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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その五(丹後内侍と丹後局)

●「丹後内侍」と「丹後局」

「丹後内侍」は藤九郎盛長の妻となった女性で、通説では比企尼の娘「丹後局」と同一人物とされています。
 しかし彼女について明確な伝はなく、比企尼との関連も系譜以外に伝えられているものはありません。はたして「丹後内侍」と「丹後局」は同一人物と考えてよいのでしょうか。

 まず、比企氏関係の伝で「丹後内侍」および「丹後局」が記載されているものには、三河守範頼の裔・吉見氏に伝わる『吉見系図』と、薩摩島津氏に伝わる島津家正史『島津氏正統系図』の二種があり、それぞれ比企氏出身者として「丹後内侍」「丹後局」を挙げています。

(一)『吉見系図』

 「比企尼の娘」である「丹後内侍」と藤九郎盛長が婚姻し、その娘が三河守範頼の妻となって二人の男子を産んだとされています。
 また、丹後内侍は盛長との婚姻前に惟宗広言と「密通」して惟宗忠久(島津忠久)を産んだとあります。

(二)『島津氏正統系図』

 比企判官能員(比企尼養子)の妹「丹後局」が頼朝の寵愛を受けて身籠り、御台所政子に鎌倉を追われて「摂津住吉」で男子(のちの忠久)を出産したと記載されています。

(三)『吾妻鏡』
 文治2(1186)年6月10日条、6月14日条に、丹後内侍の病悩の見舞いのため、頼朝が供を二人のみ連れて密かに甘縄邸を訪問していること、病悩平癒のため密かに立願していたこと、14日には平癒を聞いて安堵していることが記されています。

(一)(二)共通しているのは、「丹後内侍」または「丹後局」が比企氏由緒であるという点です。そのうち「丹後局」が比企氏由縁であることは、子の島津忠久が建仁3(1203)年9月2日の「比企能員の乱」で、能員の「縁坐」として日向・薩摩・大隅三国の守護職を解かれていることからも明らかです。ところが、この島津家伝には「丹後局」と藤九郎盛長との関係は一切記されていません。つまり、島津家には藤九郎盛長の伝承はなかったのでしょう。(三)については史実が記されている可能性が高いです。

(一) 「丹後内侍」は比企尼娘で藤九郎盛長の妻。京都の惟宗広言と密通して島津忠久を生む(=忠久母)。
(二) 「丹後局」は比企尼娘。頼朝の寵愛を受けて島津忠久を生む(=忠久母)。
(三)・「丹後内侍」は藤九郎盛長の妻。(『吾妻鏡』では「丹後内侍」を女房「丹後局」と同一視することはない)
   ・「丹後内侍」は安達景盛の母。
   ・「嶋津左衛門尉忠久」は「能員縁坐」で九州三か国の守護職没収。建仁3(1203)年9月4日条

(三)から、盛長妻は「丹後内侍」であって「丹後局」ではないことがわかります。つまり、「丹後内侍」は比企尼娘である「丹後局」ではないため、安達氏と比企氏の間に縁戚関係はないことになります。そして、嶋津忠久は比企能員の縁戚だったことがわかるため、忠久の母は系譜に見える比企尼娘「丹後局」であると推測されます。

「藤九郎盛長妻」=「丹後内侍」≠「丹後局」=「比企尼娘」「嶋津忠久の母」

(一)『吉見系図』では、比企尼娘「丹後内侍」が盛長との婚姻前に惟宗広言と密通して、島津忠久を出産したと記載されています。『吉見系図』では嶋津忠久は惟宗氏出身であると明確にしており、(二)『島津氏正統系図』のような頼朝落胤という伝はありません。しかし、嶋津氏は吉見氏とはまったく縁戚関係のない家であるにも関わらず、「丹後局」の説話が吉見氏の創生譚に取り込まれたのはいかなる理由があったのでしょう。

 推論ですが、おそらく自家の祖・三河守範頼の妻が藤九郎盛長の娘である以上、その母である「丹後内侍」の出自についても記す必要に迫られ、「丹後内侍」の情報を集めた結果によるものと思われます。その「丹後内侍」にまつわる様々な情報が系譜に取り込まれたことにより、「無双歌人」の性格(源三位頼政の私歌集『頼政集』に登場する「丹後内侍」の説話を取り込んだもの)が付与。そして、吉見氏が武蔵国横見郡吉見庄を比企尼から継承したという理由付けとして、島津家の「比企尼娘・丹後局」の伝を吸収したものと思われます。『吉見系図』では、もともと吉見氏に伝わっていた盛長妻「丹後内侍」の情報と、比企尼娘である「丹後局」の性格が合成されてしまったものでしょう。

 「丹後内侍」と「丹後局」が同一視された時期としては、弘安8(1295)年11月に勃発した「霜月騒動」よりも後、さらに言えば南北朝期と思われます。実は「霜月騒動」の発端の一つが、「丹後内侍」の子・安達景盛が実は「忝モ右大将頼朝卿ノ末」(『保暦間記』)という噂だったのです。景盛の子孫である安達氏が実は頼朝の落胤であり、将軍の座を狙っているという噂がたち、結局安達一族は滅ぼされてしまいます。このいわば源氏将軍の「呪縛」が解かれた南北朝期、嶋津氏は祖・忠久は「丹後局」が頼朝の寵愛を受けて生まれた落胤であるという筋書を作り上げました。これは、盛長妻「丹後内侍」が頼朝から丁重に扱われていた説話をエッセンスとして取り込んだ可能性は高いと思われますが、それは「丹後局」が頼朝から寵愛を受ける動機付けとして取り込まれたに過ぎず、比企尼娘「丹後局」と盛長妻「丹後内侍」を同一とすることはなく、嶋津家の伝では藤九郎盛長についての記述はありません。

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