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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その七(比企氏)

●比企尼について

 久安3(1147)年に京都で誕生した源頼朝の乳母として登用されたのが、のちの比企尼となる女性でした。そして、この比企尼の娘「丹後内侍」が藤九郎盛長の妻となる女性とされていました。ただし、これまでの考察で見たように、比企尼の娘は源家に女房として仕えた「丹後局」で島津忠久の母となった女性であって、藤九郎盛長とは何ら関わりのない人物です。藤九郎盛長の妻は「丹後内侍」で、出自は不明ながらおそらく頼朝母の出身家・熱田大宮司家と何らかのかかわりを持っていた女性の可能性があります。

 永暦元(1160)年、頼朝が平治の乱の罪により伊豆に流された際、比企尼は「存忠節余、以武蔵国比企郡為請所、相具夫掃部允、掃部允下向、至治承四年秋、廿年之間、奉訪御世途、今当于御繁栄之期、於事就被酬彼奉公」(『吾妻鏡』寿永元年十月十七日条)と、「武蔵国比企郡」を「請所」とし、夫の掃部允とともに比企郡へ下向しました※1。そして、「掃部允」は治承四年秋までの二十年にわたって頼朝を援助し続けたとあります。このとき、比企郡を請所とした主体は「比企尼」であることから、比企郡は掃部允所縁の地ではなく、もともとは比企尼由縁の地であったことが想定されます。比企郡は在京国司に代わって国務を奉行した留守所の秩父氏が支配する一帯であり、比企尼はその支配を受ける郡司層(比企氏)の出身家だったのでしょう。娘の一人が秩父氏惣領家の河越太郎重頼の妻※2になっているのもそれを物語っています。

 頼朝誕生の前年「久安四年歳時戊辰二月廿九日」に、「當国大主散位平朝臣茲縄」が比企郡の平沢寺に経筒を埋納してますが、「茲縄」は留守所の秩父権守重綱のことで、自ら武蔵国大主と称するほどの権力を有していたことがわかります。そして、この重綱の妻(乳母御前)は頼朝の兄・源太義平の乳母で、義平からは「御母人」と慕われていました。義平は永治元(1141)年の生まれであり、頼朝の父・源義朝は、当時東国で重綱と深く交わり、その妻を義平乳母に起用したものと思われます。比企尼の起用も重綱所縁の女性を求めたためかもしれません。

●比企掃部允について

 比企尼の夫である「掃部允」とはいかなる人物だったのでしょう。『吉見系図』(『群書類従』所収)によれば「武州比企郡少領」と記されています。ところが「掃部允」は「六位侍任之」(『職原鈔 上』)という官職であって、仁平元(1151)年9月28日には橘景良が「皇嘉門院御給」によって「掃部允」となり、保元3(1158)年11月17日に中原基兼が「院当年御給」によって「掃部少允」となっています(永井晋編『官吏考証』続群書類従完成会 1998所収「保元三年秋除目大間」)
 このように、「掃部允」は中原氏、惟宗氏、橘氏などを出自とする侍品が就任する実務官でした。つまり比企尼の夫「掃部允」もおそらく在京の実務官僚家出身の可能性を考えるべきでしょう。掃部允某が「掃部允」だった時期については不明ですが、頼朝が伊豆に流された永暦元(1160)年までに掃部允の官職にあって、比企郡に下向以降は名乗りとして定着したものと思われます。

【参考】諸書に見える掃部允
・橘景良…仁平元(1151)年9月28日「掃部允」:皇嘉門院御給(『山塊記』除目部類)
・中原基兼…保元3(1158)年11月17日「掃部少允」:院当年御給(永井晋編『官吏考証』続群書類従完成会 1998所収「保元三年秋除目大間」)
・平景弘(佐伯景弘)…応保2(1162)年正月27日「掃部允」(『山塊記』除目部類)
 ※掃部属は同族の佐伯忠盛が任じられた

 比企郡に下った掃部允は、おそらく比企尼の出身家と思われる比企氏(比企郡司?)を継承し、比企郡内で「タウ(党)」を組織していたことが「ヒキハ其郡ニ父ノタウトテ。ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ。一万御前ガ母ヲバマウケタル也。ソノ行時ハ又児玉タウヲムコニシタルナリ」(『愚管抄』)からうかがえますが、この「タウ」とは武蔵七党のような強大な武士団ではなく、比企氏という地方豪族そのものを指すのでしょう。郡司職である「比企郡少領」は国司の指示を受ける立場にありましたが、国司の平知盛は在京のため、在地の河越太郎重頼の支配のもとにあったと推測されます。

 『吉見系図』では比企尼が女聟三人(盛長、河越重頼、伊東祐清)を指図して頼朝を支えたと見えますが※3、『吾妻鏡』では頼朝が「被酬彼奉公」により「件尼、以甥義員為猶子、依挙申」と見え、頼朝は掃部允の奉公に感謝の念を持ち、それに酬いんがために、比企尼の甥(姉妹の子)である「義員」を尼の猶子として召したとあり、配所の頼朝をおもに支えたのは掃部允であったと推測されます。この事実は平家政権も把握していたと見られ、源三位の乱への参戦のために在京していた相模国の大庭三郎景親が、平家被官の上総介藤原忠清から「北條四郎、比企掃部允等、為前武衛於大将軍、欲顕叛逆之志者」(『吾妻鏡』治承四年八月九日条)と聞かされています。比企掃部允は北条時政と同等の危険分子として平家から警戒されていたことを物語ります。しかし、景親は「北条者已為彼縁者之間、不知其意、掃部允者、早世者也者」と返答しており、掃部允は治承4(1180)年5月までに亡くなっていたのでしょう。

 なお、比企掃部允の比企家を継承したのは、比企藤内朝宗と思われます(比企尼の実家・郡司比企氏の出身か)。彼は「内舎人」として朝廷に伺候した経歴があったと見られ、『吾妻鏡』の記述方法からも比企尼の猶子・比企藤四郎能員よりも一族内での格は上でした(能員はあくまで比企尼の所領を継承した新立の比企氏別家の立場か)。しかし、比企能員は比企尼の由緒で若公頼家の乳母夫となって以降権勢を増し、朝宗を上回る右衛門尉・検非違使に補任されるに及び、比企氏を統べる立場になったと思われます。

 余談ですが、のちの鎌倉幕府の中枢を担った中原親能・大江広元らの父(義父か)にあたる中原広季は掃部寮の長官である「掃部頭」に任官していた可能性が高く(『尊卑分脈』※4)、掃部允の上官だった可能性も?

※1 のち平家が彼を「比企掃部允」と呼称していることから、比企郡に在住した可能性が高いだろう。

※2 『吾妻鏡』寿永元(1182)年八月十二日条、頼家誕生に伴う諸儀式の記録の中に「河越太郎重頼妻比企尼女、依召參入、候御乳付」とあることから、河越重頼の妻は比企尼の娘であった事は間違いない。『吉見系図』では比企尼の娘は三人記載されているが、『吾妻鏡』で比企尼の娘と明記されているのは、河越重頼の妻のみである。重頼の嫡子・河越重房は比企尼娘所生とすれば、仁安三(1168)年生まれ(『源平盛衰記』)と推測される。当時、河越重頼は平家の被官であるため、重頼と比企尼娘との婚姻は頼朝の指示ではなく、地縁(血縁)に拠った比企尼と河越氏との間での婚姻と考えられよう。

※3 『吉見系図』に見られるような、比企尼が聟三人に指示を出して生活を支えていたという記述については、そもそも盛長は頼朝を扶持できるような自領はなく、妻の「丹後内侍」は比企尼の娘ではない。河越重頼は平知盛に伺候する立場にあり、伊東祐清は父・祐親入道が平家与党であって頼朝を援助する力はない。これらのことから『吉見系図』の記述は後世の伝であると考えられる。

※4 『尊卑分脈』によれば、小一条流の大膳大夫藤原時綱の母は「掃部頭広季女」とある。この小一条流は陸奥守藤原師綱以来、大膳大夫を歴任しており、大江広元の陸奥守、大膳大夫といった任官はこの師綱流藤原氏の由縁かもしれない。また、中原親能・大江広元の掃部頭への任官は、養父の中原広季の先例であろう。
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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その六(丹後内侍)

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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その五(丹後内侍と丹後局)

●「丹後内侍」と「丹後局」

「丹後内侍」は藤九郎盛長の妻となった女性で、通説では比企尼の娘「丹後局」と同一人物とされています。
 しかし彼女について明確な伝はなく、比企尼との関連も系譜以外に伝えられているものはありません。はたして「丹後内侍」と「丹後局」は同一人物と考えてよいのでしょうか。

 まず、比企氏関係の伝で「丹後内侍」および「丹後局」が記載されているものには、三河守範頼の裔・吉見氏に伝わる『吉見系図』と、薩摩島津氏に伝わる島津家正史『島津氏正統系図』の二種があり、それぞれ比企氏出身者として「丹後内侍」「丹後局」を挙げています。

(一)『吉見系図』

 「比企尼の娘」である「丹後内侍」と藤九郎盛長が婚姻し、その娘が三河守範頼の妻となって二人の男子を産んだとされています。
 また、丹後内侍は盛長との婚姻前に惟宗広言と「密通」して惟宗忠久(島津忠久)を産んだとあります。

(二)『島津氏正統系図』

 比企判官能員(比企尼養子)の妹「丹後局」が頼朝の寵愛を受けて身籠り、御台所政子に鎌倉を追われて「摂津住吉」で男子(のちの忠久)を出産したと記載されています。

(三)『吾妻鏡』
 文治2(1186)年6月10日条、6月14日条に、丹後内侍の病悩の見舞いのため、頼朝が供を二人のみ連れて密かに甘縄邸を訪問していること、病悩平癒のため密かに立願していたこと、14日には平癒を聞いて安堵していることが記されています。

(一)(二)共通しているのは、「丹後内侍」または「丹後局」が比企氏由緒であるという点です。そのうち「丹後局」が比企氏由縁であることは、子の島津忠久が建仁3(1203)年9月2日の「比企能員の乱」で、能員の「縁坐」として日向・薩摩・大隅三国の守護職を解かれていることからも明らかです。ところが、この島津家伝には「丹後局」と藤九郎盛長との関係は一切記されていません。つまり、島津家には藤九郎盛長の伝承はなかったのでしょう。(三)については史実が記されている可能性が高いです。

(一) 「丹後内侍」は比企尼娘で藤九郎盛長の妻。京都の惟宗広言と密通して島津忠久を生む(=忠久母)。
(二) 「丹後局」は比企尼娘。頼朝の寵愛を受けて島津忠久を生む(=忠久母)。
(三)・「丹後内侍」は藤九郎盛長の妻。(『吾妻鏡』では「丹後内侍」を女房「丹後局」と同一視することはない)
   ・「丹後内侍」は安達景盛の母。
   ・「嶋津左衛門尉忠久」は「能員縁坐」で九州三か国の守護職没収。建仁3(1203)年9月4日条

(三)から、盛長妻は「丹後内侍」であって「丹後局」ではないことがわかります。つまり、「丹後内侍」は比企尼娘である「丹後局」ではないため、安達氏と比企氏の間に縁戚関係はないことになります。そして、嶋津忠久は比企能員の縁戚だったことがわかるため、忠久の母は系譜に見える比企尼娘「丹後局」であると推測されます。

「藤九郎盛長妻」=「丹後内侍」≠「丹後局」=「比企尼娘」「嶋津忠久の母」

(一)『吉見系図』では、比企尼娘「丹後内侍」が盛長との婚姻前に惟宗広言と密通して、島津忠久を出産したと記載されています。『吉見系図』では嶋津忠久は惟宗氏出身であると明確にしており、(二)『島津氏正統系図』のような頼朝落胤という伝はありません。しかし、嶋津氏は吉見氏とはまったく縁戚関係のない家であるにも関わらず、「丹後局」の説話が吉見氏の創生譚に取り込まれたのはいかなる理由があったのでしょう。

 推論ですが、おそらく自家の祖・三河守範頼の妻が藤九郎盛長の娘である以上、その母である「丹後内侍」の出自についても記す必要に迫られ、「丹後内侍」の情報を集めた結果によるものと思われます。その「丹後内侍」にまつわる様々な情報が系譜に取り込まれたことにより、「無双歌人」の性格(源三位頼政の私歌集『頼政集』に登場する「丹後内侍」の説話を取り込んだもの)が付与。そして、吉見氏が武蔵国横見郡吉見庄を比企尼から継承したという理由付けとして、島津家の「比企尼娘・丹後局」の伝を吸収したものと思われます。『吉見系図』では、もともと吉見氏に伝わっていた盛長妻「丹後内侍」の情報と、比企尼娘である「丹後局」の性格が合成されてしまったものでしょう。

 「丹後内侍」と「丹後局」が同一視された時期としては、弘安8(1295)年11月に勃発した「霜月騒動」よりも後、さらに言えば南北朝期と思われます。実は「霜月騒動」の発端の一つが、「丹後内侍」の子・安達景盛が実は「忝モ右大将頼朝卿ノ末」(『保暦間記』)という噂だったのです。景盛の子孫である安達氏が実は頼朝の落胤であり、将軍の座を狙っているという噂がたち、結局安達一族は滅ぼされてしまいます。このいわば源氏将軍の「呪縛」が解かれた南北朝期、嶋津氏は祖・忠久は「丹後局」が頼朝の寵愛を受けて生まれた落胤であるという筋書を作り上げました。これは、盛長妻「丹後内侍」が頼朝から丁重に扱われていた説話をエッセンスとして取り込んだ可能性は高いと思われますが、それは「丹後局」が頼朝から寵愛を受ける動機付けとして取り込まれたに過ぎず、比企尼娘「丹後局」と盛長妻「丹後内侍」を同一とすることはなく、嶋津家の伝では藤九郎盛長についての記述はありません。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その四

●安達氏と比企氏、頼家、北条氏との関係、その後の安達氏

 頼朝のもとには様々な出自の御家人が参集したが、とくに頼朝との私的関係から御家人になったのが、安達氏のほかでは北条氏(頼朝縁戚家)と比企氏(頼朝乳母家)が代表です。北条氏は頼家の外戚家ですが、頼家を養育したのは頼朝の命を受けた比企氏(頼朝乳母家)でした。頼家は北条氏と対立していた比企氏の影響を強く受けて育ったため、北条氏に対して反抗的な態度を持っていました。

 比企氏と安達氏の関係については、祖の藤九郎盛長は比企尼(頼朝乳母)の娘を妻としたとされ、比企氏と安達氏は親密な関係にあったとされています。しかし、実際はどうなのでしょう。

 推論ですが、盛長の妻・丹後内侍は後述のように実際には比企尼娘ではなく、頼朝の母方・熱田大宮司家所縁の女性で、丹後守ゆかりの人物を縁者に持っていた可能性が高いと思われます。安達氏は御台所との緊密な関係を考えると、北条氏と親密であって、北条氏と対立関係にあった比企氏とは疎遠であったと考えられます。また、藤九郎盛長以降、安達氏は上野国奉行人を務めていますが、比企右衛門尉能員は奥州征討時に上野国高山・大胡などの御家人を率い、上野国渋河の御家人・渋河兼忠の娘を室とするなど、比企氏と安達氏は上野国内における権力の重なりがみられ、比企氏と安達氏はこの部分でも対立関係にあった可能性があります。安達氏が比企氏と縁戚関係になかったのは、建仁3(1203)年9月2日の比企能員の乱で安達氏が一切罰せられていないことからも明らかでしょう(当時鎌倉におらず戦いに直接加わっていない比企能員の義甥・島津忠久ですら大隅薩摩日向三か国の守護職を没収)。

 頼家の安達氏敵視は北条氏敵視と重なっている可能性が高く、建久10(1199)年3月23日、頼家は三河国内の「太神宮御領六箇所被止地頭職」を行いました。これは、頼家が将軍宣下を受けた直後に行った「御宿願」とありますが、この六か所の地頭職は北条時政と盛長(推測)であるため、北条氏と安達氏へ対する一種の敵視政策の一環の可能性が考えられます。

 しかし、三代将軍・実朝は頼家とは異なり北条氏の影響下で育っていたためか、頼朝同様に安達氏を優遇しました。安達景盛は実朝政権下で信任を受けてその側近として活躍しますが、「源家の私的従者」の性格は継承されており、承久の乱に際しては、景盛が「二品(政子)」の言葉を代弁して御家人らに訓示している点(『吾妻鏡』承久三年五月十九日条)や、頼朝の姪孫にあたる皇子降誕(順徳天皇皇子、のちの仲恭天皇)に対する使者として上洛(建保六年十月二十七日条)するなど、頼朝・政子に繋がる事柄への対応が目だっています。

 御台所や実朝を通じて北条氏と親密な関係にあった安達景盛は、娘を執権北条泰時の長男・時氏へ嫁がせて縁戚関係となり、その子・経時や時頼を執権に擁立し、執権北条氏の外戚として安達氏は大きな力を持ちました。

 その後、宝治元(1247)年6月の「宝治合戦」で宿敵の三浦一族を葬り去り、景盛の孫・泰盛の代にその卓越した手腕も加わり、安達(城)氏は幕府最高執行機関である評定衆、引付衆にも選ばれて権勢は最高潮に達しました。ところが、北条宗家の内管領・平頼綱入道との対立が激化し、弘安8(1285)年11月17日、泰盛は殺害され、安達一族も全国で討たれて安達宗家氏は滅亡しました(霜月騒動)。

 ただ、安達氏は族滅したわけではなく、生き残った安達氏はその後も北条氏の縁戚として幕政に参与しましたが、鎌倉幕府の滅亡とともに一門の多くが幕府と運命をともにしました。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その三

●安達氏の性格

 安達氏の氏族としての特徴は、まず源家との強い「私的な主従関係」が挙げられます。おそらく盛長はもともと頼朝個人の「私的従者(雑色的な性格も兼ねる)」であり、頼朝の深い信頼関係で結ばれた近臣として重用されました。この盛長の出自から、その後の源家の「執事」的な氏族的立場が生まれたのでしょう。

 では、盛長はいつから頼朝に仕えたのでしょう。盛長は少なくとも平治元(1159)年12月の「平治の乱」の時点では頼朝と行動をともにしていないため、仕えた時期は、永暦元(1160)年3月に頼朝が伊豆に流された後であろうと思われます。先述のように、盛長は熱田大宮司家との関係が考えられ、頼朝出仕の時期やその信頼感から考えて、頼朝配流の際、頼朝の叔父「祐範」が付けた「郎従一人」が盛長そのひとである可能性も強ち有り得ないことではありません。

 頼朝配流から二十年後、藤九郎盛長は頼朝挙兵に当たっては各地の「累代御家人」に協力を依頼する使者として走り回り、千葉介常胤を味方に引き入れることに成功しました。鎌倉入部後は頼朝が尊崇した甘縄の伊勢社の管理のためか「甘縄」に屋敷を構えました。この盛長の「甘縄邸」は、後述のように、その後の頼朝をはじめとする歴代将軍が公式行事を行ったり、仮御所としたりするなど「公邸」の意味合いを持っていた様子がうかがえることから、「甘縄邸」はおそらく「源家別邸」的な性格の施設として建てられたものと思われます。そして、もっとも信頼する従者で、執事的存在の藤九郎盛長を主として据え置き、子孫の安達(城)氏もこれを代々継承していったのでしょう。頼朝が行った最初の「公的行事」は、治承4(1180)年12月20日の、新造御所から他所へ移る「御行始」でした(『吾妻鏡』治承四年十二月廿日条)。

 こうした盛長の頼朝個人の「私的従者」という性格は、盛長が宿老になっても残り、生涯を通じて官途に就くことがなかったのは、一般の御家人とは一線を画す存在だったためでしょう。名字を名乗らなかったのも頼朝個人の「私的従者(一部雑色的な存在)」の性格を有していたためでしょう。頼朝薨去の直後に「安達」の名字を称するようになりますが、これは頼朝個人との「私的従者(一部雑色的性格)」関係が解消されたということかもしれません。ただし、その後の安達氏と源家(尼御台含め)との個人的な繋がりは維持されており、それは個人の「私的従者」という立場から家の「私的従者(執事的存在)」へ昇華していると思われます。

 ところが、盛長のこうした「従者」という出自は、三浦氏ら有力な御家人からは一等低く見られていた可能性があり、宝治元(1247)年6月5日、安達景盛入道が子の城介義景、孫の城九郎泰盛を招いて、「被遣和平御書於若州之上者、向後彼氏族、独窮驕、益蔑如当家之時、憖顕対揚所存者、還可逢殃之條、置而無疑、只任運於天、今朝須決雌雄、曽莫期後日」と叱責している通り(『吾妻鏡』宝治元年六月五日条)、「当家を蔑如」にしてきた三浦泰村の態度がうかがわれます。

 そして、安達氏が源家の私的従者との認識が端的に表れているのが、頼朝の後継者である二代将軍・源頼家による景盛追討令です。正治元(1199)年8月、藤九郎盛長入道の管掌国・三河国で起こった叛乱の鎮定を景盛に命じ、その留守中に景盛の妾女を強奪するという暴挙に出、さらに帰国後に不平を言った廉で景盛追討を企てました。これは頼家が安達氏を「私的従者」であるとの認識があったからに他ならないでしょう。これは決して頼家だけの認識ではなく、政所別当・中原広元(のち大江広元)が「如此事非無先規、鳥羽院御寵愛祗園女御者源仲宗妻也、而召 仙洞之後、被配流仲宗隠岐国」と、頼家と景盛の関係を鳥羽院と源仲宗(院近臣)との関係に准えており、御家人中にも、安達氏は源家の「私的従者」であるという認識があったことをうかがわせます。

 なお、この強奪事件では、頼家の命を受けた「鎌倉中壮士等」が「藤九郎入道蓮西之甘縄宅」へ押寄せたため、尼御台がみずから甘縄邸に駆けつけ、頼家を激しく叱責し「若猶可被追討者、我先可中其箭」とまで言って、諸士を引き上げさせており、安達氏と尼御台は非常に緊密な関係にあったことがうかがわれます。頼家の安達氏(とくに景盛)に対する「敵意」は、頼家が伊豆国修善寺に押し込めになったのちも続き、「於安達右衛門尉景盛者、申請之、可加勘発之旨」を尼御台に対して願っていますが(『吾妻鏡』建仁三年十一月六日条)、「御所望条々、不可然」と悉く却下されました。この頼家の安達氏に対する激しい敵意は、その育った環境が強く影響していると思われます。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その二

●藤九郎盛長の出自

 前条のことから、藤九郎盛長は武蔵足立氏とは血縁関係のない氏族出身者と推測されますが、では盛長はどのような出自の人物だったのでしょう。明確な資料は残されておらず「推測」となりますが、

(一)頼朝の叔父に当たる「法眼範智」の伝に「藤九郎盛長〃人云々」の記述が見られ、盛長と熱田大宮司家の関連をうかがわせる(『尊卑分脈』)
(二)頼朝は母所縁の人物をことのほか大事にした→流人時代から盛長を殊に重用していた
(三)盛長は熱田大宮司家に所縁のある三河国との接点が深い
(四)子孫と思われる城九郎直盛は、尾張国の熱田大宮司領を押領し訴えられている→大宮司家との接点が?
(五)頼朝の配流にあたって、頼朝叔父「祐範」が付けた「郎従一人」が盛長そのひとの可能性?

などの理由から、熱田大宮司家と所縁の人物であろうと推測されます。また、盛長の妻「丹後内侍」も、その後の頼朝の特別な配慮から、こちらも熱田大宮司家との関係が強い可能性があります。

 ただ、一方で盛長は伊勢神宮との関連も感じさせる一面があります。

(一)盛長は伊勢別宮たる鎌倉の「甘縄神明社」の維持管理を任されていた。
   ⇒盛長邸(甘縄邸)が甘縄に造営された理由は、甘縄神明社の守護・管理のためと推測。
(二)盛長が奉行人を務めた「上野国」は、鎌倉時代初期には坂東諸国と比較すると伊勢神領がとても多い。
 〔参考〕建久3(1192)年8月当時の坂東諸国の伊勢神領(「神鳳抄」:『鎌倉遺文』614)
  国名    神領  
  相模国  大庭御厨、(鎌倉御厨?)
  武蔵国  榛谷御厨、七松御厨、大河土御厨
  上野国  薗田御厨、須永御厨、青柳御厨、玉村御厨、高山御厨、邑楽御厨
  下野国  片梁田御厨、寒河御厨
  安房国  東條御厨
  下総国  相馬御厨、夏見御厨
  常陸国  小栗御厨

(三)盛長が奉行人をつとめた「三河国」も伊勢神領が多い
   ⇒後年、二代将軍頼家が三河国の神領六ヶ所の権限を「地頭」から取り上げて伊勢神官の裁量とするが、
    その後、盛長の代官が狼藉を働いたとして伊勢神官が幕府に訴えている。
(四)安達(城)氏の被官・野田氏は、尾張国内の伊勢神領・野田御園の氏族か。

 しかし、伊勢との関わりについては、頼朝がもっとも信頼する家人盛長へ、尊崇する伊勢社の管理を任せたという理由であって、盛長の出自とは関係はないと思われます。また、上野国の奉行人についても、これは木曾義仲の上野・信濃への拘りに対する措置と思われることから、国奉行就任と伊勢神領との関わりもないと思われます。やはり、盛長は熱田大宮司家と何らかのかかわりを持っていた人物と思われます。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その一

「安達氏」は、鎌倉時代の有力御家人の一族ですが、実はその出自には諸説あってよくわかっていないというのが実際のところです。祖は、源頼朝のの従者として『吾妻鏡』にみえる「藤九郎盛長」という人物なのですが、実はこの始祖・藤九郎盛長がどのような人物なのか、前半生が判然とせず、頼朝に仕えたきっかけや時期すらはっきりしていません。

 現在では、武蔵足立氏の一族とされ、源頼朝の乳母・比企尼の長女である丹後内侍を妻とし、これをきっかけに頼朝に随い、御家人に列したというのがほぼ定説となっているようです。武蔵足立氏の当主・足立遠元の娘は、後白河院近臣の藤原光能(後白河院皇子・以仁王妾の兄弟)に嫁いでおり、足立氏は頼朝挙兵に深く関係した以仁王との関わりが指摘されています。

 しかしながら、具体的に安達氏が足立氏とともに行動する様子は『吾妻鏡』からはうかがえず、縁戚関係については『尊卑分脈』とそれを基にしたと推測される系譜以外にみられません。

 いったい安達氏とはどのような出自を持ち、どのような過程を経て成長していったのか、推論してみます。

●安達氏の出自

 安達氏は武蔵国足立郡の豪族・足立氏の一族であるという研究があります(金沢正大「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義‐上‐」『政治経済史学156』、「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義-下-」『政治経済史学157』)。

 たしかに『尊卑分脈』には魚名公流に藤九郎盛長の名が見え、世代的にも問題はありません。しかし、安達氏と足立氏が同族であるという点には、やはり否定的に見ざるを得ません。

【一】藤九郎盛長にはもともと郎従など被官層がいない

 まず、安達氏が武蔵国の有力豪族である足立氏と同族であれば、当然、安達氏も足立郡ゆかりの郎従がみられるはずですが、記録に残る初期安達氏の郎従としては、始祖・藤九郎盛長が国奉行を務めた「上野国」や秩父地方、別庄のあった武蔵南部の武士であって、足立郡内の氏族は見えません。

『吾妻鏡』(元久二<1205>年六月二十二日条)
・畠山重忠の乱で、安達景盛が先陣したときに率いた郎従六騎(参考:福島金治『安達泰盛と鎌倉幕府』有隣堂)
 ●野田与一 三河国愛智郡野田御園(愛知県名古屋市中川区野田~中村区野田町)か
 ●加治次郎 (宗季) 武蔵国高麗郡加治(飯能市岩沢)
 ●飽間太郎 上野国碓氷郡飽間郷(安中市秋間)
 ●鶴見平次 武蔵国鶴見郷(横浜市鶴見区)
  ・仁治二(1241)年十一月四日条に「秋田城介義景」の「別庄」記載。
 ●玉村太郎 上野国玉村御厨(佐波郡玉村町)
  ・たまむらのむまの太郎やすきよ:元寇時の安達泰盛の執事(1274年)
  ・たまむらの三郎盛清:元寇時の安達盛宗の側近(1281年)
 ●与藤次 不明

 もちろんこの六騎が景盛の抱えるすべての郎従ではありませんが、六騎はのちに執事家になった玉村氏がみられるため、景盛の側近かつ鎌倉の甘縄屋敷に常駐した主要な郎従たちと思われます。

 ①主要な郎従に新規被官層が就いている
 ②頼朝配流先で藤九郎盛長に被官がいた形跡がない

これらのことから、盛長はもともと被官はおらず、取立てによって新規被官を獲得したということと思われ、足立郡内に勢力を有していた武藏足立氏との積極的な関係性をみるのは困難と思われます。

【二】盛長が「アダチ」を称したのは晩年のみ

 実は『吾妻鏡』には、安達氏が「足立」としてみられる記事があります。
 ・正治元(1199)年十月廿七日条:「足立藤九郎入道」

 ところが、翌日には「安達藤九郎盛長入道」と記述されており、その後も盛長子息・景盛が「安達」を称していることからも、「足立藤九郎入道」の「足立」は「アダチ」と訓むが故の当て字であるとする方が自然でしょう。

 盛長や景盛が「安達」姓を称した実際の時期は不明ですが、同年4月時点で盛長は「藤九郎入道蓮西」(『吾妻鏡』建久十年四月十二日条)、7月には「安達弥九郎景盛」と見えることから(『吾妻鏡』正治元年七月十六日条)、4月から7月あたりのことかもしれません。盛長が晩年まで頑なに名字を名乗らず「藤九郎」と称していたのは、もともと盛長自身に領所を由緒とする「名字」が存在しなかったためであることと、後述の頼朝個人との「私的主従関係」に基づくものかもしれません。

 建久10(1199)年正月十三日の頼朝薨去の直後ともいえる時期に「安達」姓を称したのは、頼朝の死によって盛長が頼朝個人との「私的主従関係」を解消(ただし、源家および鎌倉殿との伝統的な私的主従関係は鎌倉時代を通じて存続)し、名字を名乗って一般御家人と同格となったためか。「安達」の由緒も確定的ではありませんが、陸奥国安達保(後年の建保6年立券)の地頭職などの所以か?

【三】『尊卑分脈』の疑問

 『尊卑分脈』によれば、足立氏と安達氏は共通の祖として小野田三郎兼広の名が見えます。その長男が「安達六郎」こと「小野田藤九郎盛長」、次男が「安達藤九郎」こと「民部丞遠兼」となっています。この次男・遠兼の子が「足立左衛門尉遠元」となっており、遠元は藤九郎盛長の「甥」ということとなります。しかし、

 ①足立遠元は平治元(1159)年12月の「平治の乱」ですでに源義朝の郎従として活躍し「右馬允」に任官。
 ②足立遠元の娘所生の二位藤原光俊(藤原光能の子)は治承3(1179)年生まれ。
 ③盛長が「城介」とされ、小野田姓を称する。
 ④盛長が「六郎」を称した傍証はなく、遠兼項の「安達藤九郎」との混濁?

といった疑問点が生じます。同じく『尊卑分脈』によれば盛長は保延元(1135)年生まれ(没年等からこれはほぼ妥当か)とされており、①②によって足立遠元は藤九郎盛長よりおよそ一世代前の人物と推測されます。『尊卑分脈』の記述を信用すれば、遠元は盛長より相当年上の甥ということになり、あまり現実的ではありません。そのほか、③のように盛長に対して「城介」とされていることや、『吾妻鏡』等の史料で盛長を小野田とする記述はないこと、④のように、盛長・遠兼の通称に明らかな混乱がみられる部分からも、『尊卑分脈』に採用された安達氏系譜の信頼性は非常に低いものと言わざるを得ません。

※足立遠元の父・遠兼の来歴はまったく知られませんが、大治5(1131)年12月2日の「女院熊野詣御門出」に際し、列した鳥羽院武者所の「侍」として「兼仲、為雅、頼倫、国政、実信、遠兼」が見えます(『中右記』大治五年十二月二日条)
 ・「国政」:摂津源氏頼綱の子・源国政?
 ・「実信」:秀郷流藤原氏の後藤実信?
 ・「遠兼」:足立遠兼?

 この時代、鳥羽院北面に良門流「藤原遠兼」がいますが、彼は父は従四位上大膳大夫親輔、自身ものちに従四位下左馬助まで昇っていて(『尊卑分脈』)、彼は侍品ではありません。
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