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九条兼実と源頼朝は終生疎遠ではなかった等(令和2年10月22日更新記録の一部追加)

●「千葉介」の千葉介常胤を全面改訂
千葉介常胤の項目については、常胤に直接関係はないが、当時の一連の社会情勢も鑑みて『玉葉』などの日記からも京都の情勢を取り上げ追記し、全面改訂した。

●「千葉氏その他の疑問」に「甚乏少、為之如何」と「万ヲボツカナシ」の誤解~頼朝と兼実の関係~を追加
『玉葉』『愚管抄』などを読んでみると、中世史のいわゆる「通説」にふと疑問がわく。そのひとつが九条兼実と頼朝の離合である。頼朝は後白河院との関係から兼実と結ぶも険悪化。その後、頼朝は兼実の政敵通親と組んで大姫入内工作を目論むが、今度は通親が頼朝を裏切って自らの養女を入内させてしまい、頼朝は大姫の死もあって入内の悲願叶わず、自らも死を迎え、その病床で兼実に詫びの手紙を書く、といったような説が通説としてある。どうしてそのような解釈となるのか、根本的な誤読・誤訳と思われる二点を取り上げてみた。いずれも頼朝二度目の上洛の際のエピソードである。

①「甚乏少、為之如何」の誤読
 建久6(1195)年3月30日、頼朝は御所内で兼実と対面し(『吾妻鏡』『玉葉』建久六年三月卅日条)、兼実は「謁頼朝卿、談雑事」(『玉葉』建久六年三月卅日条)と雑事を談じたとある。そして翌4月1日、頼朝は兼実へ「頼朝卿送馬二疋」ったが、これに対し兼実は「甚乏少、為之如何」(『玉葉』建久六年四月一日条)と述べる。通説では、頼朝が兼実には馬二頭しか献上せず、兼実も「甚乏少、為之如何」という感想を述べていることに対して、頼朝の冷遇または兼実の傲慢として捉えられているが、これは頼朝の「冷遇」なのだろうか。
 「為之如何」の意をそのまま読めば、「これを為すのにどうしたらよいのか」という困惑以外にはなく、それは頼朝が送ってきた馬の頭数がわずかに二頭であり、この二頭でどうやって用事(何らかの雑事であろう)を行えばよいのか、という意味となろう。想像するに前日の面会での雑事についての話の中で、兼実は頼朝に馬の提供を求め、頼朝も快諾したと思われる。しかし具体的な頭数の話はなかったため、このような行き違いが発生したのだろう。この日以降『玉葉』の日記はないため、この結末がどうなったのかはわからない。
 このような単純なメモ程度の日記が、なぜ頼朝の冷遇の根拠とされたのか。それはおそらく「如何」と「何如」の誤訳であろう。「何如」であれば「甚乏少、為之何如」は「馬二頭しか送ってよこさず甚だ少ないが、どういったことだ」と読めなくもないので、この誤読を以て、頼朝の冷遇と兼実の傲慢な態度へつながってしまったことも想像できる。

②「万ヲボツカナシ」の誤訳
 頼朝は二度目の上洛に際しては、「内裏ニテ又度々殿下見参シツゝアリケリ、コノ度ハ万ヲボツカナクヤアリケム」(『愚管抄』第六)という。通説では、「頼朝は兼実と内裏で度々面会するも、まったく素っ気ないものであった」というものである。実際そうなのであろうか。この点については「ヲボツカナ(シ)」の単純誤訳に基づくものである。「ヲボツカナ(シ)」とは、不審な様や明瞭ではない様を表すが、一方で、会いたくて待ちわびるという意味がある。前文から考えてもこの場合の「ヲボツカナ(シ)」は、明らかに後者であろう。前回上洛時には頼朝は兼実に、「後白河院に配慮して、表向き疎遠を演じるが、実際はまったく疎遠には思っていない」と告げているように、頼朝と兼実は接触を控えている。しかし、今回の上洛では後白河院もすでに崩じ憚るところはなかったのである。そのため慈円は前回の上洛と今回の上洛を比較して「コノ度ハ万ヲボツカナクヤアリケム」と述べているのである。これを否定的に「素っ気ない」等と誤訳してしまったものが、現在でも通説として用いられているとみられる。

 近年の頼朝と兼実の関係を否定的にとらえる大きなベースが、上記の二つであろう。

 以上のことから、実際の兼実と頼朝との関係は、
①後鳥羽天皇が「殿下、鎌倉ノ将軍仰セ合セツゝ世ノ政ハアリケリ」(『愚管抄』第六)とあるように、天皇は兼実、頼朝と朝務に関する情報や問題点を共有していた。
②頼朝は、兼実が関白を辞する直前まで兼実と政務に関して条々を交わし続けていた(最後の返信が兼実に届いたのは、関白が基通へ移った後であった)。
③兼実が関白を辞したのちも、頼朝は中宮(兼実娘)の再入内を考えていた。
④頼朝が死の間際に兼実へ宛てた「今年心シヅカニノボリテ、世ノ事沙汰セント思ヒタリケリ、万ノ事存ノ外ニ候」という手紙を送達している。

以上のことから見ても、頼朝と兼実の関係は一貫して良好なままであったことがわかる。こうした兼実と頼朝との関係は当然その跡を引きついだ人々へも継承され、九條家からの鎌倉殿頼経誕生へとつながっていったと考えられる

●そのほか思ったことを本文でも記載しています(通説とは異なる部分があると思われます)。

①頼朝が権大納言、右大将の任官後すぐに辞任し帰途につく
 後白河院が頼朝へ権大納言及び右大将任官を強要し、頼朝が已む無く受けるも即辞任して鎌倉へ帰還する行の解釈として、院が頼朝を大臣(任大臣の要件は原則として大納言及び近衛大将の任官が必須のため、院は両官を頼朝へ強要した)として京常駐を目論む(治安維持及び自らの安保のためか)が、官途による束縛および勲功賞を受けないという一貫したポリシーから両官を辞して帰途についたと考える。頼朝が家人郎従等に対して京都の顕官を認めることを渋ったのも、こうした頼朝の考え方に準じたものだろう。なお、近衛大将は後先にも決して武家の棟梁たる証ではなく、公卿が任大臣のために必要な一過程に過ぎない。近衛大将も兼官となる馬寮御監も実質的な軍事指揮権はなく、一時的な名誉職である。

②安田義定、義資の誅殺
 これは甲斐源氏の勢力減退をねらったものと考えられている。しかし、『吾妻鏡』の記述を事実として捉えたとすれば、義資が女官に艶書を投書したという永福寺の新造薬師堂供養は、その時期から大姫の病気平癒祈願も含まれていた可能性が高いと考える。こうした性格の薬師堂供養において不埒な行いがあったとすれば、通常であれば許されるような罪科であっても許されなかった可能性はあったであろう。父の義定は義資殺害に当然ながら怒りを禁じえなかったであろうと思われ、頼朝または告口した梶原氏に対する意趣を含んだ可能性は十分考えられる。
 この頃は、安田氏が源氏勢力の一翼を担った頃とは情勢は大きく変わり、鎌倉家政所の支配下にある安田氏の影響力は相対的にかなり低かったことは間違いなく、頼朝が安田氏を危険視することは考えにくいと思われる。つまり、安田義定らの誅殺は彼らの権勢を恐れたものではなく、義資は祈願内容を弁えぬ不貞行為による刑死、義定は義資殺害に対する報復発覚による誅殺と考えられる。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当の葉月です今日のテーマは「あなたの好きなスポーツは?」ですいよいよ10月に入り、今年もあと二ヵ月となりましたねスポーツの秋なんて言われますが、皆様は好きなスポーツはありますか私はスポーツを見る方が好きなんですが、2019年のワールドカップ以降ラグビーを見ることにハマっていますかなりミーハーですけど、ワイルドなスポーツなのに礼儀正しい選手たちに感銘を受...
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