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鎌倉御家人 安達氏についての一考察 その七(比企氏)

●比企尼について

 久安3(1147)年に京都で誕生した源頼朝の乳母として登用されたのが、のちの比企尼となる女性でした。そして、この比企尼の娘「丹後内侍」が藤九郎盛長の妻となる女性とされていました。ただし、これまでの考察で見たように、比企尼の娘は源家に女房として仕えた「丹後局」で島津忠久の母となった女性であって、藤九郎盛長とは何ら関わりのない人物です。藤九郎盛長の妻は「丹後内侍」で、出自は不明ながらおそらく頼朝母の出身家・熱田大宮司家と何らかのかかわりを持っていた女性の可能性があります。

 永暦元(1160)年、頼朝が平治の乱の罪により伊豆に流された際、比企尼は「存忠節余、以武蔵国比企郡為請所、相具夫掃部允、掃部允下向、至治承四年秋、廿年之間、奉訪御世途、今当于御繁栄之期、於事就被酬彼奉公」(『吾妻鏡』寿永元年十月十七日条)と、「武蔵国比企郡」を「請所」とし、夫の掃部允とともに比企郡へ下向しました※1。そして、「掃部允」は治承四年秋までの二十年にわたって頼朝を援助し続けたとあります。このとき、比企郡を請所とした主体は「比企尼」であることから、比企郡は掃部允所縁の地ではなく、もともとは比企尼由縁の地であったことが想定されます。比企郡は在京国司に代わって国務を奉行した留守所の秩父氏が支配する一帯であり、比企尼はその支配を受ける郡司層(比企氏)の出身家だったのでしょう。娘の一人が秩父氏惣領家の河越太郎重頼の妻※2になっているのもそれを物語っています。

 頼朝誕生の前年「久安四年歳時戊辰二月廿九日」に、「當国大主散位平朝臣茲縄」が比企郡の平沢寺に経筒を埋納してますが、「茲縄」は留守所の秩父権守重綱のことで、自ら武蔵国大主と称するほどの権力を有していたことがわかります。そして、この重綱の妻(乳母御前)は頼朝の兄・源太義平の乳母で、義平からは「御母人」と慕われていました。義平は永治元(1141)年の生まれであり、頼朝の父・源義朝は、当時東国で重綱と深く交わり、その妻を義平乳母に起用したものと思われます。比企尼の起用も重綱所縁の女性を求めたためかもしれません。

●比企掃部允について

 比企尼の夫である「掃部允」とはいかなる人物だったのでしょう。『吉見系図』(『群書類従』所収)によれば「武州比企郡少領」と記されています。ところが「掃部允」は「六位侍任之」(『職原鈔 上』)という官職であって、仁平元(1151)年9月28日には橘景良が「皇嘉門院御給」によって「掃部允」となり、保元3(1158)年11月17日に中原基兼が「院当年御給」によって「掃部少允」となっています(永井晋編『官吏考証』続群書類従完成会 1998所収「保元三年秋除目大間」)
 このように、「掃部允」は中原氏、惟宗氏、橘氏などを出自とする侍品が就任する実務官でした。つまり比企尼の夫「掃部允」もおそらく在京の実務官僚家出身の可能性を考えるべきでしょう。掃部允某が「掃部允」だった時期については不明ですが、頼朝が伊豆に流された永暦元(1160)年までに掃部允の官職にあって、比企郡に下向以降は名乗りとして定着したものと思われます。

【参考】諸書に見える掃部允
・橘景良…仁平元(1151)年9月28日「掃部允」:皇嘉門院御給(『山塊記』除目部類)
・中原基兼…保元3(1158)年11月17日「掃部少允」:院当年御給(永井晋編『官吏考証』続群書類従完成会 1998所収「保元三年秋除目大間」)
・平景弘(佐伯景弘)…応保2(1162)年正月27日「掃部允」(『山塊記』除目部類)
 ※掃部属は同族の佐伯忠盛が任じられた

 比企郡に下った掃部允は、おそらく比企尼の出身家と思われる比企氏(比企郡司?)を継承し、比企郡内で「タウ(党)」を組織していたことが「ヒキハ其郡ニ父ノタウトテ。ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ。一万御前ガ母ヲバマウケタル也。ソノ行時ハ又児玉タウヲムコニシタルナリ」(『愚管抄』)からうかがえますが、この「タウ」とは武蔵七党のような強大な武士団ではなく、比企氏という地方豪族そのものを指すのでしょう。郡司職である「比企郡少領」は国司の指示を受ける立場にありましたが、国司の平知盛は在京のため、在地の河越太郎重頼の支配のもとにあったと推測されます。

 『吉見系図』では比企尼が女聟三人(盛長、河越重頼、伊東祐清)を指図して頼朝を支えたと見えますが※3、『吾妻鏡』では頼朝が「被酬彼奉公」により「件尼、以甥義員為猶子、依挙申」と見え、頼朝は掃部允の奉公に感謝の念を持ち、それに酬いんがために、比企尼の甥(姉妹の子)である「義員」を尼の猶子として召したとあり、配所の頼朝をおもに支えたのは掃部允であったと推測されます。この事実は平家政権も把握していたと見られ、源三位の乱への参戦のために在京していた相模国の大庭三郎景親が、平家被官の上総介藤原忠清から「北條四郎、比企掃部允等、為前武衛於大将軍、欲顕叛逆之志者」(『吾妻鏡』治承四年八月九日条)と聞かされています。比企掃部允は北条時政と同等の危険分子として平家から警戒されていたことを物語ります。しかし、景親は「北条者已為彼縁者之間、不知其意、掃部允者、早世者也者」と返答しており、掃部允は治承4(1180)年5月までに亡くなっていたのでしょう。

 なお、比企掃部允の比企家を継承したのは、比企藤内朝宗と思われます(比企尼の実家・郡司比企氏の出身か)。彼は「内舎人」として朝廷に伺候した経歴があったと見られ、『吾妻鏡』の記述方法からも比企尼の猶子・比企藤四郎能員よりも一族内での格は上でした(能員はあくまで比企尼の所領を継承した新立の比企氏別家の立場か)。しかし、比企能員は比企尼の由緒で若公頼家の乳母夫となって以降権勢を増し、朝宗を上回る右衛門尉・検非違使に補任されるに及び、比企氏を統べる立場になったと思われます。

 余談ですが、のちの鎌倉幕府の中枢を担った中原親能・大江広元らの父(義父か)にあたる中原広季は掃部寮の長官である「掃部頭」に任官していた可能性が高く(『尊卑分脈』※4)、掃部允の上官だった可能性も?

※1 のち平家が彼を「比企掃部允」と呼称していることから、比企郡に在住した可能性が高いだろう。

※2 『吾妻鏡』寿永元(1182)年八月十二日条、頼家誕生に伴う諸儀式の記録の中に「河越太郎重頼妻比企尼女、依召參入、候御乳付」とあることから、河越重頼の妻は比企尼の娘であった事は間違いない。『吉見系図』では比企尼の娘は三人記載されているが、『吾妻鏡』で比企尼の娘と明記されているのは、河越重頼の妻のみである。重頼の嫡子・河越重房は比企尼娘所生とすれば、仁安三(1168)年生まれ(『源平盛衰記』)と推測される。当時、河越重頼は平家の被官であるため、重頼と比企尼娘との婚姻は頼朝の指示ではなく、地縁(血縁)に拠った比企尼と河越氏との間での婚姻と考えられよう。

※3 『吉見系図』に見られるような、比企尼が聟三人に指示を出して生活を支えていたという記述については、そもそも盛長は頼朝を扶持できるような自領はなく、妻の「丹後内侍」は比企尼の娘ではない。河越重頼は平知盛に伺候する立場にあり、伊東祐清は父・祐親入道が平家与党であって頼朝を援助する力はない。これらのことから『吉見系図』の記述は後世の伝であると考えられる。

※4 『尊卑分脈』によれば、小一条流の大膳大夫藤原時綱の母は「掃部頭広季女」とある。この小一条流は陸奥守藤原師綱以来、大膳大夫を歴任しており、大江広元の陸奥守、大膳大夫といった任官はこの師綱流藤原氏の由縁かもしれない。また、中原親能・大江広元の掃部頭への任官は、養父の中原広季の先例であろう。

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