スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その一

「安達氏」は、鎌倉時代の有力御家人の一族ですが、実はその出自には諸説あってよくわかっていないというのが実際のところです。祖は、源頼朝のの従者として『吾妻鏡』にみえる「藤九郎盛長」という人物なのですが、実はこの始祖・藤九郎盛長がどのような人物なのか、前半生が判然とせず、頼朝に仕えたきっかけや時期すらはっきりしていません。

 現在では、武蔵足立氏の一族とされ、源頼朝の乳母・比企尼の長女である丹後内侍を妻とし、これをきっかけに頼朝に随い、御家人に列したというのがほぼ定説となっているようです。武蔵足立氏の当主・足立遠元の娘は、後白河院近臣の藤原光能(後白河院皇子・以仁王妾の兄弟)に嫁いでおり、足立氏は頼朝挙兵に深く関係した以仁王との関わりが指摘されています。

 しかしながら、具体的に安達氏が足立氏とともに行動する様子は『吾妻鏡』からはうかがえず、縁戚関係については『尊卑分脈』とそれを基にしたと推測される系譜以外にみられません。

 いったい安達氏とはどのような出自を持ち、どのような過程を経て成長していったのか、推論してみます。

●安達氏の出自

 安達氏は武蔵国足立郡の豪族・足立氏の一族であるという研究があります(金沢正大「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義‐上‐」『政治経済史学156』、「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義-下-」『政治経済史学157』)。

 たしかに『尊卑分脈』には魚名公流に藤九郎盛長の名が見え、世代的にも問題はありません。しかし、安達氏と足立氏が同族であるという点には、やはり否定的に見ざるを得ません。

【一】藤九郎盛長にはもともと郎従など被官層がいない

 まず、安達氏が武蔵国の有力豪族である足立氏と同族であれば、当然、安達氏も足立郡ゆかりの郎従がみられるはずですが、記録に残る初期安達氏の郎従としては、始祖・藤九郎盛長が国奉行を務めた「上野国」や秩父地方、別庄のあった武蔵南部の武士であって、足立郡内の氏族は見えません。

『吾妻鏡』(元久二<1205>年六月二十二日条)
・畠山重忠の乱で、安達景盛が先陣したときに率いた郎従六騎(参考:福島金治『安達泰盛と鎌倉幕府』有隣堂)
 ●野田与一 三河国愛智郡野田御園(愛知県名古屋市中川区野田~中村区野田町)か
 ●加治次郎 (宗季) 武蔵国高麗郡加治(飯能市岩沢)
 ●飽間太郎 上野国碓氷郡飽間郷(安中市秋間)
 ●鶴見平次 武蔵国鶴見郷(横浜市鶴見区)
  ・仁治二(1241)年十一月四日条に「秋田城介義景」の「別庄」記載。
 ●玉村太郎 上野国玉村御厨(佐波郡玉村町)
  ・たまむらのむまの太郎やすきよ:元寇時の安達泰盛の執事(1274年)
  ・たまむらの三郎盛清:元寇時の安達盛宗の側近(1281年)
 ●与藤次 不明

 もちろんこの六騎が景盛の抱えるすべての郎従ではありませんが、六騎はのちに執事家になった玉村氏がみられるため、景盛の側近かつ鎌倉の甘縄屋敷に常駐した主要な郎従たちと思われます。

 ①主要な郎従に新規被官層が就いている
 ②頼朝配流先で藤九郎盛長に被官がいた形跡がない

これらのことから、盛長はもともと被官はおらず、取立てによって新規被官を獲得したということと思われ、足立郡内に勢力を有していた武藏足立氏との積極的な関係性をみるのは困難と思われます。

【二】盛長が「アダチ」を称したのは晩年のみ

 実は『吾妻鏡』には、安達氏が「足立」としてみられる記事があります。
 ・正治元(1199)年十月廿七日条:「足立藤九郎入道」

 ところが、翌日には「安達藤九郎盛長入道」と記述されており、その後も盛長子息・景盛が「安達」を称していることからも、「足立藤九郎入道」の「足立」は「アダチ」と訓むが故の当て字であるとする方が自然でしょう。

 盛長や景盛が「安達」姓を称した実際の時期は不明ですが、同年4月時点で盛長は「藤九郎入道蓮西」(『吾妻鏡』建久十年四月十二日条)、7月には「安達弥九郎景盛」と見えることから(『吾妻鏡』正治元年七月十六日条)、4月から7月あたりのことかもしれません。盛長が晩年まで頑なに名字を名乗らず「藤九郎」と称していたのは、もともと盛長自身に領所を由緒とする「名字」が存在しなかったためであることと、後述の頼朝個人との「私的主従関係」に基づくものかもしれません。

 建久10(1199)年正月十三日の頼朝薨去の直後ともいえる時期に「安達」姓を称したのは、頼朝の死によって盛長が頼朝個人との「私的主従関係」を解消(ただし、源家および鎌倉殿との伝統的な私的主従関係は鎌倉時代を通じて存続)し、名字を名乗って一般御家人と同格となったためか。「安達」の由緒も確定的ではありませんが、陸奥国安達保(後年の建保6年立券)の地頭職などの所以か?

【三】『尊卑分脈』の疑問

 『尊卑分脈』によれば、足立氏と安達氏は共通の祖として小野田三郎兼広の名が見えます。その長男が「安達六郎」こと「小野田藤九郎盛長」、次男が「安達藤九郎」こと「民部丞遠兼」となっています。この次男・遠兼の子が「足立左衛門尉遠元」となっており、遠元は藤九郎盛長の「甥」ということとなります。しかし、

 ①足立遠元は平治元(1159)年12月の「平治の乱」ですでに源義朝の郎従として活躍し「右馬允」に任官。
 ②足立遠元の娘所生の二位藤原光俊(藤原光能の子)は治承3(1179)年生まれ。
 ③盛長が「城介」とされ、小野田姓を称する。
 ④盛長が「六郎」を称した傍証はなく、遠兼項の「安達藤九郎」との混濁?

といった疑問点が生じます。同じく『尊卑分脈』によれば盛長は保延元(1135)年生まれ(没年等からこれはほぼ妥当か)とされており、①②によって足立遠元は藤九郎盛長よりおよそ一世代前の人物と推測されます。『尊卑分脈』の記述を信用すれば、遠元は盛長より相当年上の甥ということになり、あまり現実的ではありません。そのほか、③のように盛長に対して「城介」とされていることや、『吾妻鏡』等の史料で盛長を小野田とする記述はないこと、④のように、盛長・遠兼の通称に明らかな混乱がみられる部分からも、『尊卑分脈』に採用された安達氏系譜の信頼性は非常に低いものと言わざるを得ません。

※足立遠元の父・遠兼の来歴はまったく知られませんが、大治5(1131)年12月2日の「女院熊野詣御門出」に際し、列した鳥羽院武者所の「侍」として「兼仲、為雅、頼倫、国政、実信、遠兼」が見えます(『中右記』大治五年十二月二日条)
 ・「国政」:摂津源氏頼綱の子・源国政?
 ・「実信」:秀郷流藤原氏の後藤実信?
 ・「遠兼」:足立遠兼?

 この時代、鳥羽院北面に良門流「藤原遠兼」がいますが、彼は父は従四位上大膳大夫親輔、自身ものちに従四位下左馬助まで昇っていて(『尊卑分脈』)、彼は侍品ではありません。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

もっきー

Author:もっきー
千葉一族、Mr.Childrenをコヨナク愛する千葉県人

リンク
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
月別アーカイブ
カテゴリー
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。