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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その四

●安達氏と比企氏、頼家、北条氏との関係、その後の安達氏

 頼朝のもとには様々な出自の御家人が参集したが、とくに頼朝との私的関係から御家人になったのが、安達氏のほかでは北条氏(頼朝縁戚家)と比企氏(頼朝乳母家)が代表です。北条氏は頼家の外戚家ですが、頼家を養育したのは頼朝の命を受けた比企氏(頼朝乳母家)でした。頼家は北条氏と対立していた比企氏の影響を強く受けて育ったため、北条氏に対して反抗的な態度を持っていました。

 比企氏と安達氏の関係については、祖の藤九郎盛長は比企尼(頼朝乳母)の娘を妻としたとされ、比企氏と安達氏は親密な関係にあったとされています。しかし、実際はどうなのでしょう。

 推論ですが、盛長の妻・丹後内侍は後述のように実際には比企尼娘ではなく、頼朝の母方・熱田大宮司家所縁の女性で、丹後守ゆかりの人物を縁者に持っていた可能性が高いと思われます。安達氏は御台所との緊密な関係を考えると、北条氏と親密であって、北条氏と対立関係にあった比企氏とは疎遠であったと考えられます。また、藤九郎盛長以降、安達氏は上野国奉行人を務めていますが、比企右衛門尉能員は奥州征討時に上野国高山・大胡などの御家人を率い、上野国渋河の御家人・渋河兼忠の娘を室とするなど、比企氏と安達氏は上野国内における権力の重なりがみられ、比企氏と安達氏はこの部分でも対立関係にあった可能性があります。安達氏が比企氏と縁戚関係になかったのは、建仁3(1203)年9月2日の比企能員の乱で安達氏が一切罰せられていないことからも明らかでしょう(当時鎌倉におらず戦いに直接加わっていない比企能員の義甥・島津忠久ですら大隅薩摩日向三か国の守護職を没収)。

 頼家の安達氏敵視は北条氏敵視と重なっている可能性が高く、建久10(1199)年3月23日、頼家は三河国内の「太神宮御領六箇所被止地頭職」を行いました。これは、頼家が将軍宣下を受けた直後に行った「御宿願」とありますが、この六か所の地頭職は北条時政と盛長(推測)であるため、北条氏と安達氏へ対する一種の敵視政策の一環の可能性が考えられます。

 しかし、三代将軍・実朝は頼家とは異なり北条氏の影響下で育っていたためか、頼朝同様に安達氏を優遇しました。安達景盛は実朝政権下で信任を受けてその側近として活躍しますが、「源家の私的従者」の性格は継承されており、承久の乱に際しては、景盛が「二品(政子)」の言葉を代弁して御家人らに訓示している点(『吾妻鏡』承久三年五月十九日条)や、頼朝の姪孫にあたる皇子降誕(順徳天皇皇子、のちの仲恭天皇)に対する使者として上洛(建保六年十月二十七日条)するなど、頼朝・政子に繋がる事柄への対応が目だっています。

 御台所や実朝を通じて北条氏と親密な関係にあった安達景盛は、娘を執権北条泰時の長男・時氏へ嫁がせて縁戚関係となり、その子・経時や時頼を執権に擁立し、執権北条氏の外戚として安達氏は大きな力を持ちました。

 その後、宝治元(1247)年6月の「宝治合戦」で宿敵の三浦一族を葬り去り、景盛の孫・泰盛の代にその卓越した手腕も加わり、安達(城)氏は幕府最高執行機関である評定衆、引付衆にも選ばれて権勢は最高潮に達しました。ところが、北条宗家の内管領・平頼綱入道との対立が激化し、弘安8(1285)年11月17日、泰盛は殺害され、安達一族も全国で討たれて安達宗家氏は滅亡しました(霜月騒動)。

 ただ、安達氏は族滅したわけではなく、生き残った安達氏はその後も北条氏の縁戚として幕政に参与しましたが、鎌倉幕府の滅亡とともに一門の多くが幕府と運命をともにしました。

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