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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その六(丹後内侍)

●盛長妻「丹後内侍」について

 盛長妻「丹後内侍」とはどのような人物だったのでしょう。『吾妻鏡』の中で「丹後内侍」の記述が見られる部分は三か所のみですが、このわずか数行の記述から彼女の人物像を探ってみます。

①文治二(1186)年六月十日条
 今日、丹後内侍、於甘縄家病悩、二品為令訪其体給潜渡御、彼所、朝光、胤頼外、無候乎御供之者

②文治二(1186)年六月十四日条
 丹後内侍、違例平愈日来病悩之間、二品及御立願之處、今日聊御安堵

③宝治二(1248)年五月十八日条
 秋田城介入道〈号高野入道法名覚地〉卒〈于時在高野〉
 従五位下行出羽権介藤原朝臣景盛〈法名覚地、号大蓮房〉
 藤九郎盛長男、母丹後内侍

①②から、頼朝は病臥した丹後内侍を、二名の側近(結城朝光、千葉胤頼)のみ連れて密かに甘縄邸を訪れ、さらに病気平癒の立願まで行っていること、平癒を聞いて安堵していることなどから、頼朝は丹後内侍を甚く大事に扱っていたことがうかがえ、その待遇は御台所(政子)も公認だったとみられます(おそらく頼朝が配流生活中も藤九郎盛長とともに配所または別宅にあったのでしょう)。ただし、頼朝も一人で会うのは憚られたとみえ、公にならないよう、側近のみを連れて密かに見舞いに訪れたのでしょう。また、③から藤九郎盛長の妻で、城介景盛の母であったこともわかります。

 具体的にはこれ以上の情報はありませんが、なぜ頼朝は「丹後内侍」をこれほどまでに優遇していたのでしょう。実は頼朝は幼少期に関わりをもった人、とくに母親と縁のある人々を殊に優遇する性格であり、このことから「丹後内侍」も熱田大宮司家と血縁関係のある女性の可能性が考えられます。「丹後内侍」が東国へ下向した理由や時期も定かではありませんが、

(一)文治六(1190)年正月三日 次男の「九郎藤次(時長)」が頼朝の使者として上洛。
(二)正治元(1199)年七月十六日 長男の「安達弥九郎景盛」が三河国の狼藉人追討。愛妾が存在。
(三)承元四(1210)年、孫の義景が誕生(景盛の長男)。

以上の条件から、次男・九郎藤次が京都への使者として耐えうる年齢と経験を備えていたと考えると、文治六(1190)年当時すでに二十代後半以上であったと推定され、その兄・景盛はそれよりも年長であるため、丹後内侍と藤九郎盛長との婚姻は頼朝が伊豆に配流された永暦元(1160)年とさほど変わらない時期であると推測されます。丹後内侍が下向した理由は藤九郎盛長との婚姻と考えられ、先述の考察のように、藤九郎盛長(頼朝叔父・祐範家人?)、丹後内侍が熱田大宮司家の関係者であったとすれば、両名とも幼少時の頼朝と顔見知りであった可能性があります。下向時期についてはまったく不明ですが、「内侍」と称している以上、宮仕えを経験していると推測され、それを辞しての下向となります。

「丹後内侍」については、『吉見系図』(『群書類従』所収)に

「初奉仕二条院、號丹後内侍、無双歌人也」

という記述が見えます。これは源頼政が編纂した家集『頼政集』の内容を吉見氏が蒐集して記載したと思われます。
『頼政集』には、二条天皇に仕えた「丹後内侍」が2か所に見え、そのうちのひとつ、源頼政が行幸供奉で紫宸殿前に伺候し、天皇から桜の枝を下賜され「こそとことしといかゝある」と仰せられた際、

 「よそにのみ思ふ雲居の花なれば俤ならで見えばこそあらめ」

と頼政が詠んだ歌に対し、「丹後内侍」が返歌として、

 「さのみやは俤ならでみえざらむ雲居の花に心留めば」

と見えます(「従三位頼政卿集」『國歌大觀 續歌集部』 阪本龍門文庫本:山科言継写本稿本)。

 この歌については、「弥生の十日此」の行幸の供奉という詞書があることから、長寛元(1163)年3月14日の二条東洞院殿への還御(詫間直樹編『皇居行幸年表』続群書類従完成会)時かもしれません。この行幸は頼朝が配流された永暦元(1160)年の三年後にあたり「丹後内侍」はこの当時宮中女官でした。この「丹後内侍」が盛長の妻「丹後内侍」と同一人物かはわかりませんが、同一人物であるとするならば、保元4(1159)年6月28日に二条天皇蔵人に補された頼朝と面識を持った可能性があります。ただ、熱田大宮司家は二条天皇との接点が希薄であることや、藤九郎盛長の在京時期等を考えると、二条天皇に仕えた「丹後内侍」と盛長妻「丹後内侍」は別人としたほうがよさそうです。

 なお、盛長妻「丹後内侍」は「丹後」の称から、その出身家は「丹後守」ゆかりの人物が縁者にいた可能性が高く、受領層貴族の娘ということでしょう。

【参考】
◎当時の丹後守(『国司補任五』)
平正盛(????-????)【在任】1110-1113【官位】従五位下か 院近臣。中宮璋子(待賢門院)家司。
源師俊(1080-1142)【在任】1113-1115【官位】従五位上 源俊房子。皇后得子(美福門院)叔父。
高階為遠(????-????)【在任】1115-1118【官位】従四位上 院近臣。中宮璋子(待賢門院)家司。
藤原顕頼(1094-1148)【在任】1118-1124【官位】従五位上 院近臣。藤原顕隆(藤原為房子)子。
源資賢(1113-1188)【在任】1124-1131【官位】従五位下 院近臣。鳥羽院別当。高階為遠甥。
藤原為忠(????-1136)【在任】1131-1136【官位】従四位上 院近臣。妻なつともは白河院女房。
藤原俊盛(1120-????)【在任】1136-1144【官位】従五位下~正五位下 院近臣。藤原顕盛子。美福門院甥。
藤原惟方(1125-????)【在任】1144-1149【官位】正五位下 院近臣。藤原顕頼子。
藤原顕広(1114-1204)【在任】1149-1152【官位】従五位上~従四位下 藤原顕頼養子。のち藤原俊成。妻に丹後守為忠娘。前任惟方は義弟にあたる。
藤原俊盛(1120-????)【在任】1152-1157【官位】正四位下 院近臣。藤原顕盛子。美福門院甥。
藤原定能(1148-1209)【在任】1157-1161【官位】従五位下 院近臣。前任俊盛の従兄弟。

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