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義朝が京都から関東へ下向した時期や理由の考察

 ~義朝が京都から関東へ下向した時期や理由の考察~
 
■義朝の下向は後ろ向きな理由ではなく、為義の東国経営のため

 ① 義朝嫡子の義平が「称御母人」として慕ったのが秩父氏当主の秩父重綱の妻であり、幼少時から秩父氏に養育されていた。
 ② ①から、義平実母は早くに亡くなっていると推測される。
 ③ 義平誕生は永治元(1141)年と推定される。
 ④ 幼児を伴っての東国下向は考えにくい。
 ⑤ 義平実母は橋本宿遊女とされる。
 以上の事から、義朝は東国下向の際に橋本宿遊女を伴って秩父重綱のもとへ至り、ここで義平が誕生。しかし、実母の橋本宿遊女は早世し、秩父重綱妻が守育てたと思われる。つまり、義朝の東国下向は遅くとも保延6(1140)年と考えられる。そして、義朝や義平を庇護した秩父重綱は以前より源家との関わりがあったと推測できることから、為義被官人であったと思われる。これは祖の武基、武綱以来の源家との紐帯が続いていたことを意味するものであろう。

 相馬御厨介入の前年、永治2(1142)年に上野国緑野郡高山御厨が成立(再寄進と思われる)するが、これに関する「起請寄文」を皇大神宮に奉じたのは「故左馬頭家」であった。つまり、義朝は永治2(1142)年までは武蔵国にあり、高山御厨の管理は重綱三男・三郎重遠にゆだねたと考えられる。なお、重綱の館は、秩父氏の氏寺と思われる平澤寺近くで交通の要衝であった菅谷あたりであろうか。のちに畠山重忠が館を構えたのはその由緒によるものか。

 その翌年の康治2(1143)年には上総国へ移り、今度は上総権介常澄と繋がって、平常重が下司職を有していた下総国相馬郡御厨の再寄進を目論んだ。これは常澄の「浮事」を利用したものであるが、両総平氏を源家被官人として改めて再構成する目的のものと考えられる。そして義朝は相馬御厨を「掠領」するも、再寄進することなく、翌年の天養元(1144)年には「称伝得字鎌倉之楯、令居住之間」とあるように上総国を離れて鎌倉に居住している。なお、常澄の九男・九郎常清が相馬氏を称しているのは、このときに義朝代官として相馬郡に入部したためかもしれない。

 そして、天養元(1144)年9月、義朝は相模国の在庁らを率い、大庭御厨は鎌倉郡内と称して大庭御厨に乱入。伊勢神官末流の荒木田彦松の頭を割ったり御厨下司の大庭景宗の屋敷を破壊するなどの狼藉をはたらいた。そのため、義朝は朝廷から譴責の対象となり、朝廷から相模国司へ義朝の濫妨停止の宣旨が下される。その後、義朝は上洛したとみられるが、皇大神宮の神威を恐れた義朝は翌天養2(1145)年3月11日、在京中に相馬御厨を神宮へ寄進したと思われる。大庭御厨に対しての狼藉行為は義朝にとって得るものはなく、最大の目的は、義家郎従の鎌倉景正末裔である大庭氏の再編入化にあったと考えられる。

 義朝の東国下向の最大の目的は、京都で院の信頼を失った為義が摂関家に近づくに当たり、その最大の強みである「武士」としての警衛力を固めるため、武蔵国、上総国、下総国、相模国の将軍頼義、陸奥守義家以来の被官層の再構築を行う事であったと考えられる。義朝は足掛け四年余りでこれらを完了させて上洛を果たしているように、為義が嫡子義朝を東国へ下したのは、その力量を見込んでのものであって、決して「廃嫡」という後ろ向きな理由ではない。次弟の義賢が東宮躰仁親王の帯刀先生となり、官途の上で義朝を抜いたのも、義朝が留守の間も源家の地位向上を目指す為義の運動工作によるものであろう。

 のち義賢が関東に下ったのは、為義の命によって東山道の要衝を抑えることが最大の理由であって、義平との対立のためではないだろう。義賢と義平の対立は、重綱の後継者となった秩父重隆が、義平を擁する甥・畠山庄司重能(義平乳母の孫であろう)と、義平舅の新田義重からの圧力に対抗するために、上野国多胡から招聘して女婿とし、みずからの居館である菅谷館からほど近い大蔵の高台に住まわせたと考えるのが自然だろう。そして久寿2(1155)年8月16日、義平は義賢を大蔵館に攻めて討つこととなるが、これは義平と義賢の対立から生じたものではなく、秩父氏内の争いが発端であったと考えられる。
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