に活動していたようです。

ちなみに、最後の千葉介だった「千葉介直重(北条氏政の七男坊)」は、阿波徳島の殿様になった蜂須賀家に拾われて「北条七郎直重」と名前を改め、子孫は大石氏(直重の養父が大石家を継いでいた北条氏照のため)さらには伊勢氏(小田原北条氏はもともと伊勢氏)に改氏して明治に至りました。

他、豊臣秀次の家老・白井氏と関東白井氏との関係の考察と、美濃郡上東氏の当主・東左近将監氏数についての新資料を掲載しました。氏数が第三者の資料に見える初出と思われます。

それから長い間、デザインをしていなかったリンク集をバナー対応版にしました。ちょいと重くなってしまったかもしれませんが、気長に開いてみてください。

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HP更新日記

 今日も暑かった!!

 そんな中、部屋の掃除や洗濯物干し、色々やったあと、柏まで遠征しました。マルイの改装セールということでフラリと出かけたのですが、暑かったせいか、あんまり混んでなかったですね(^^)
 
 そのあと、柏新星堂の書店でちょっと興味深い本を買いました。『市町村合併で「地名」を殺すな』(片岡正人著 洋泉社)という本なのですが、スルドイことが書かれております。今、全国で市町村合併が進んでいます。その合併の際に問題になるのが、新しい市の名前。こりゃイカンだろう? と思うような案が真剣に討論されていたのですね。安易な名前の決め方などなど、読んでいてちょいと考えさせられる内容でござんした。「とまとまつたけ市」「あいうえ市」「ねこじゃら市」なんてとこには住みたくねーーー! 「安楽市」なんて案を出した自治体もあったらしいですね。ヤバいですね。興味のある方は読んでみてください。

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※HP「千葉一族」更新しました。

 先日、東京大学史料編纂所の所蔵文書に『佐竹家中総系図』を見つけました。これは秋田藩士の主要な家々の系譜なのですが、その中に千葉一族・前澤氏のものがありましたので、略譜を掲載しました。
 ほか、相馬師常以下、相馬氏の歴代の記述を見直してあります。
 初代・相馬師常については、その名前の疑問点や読み方など、ちょっとした考察を載せてみました。

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