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相馬野馬追い 7月25日 +相馬家史跡めぐり

 7月25日、今日は「相馬野馬追」の最後を飾る「野馬懸」です。

 南相馬市小高区(こないだまでは小高町)の相馬小高神社で行なわれる、神馬奉納の儀式です。相馬小高神社は、古く鎌倉時代から室町期にかけて相馬家が居城とした古城址にある神社で、千葉一族・相馬家ゆかりの妙見を祀っています。南北朝時代、南朝の鎮守府将軍・北畠顕家が、惣領代・相馬光胤(関東から東北へ移った相馬重胤の次男)がこの小高城で戦い、相馬一族が多数戦死しました。ただ、六百七十年前の戦いの跡はまったく残っていません。

小高城
 ▲小高城

 9時01分、小高駅着。六百九十年の昔、相馬家が下総から移り住んだ土地です。昨日の夕方から夜にかけての雨がウソっぱちのような晴天です。ジリジリと暑い…いや熱い。。。小高神社まではしばらく歩かなくてはならず、水を買って腕にかけながらの移動です。

 およそ15分で小高神社へ到着。こちらの橋から見える赤い橋は「妙見橋」といい、小高神社の表参道になります。まだ神事が始まるまで時間があるので、相馬家ゆかりの寺址と館跡をめぐることにしました。

 小高神社を左に見て北へ向う坂道を数百メートル行くと、中世相馬氏ゆかりの「金性寺(錦繍寺)」「長命寺」跡があります。今となってはすっかり森になっていますが、かつては小高神社の別当寺として立派な伽藍がありました。その金性寺の南に隣り合っていたのが、「長命寺」です。こちらも相馬家にゆかりの深い寺で、相馬家が下総から持ってきたお寺です。両寺は場所を変え、今でも大きなお寺として残っています。

金性寺址 長命寺址
 ▲金性寺跡           ▲長命寺跡。向こうに見えるのが小高神社裏口。

 その両寺と東西に隣り合っていたのが、相馬家の館(東館)です。今では畑と森になっています。相馬家は小高城を中心に、東西に館を持ち、東館のさらに東には岩迫館を構えていました。まだ神事まで時間があったので、岩迫館、さらに奥にあった歓喜寺の跡へ行くことにしました。

東館 岩迫館
 ▲東館跡            ▲岩迫館跡

 岩迫館をぐるりと東に回って道なりに進むと、やがて行き止まりとなりますが、ここが相馬家の祈願寺だった歓喜寺の跡になります。歓喜寺も相馬家が中村(現在の相馬市中村)へ移るに及び、相馬へ移り、今でも相馬市に広大な寺域を持っています。

歓喜寺址 歓喜寺
 ▲歓喜寺跡            ▲相馬市にある現在の歓喜寺

 時間は9時35分。そろそろ小高神社へ行かないと、場所が取れない。ということで、急ぎ小高神社へ

 神社へつくと、とりあえず全体が見渡せる小高い土盛の上に場所を取ることに成功。木陰なので暑くもなく、涼しい風も吹いてきて、結構ベストポジションです。

 そうこうしている間に、法螺貝が鳴り響き、やがて相馬の民謡「相馬流れ山」がはじまりました。七百年前、下総からこの相馬地方へ下ってきた相馬孫五郎重胤ゆかりの民謡で、重胤が故郷流山(千葉県流山市)を懐かしんで口ずさんだものが始まりとされています。

小高城内法螺 相馬流山
 ▲法螺役による法螺貝         ▲相馬流れ山

 その後、清めの儀式が行なわれて、いよいよ野馬懸神事が始まりました。野に放たれた荒駒を騎馬武者が神社の境内に追い込み、当主側近の御小人が素手で捕らえ、神社に奉納するという、なんとも野性味あふれた神事です。

 やがて、神社の下のほうから怒号と馬蹄の響き! ドドドドド…! と、裸馬と騎馬武者が飛び込んできました! 

野馬懸1 
 ▲境内に追い込まれた馬

 追っている所を見たほうがリアルなんでしょうが、今、この木陰で高見のポジションを動いてしまったら、二度とコノ場所には戻れない。今回は仕方なくこの場所から観戦です。

 最初に入ってきた白馬は、勢いよく飛び込んできたと思ったら、草に滑ってドスンと転んでしまいました。ちょっと呆然としたあと、その馬はのどかに食事タイム。。。「荒駒」とは程遠いイメージです。

野馬懸3 野馬懸5 野馬懸6
 ▲のどかに草をハモハモ…  ▲逃げる!         ▲奉納された馬

 野馬懸一本終るごとに、騎馬武者の一人が、観覧の総大将に終了の報告です。そして、あわせて五頭が境内に集められると、御神水を浸したでっかい刷毛で、馬に目印をつけます。その御神水のついた馬を、御小人が素手で捕らえるわけですが、はじめに目をつけられた白馬は境内から逃げようと、木陰に隠れてしまい、静かに捕まってしまいました

 残りの馬は、のちほど競りの対象となりますが、この馬たちも御小人によって捕らえられます。こっちの馬のほうが「荒駒」を髣髴とさせる暴れぶりを見せていました。

野馬懸2
 ▲逃げる!

 この野馬懸が終ると、馬競りです。何万、何十万と競っていますが、ほんとに買うんでしょうか?? ずいぶん安い買い物のような気がする。。。

 そして、競りも終ると、小高郷による神旗争奪戦です。境内の西の外れの一角で、小高神社の御神旗を打ち上げ、もみくちゃに取り合います。かなり近くでの観戦なので、雲雀が原の争奪戦よりも迫力があります!

小高御神旗
 ▲小高郷による神旗争奪戦

 しばらく観戦したあと、祭りとは離れて史跡の調査です。神旗争奪戦の広場に面して、明治の戊辰戦争時、活躍して戦死した相馬中村藩士の供養石碑が立てられています。その筆頭に見えるのが、相馬藩公家の一門だった相馬将監胤真です。その生没年が不明だったのですが、この石碑によれば三十五歳での戦死だったことがわかります。「鬼将監」と呼ばれた相馬胤真は、西軍に攻められていた平城(いわき市)の援軍に駆けつけ、西軍との戦いの中で陣頭指揮を採り、銃弾に斃れました。

相馬将監
 ▲相馬将監胤真の名

 なお、この相馬将監胤真の子も、父と同じ「胤真」を名乗り、馬術の名人として明治期に名を知られた人物でした。相馬胤真の碑は相馬中村城の大手門をくぐった先に残っています。

 このとき時間はすでに11時45分。11時59分小高駅発の電車に乗る予定なので、ちょっと急ぎ足で小高駅に戻らなくては。そして、11時56分、小高駅着。相馬駅に戻ります。

小高駅
 ▲小高駅

 12時47分、相馬駅着。ここからまず、相馬家の菩提寺の一つ、蒼龍寺(跡)へ向います。すでに蒼龍寺は南の馬場野へ移転してしまっているので、ここにあるのは墓所だけです。この寺の東側には、かつて相馬家御一家の泉家の菩提寺・東泉院がありました。今回はその跡地調査です。…が、もはや何も残っていません 幕末の時点では泉家歴代の墓碑が残っていたのですが、今は住宅となっています。そりゃそうか。

 続いて、相馬将監・相馬主税など相馬家御一家衆の菩提寺だった永祥寺跡へ。ここ一帯は「北山史跡」として昭和50年代まではかなり史跡が残されていたようですが、今は住宅と道路に様変わりしています。そんな中でも永祥寺跡はしっかり残っていて、住宅地に残されたちょっとした山道を入ると、多くの碑が残っていました。ただ、高台にあるためか、文字はすっかり風化しています。

永祥寺1 永祥寺2
 ▲永祥寺跡に残る石碑群  ▲永祥寺跡遠景

 これにて野馬追いおよび、相馬家史跡めぐりは終了です。

 帰りの5時過ぎの上り電車を待つ間の残り時間は、駅前の図書館で資料の閲覧+納涼。。。 やっぱし酷暑の中の図書館は天国です。。。

テーマ : 史跡巡り
ジャンル : 旅行

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こんにちは

田代様

こんにちは。
しばらくブログの確認をしていなかったため、お返事が大変遅くなりまして申し訳ありません。
このコメントをご覧いただける状況におられないかもしれませんが、お返事をさせていただきます。

私が住んでおります千葉県松戸市や柏市周辺は、相馬家とも大変所縁の深い土地柄で、今でも「相馬」家が数多く残っています。十年以上前ですが、旧東葛飾郡沼南町長は、こちらに残った相馬家の末裔嫡流の方でした。こうした所縁から、私も相馬市、南相馬市、双葉郡の千葉一族にとても親近感を感じ、中村相馬家周辺をHP上の重要なメインテーマのひとつとして扱ってきました。そのため、相馬地方の震災の被害が甚大なことに加え、原発の問題、漁業、農業に渡っての影響等を考えるに、相当ショックでした。しかし、田代様はじめ、相馬市の皆様のお気持ちやご苦労を考えると、言葉も浮かびません。相馬市長の力強いメールマガジンも拝読いたしました。

こちらのラジオ(TOKYO-FM)では、「猪苗代湖ズ」の「I love you & I need you ふくしま」が繰り返し流れています。野馬追い、赤ベコ、鶴が城…この曲を聴くと、福島の復旧を信じることができます。私には些少な義援金という形でしか協力ができませんでしたが、一日も早い復興をお祈り申し上げます。
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もっきー

Author:もっきー
千葉一族、Mr.Childrenをコヨナク愛する千葉県人

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