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更新日記

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●三浦氏に追加

 三浦惣領家に三浦介頼盛、三浦介時明、三浦介時継、三浦介高継を追加しました。
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●相馬胤綱の項目に加筆。
・安達氏の祖・藤九郎盛長について

 安達氏の歴史が歴史に現れるのは、平家が各国の源氏に対して追討の命を下したことに、治承4(1180)年6月24日、源頼朝が「累代御家人等」を召集せしめた際の「御使」として北条を発った「藤九郎盛長」がはじまりです(『吾妻鏡』)。
 盛長は頼朝の傍近くに仕えていた人物であったことがうかがえ、相当な信頼を得ており、その後も重要な用事の使者として各地に派遣されています。

 一説には盛長は、武蔵国の有力な豪族・足立氏の一族ともされていますが、それは伝承に過ぎません。盛長が「足立」「安達」を称したことが確認できるのは、建久10(1199)年10月27日の「足立籐九郎入道」、翌28日の梶原景時の弾劾連判に見える「安達藤九郎盛長入道」のみです(『吾妻鏡』)。盛長が「安達」を称したのは、奥州藤原氏を追討したのちに功績によって安達郡を与えられたためともされていますが、それ以前の盛長は「名字」はなく「藤原」を称していたのでしょう。

 盛長はもともと三河国に所縁のある人物で、熱田大宮司家(頼朝母方の家)を通じて京都に出仕、頼朝や比企尼ゆかりの人物と交流を持つことによって頼朝に出仕するようになったとするほうが自然で、盛長と同じく頼朝の側近であった「藤判官代邦通」は「洛陽放遊客也、有因縁、盛長依挙申、候武衛」とあるように、京都の下級官吏だった藤原邦通と盛長は「因縁」があり、その縁によって盛長が邦通を頼朝に推挙しています。「因縁」とは具体的には記載はありませんが、京都での同僚、または血縁という可能性も考えられます。

 また、盛長の妻となった女性は、頼朝の乳母・比企尼の娘で、二条院に出仕の丹後内侍という女性でした。この二条院に女房として出仕していたのが、平家に反乱を起こした源三位頼政入道の娘であり、盛長の京都との深い関わりも、配流中の頼朝に側近として重用された一因だったのでしょう。

○詳細はこちら→http://hamuzo001.web.infoseek.co.jp/miurasoryo5.htm#adati

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