史跡「義時法華堂」の疑問点について
義時の法華堂について
北条義時の墳墓堂である「法華堂」は、現在の鎌倉市西御門、頼朝墓の東側の平場に建てられていたとされ、頼朝法華堂跡とともに史跡指定されている。その発掘調査の結果、平場には九、十、九尺の桁行三間、梁間三間、28尺(8.4m)四方、大床までは36尺(10.9m)、軒の出は41尺(12.4m)四方の三間堂の礎石が出土した。これは、『吾妻鏡』の貞応3(1224)年6月18日条に「戌剋、前奥州禅門葬送、以故右大将家法華堂東山上、為墳墓葬礼事」とあることから、頼朝墓の東で発掘されたこの大きな三間堂を以って義時法華堂跡に指定したのである。

しかし、この指定判断は果たして妥当なのだろうか。
義時の法華堂については、前述のように「故右大将家法華堂東山上」という、相対的位置のみが記されているため、義時法華堂と確定するには、頼朝法華堂の場所が確定されなければならないのである。そして、その法華堂があった場所とされているのが、「頼朝墓」である。
中世の法華堂は滅罪の目的を以て、貴人の墳墓堂そのものとして用いられることも多く、頼朝の「右大将家法華堂」もそうした捉え方をされている。現在の「頼朝墓」を法華堂としているのは、頼朝墓のある場所はもともと頼朝持仏堂たる観音堂があった場所であるが、観音堂が頼朝死後に法華堂に変わった「だろう」という導き方によるものである。しかし、頼朝の持仏堂が法華堂に変わったという記述はどこにもない(観音菩薩を祀る観音堂を、堂主の死後、観音像を除けて法華堂に転換する例があるのか筆者はわからない)。
この定義も位置もあやふやな「(観音堂転換)法華堂」を位置の起点とし、頼朝墓所の東側平場から発掘された方三間の建物跡を「故右大将家法華堂東山上」の「義時法華堂」と断定してしまうのは、やや短絡的にすぎないか。

では、義時法華堂の西側にあった「右大将家法華堂」はどういったものだったのだろう。現在ではその痕跡はまったく遺されていないため、文献から導き出すほかはないのが実情である。しかし、『吾妻鏡』には意外に多くの情報が記されている。
●「法華堂」の形態や場所
『吾妻鏡』に見える「法華堂」を考察すると、寺院としての「法華堂」と、ひとつの堂としての「法華堂」の二つの使われ方をしていることがわかる。
はじめて頼朝の「法華堂」が『吾妻鏡』に現れるのが、正治2(1200)年正月13日、頼朝の忌日に際して「於彼法華堂、被修仏事」されている記述である。これは頼朝の一年忌日に催された仏事であり、「北條殿以下、諸大名群参し、市を成す、仏は絵像釈迦三尊一鋪、阿字一鋪〈御台所御除髪を以てこれを縫い奉らる〉、経は金字法華経六部、摺写五部大乗経、導師は葉上房律師栄西、請僧十二口」という盛大なものであった。 このときにはこの外に百僧供も行われている。 この「法華堂」は寺院としての法華堂とも堂宇としての法華堂ともとれる。
「法華堂」は、寛元5(1247)年6月5日条の三浦合戦によると、戦に敗れた三浦泰村は徹底抗戦を主張して「鉄壁の城郭」たる永福寺に籠る弟の光村を窘め「故将軍御影の御前に於いて終わりを取らんと欲す、早く此処に来会すべしと、専使互いに一両度たりと雖も、縡火急の間、光村寺門を出て法華堂に向かう、…光村終に件の堂に参る、然る後、西阿、泰村、光村、家村、資村並びに大隅前司重隆、美作前司時綱、甲斐前司実章、関左衛門尉政泰以下、絵像の御影の御前に列候す…、左親衛の軍兵寺門に攻め入り、石橋を競い登る、三浦の壮士等、防戦し弓剣の芸を竭す、…両方の挑戦は殆ど三刻を経るなり、敵軍箭窮まり力尽く、而るを泰村以下宗たるの輩二百七十六人、都合五百余人自殺せしむ、この中幕府番帳に聴さるるの類二百六十人と」とある。
彼らの自害の体は、6月8日条に「今日法華堂の承仕法師一人を召し出さる、これ昨日香花を備えんが為仏前に陪するの処、泰村以下大軍、俄に堂内に乱入するの間、遁れ出んと欲するに方角を失い、天井に昇る、彼等面々の言談を聞くの由上聴に達するが故なり」という法師の証言で明らかになっている。その言葉によれば、「天井の隙を窺うの処、若狭前司泰村以下の大名は、兼ねてその面を見知るの間、子細無し、その外多く以て知らざるの類なり、次いで申す詞の事、人毎の事に於いては、堂中鼓騒の上、末席の言談等聞き及ぶに能わず、而るに宗たるの仁、一期の終わりと称し日来の妄念を語る…、(光村)自ら刀を取りて吾顔を削る、猶見知らるべきや否や人々に問ふ、その流血御影を穢し奉る、剰え仏閣を焼失せしめ、自殺の穢躰を隠すべきの由結構す、両事共不忠至極たるべきの旨、泰村頻りに制止を加えるの間、火災に能わず、凡そ泰村事に於いて穏便の気有り…、件の承仕法師に至りては本所に返し遣はさる、この外承仕一人は、去る五日本堂内を避けざるに依って、大床下に奔り入るの間、歩兵等の為に首を取らるるの由、七旬の母老尼悲哭す…。」というものであった。
以上から、堂宇としての「法華堂」には頼朝の御影の「絵像」が懸けられ祀られており、仏像が置かれていた形跡はない。正治2(1200)年正月13日の頼朝一年忌日に催された「於彼法華堂、被修仏事」でも、「北條殿以下、諸大名群参し市を成す、仏は絵像釈迦三尊一鋪、阿字一鋪〈御台所御除髪を以てこれを縫い奉らる〉、経は金字法華経六部、摺写五部大乗経」とあり、絵像の釈迦三尊と御台所の髪で縫い取った阿字の掛物を仏として、法華経や五部大乗経で頼朝の供養を執り行っていることがわかる。堂宇としての法華堂には、普段から頼朝絵像が懸けられ、供養時には仏画が懸けられて仏事が行われたと推測される。つまり「法華堂」には仏像(頼朝持仏の正観音像)は置かれていなかったと推測される。
そして、堂宇の大きさとしては、正治2(1200)年正月13日の頼朝周忌に際して百僧供が行われており、百人規模の人が入ることができる建物だったことがわかる。また、寛元5(1247)年6月5日の宝治合戦に際して、泰村以下九名が「法華堂」に籠って自害しているが、6月21日条では法華堂内で自害した人々の幼い子息や兄弟も「自殺討死等」の列に記載されており、堂内にはさらに多くの人数がいた可能性があろう。 また、泰村等が法華堂に来る直前、法華堂に承仕する法師が日課の香華を手向けていたが、泰村等が堂内に乱入した際に、慌てて出口を見失い、天井に逃れている。人が入ってきてもその姿が見えない場所があり、柱などをよじ登って天井の梁に隠れることができたことがわかる。これは絵像を懸ける場所の裏側にスペースがあったのかもしれない。さらに別の法師は「大床下」へ遁れたものの三浦方の兵に殺害されたことが記されており、法華堂には大床(堂の周囲を囲む庇下の回廊)がめぐらされていたことがわかる。このように、本堂である「法華堂」は、大きな造作の建物であったことがうかがえる。
そして、三浦方の大半は寺院としての法華堂に立て籠もって戦い、結果として泰村以下主だった者だけで二百七十六人、都合五百余人が自殺したという。すべてが法華堂境内で戦ったわけではないと思われるが、境内地も広大だったと推測される。
また、堂宇「法華堂」は、北条勢が「石橋(石階段)」を競い上って三浦勢と戦っていることから、高台にあったことがわかる。 建暦3(1213)年5月2日には、和田合戦に際して御所が放火により燃えたため、将軍実朝らが「右大将軍家法華堂」へ移っているが、高台にあるため将軍家の避難場所としても機能したのだろう。
元仁2(1225)年10月19日条にも、御所再建の場所について陰陽師へ諮問したことにつき、「右大将家法華堂下の御所の地、四神相応最上の地なり、何ぞ他所に移せらるべきや、然ば彼の御所西方の地を広められ、御造作有るべきものなり」と述べており、「右大将家法華堂」は建物としての法華堂であり、高台にあったことが記されている。その下に武家政庁としての御所があり、御所西方には広げることが可能な地があったことがわかる。
翌10月20日に御所再建地について、前日とは真逆の答申があり、「珍誉法眼申して云く、法華堂前の御地然るべからざるの所なり、西方岳有り、その上右幕下の御廟を安んず、その親墓高くしてその下に居すは子孫無きの由本文に見ゆ、幕下の御子孫御座ず」とある。この「法華堂」は前日の「右大将家法華堂」と同意とみられ、建物としての法華堂であるが、法華堂の西方には丘があり、その上に「右幕下の御廟」があったと記される。

頼朝観音堂=廟所跡か
また、建暦3(1213)年3月10日条によれば、「戌刻、故右大将家法華堂後山に光物有り」という。そして寛元5(1247)年6月9日条にも「武蔵国に於いて、左衛門尉景頼、金持次郎左衛門尉を生虜らしめ、将て参る、これ泰村に与力せしめ、去五日、法華堂に籠もり合戦を致す。俄に約諾を改変し逐電す、時に赤威鎧を着し、鴾毛馬に駕す〈一人甲冑、郎従一人、両馬たり〉、彼の寺の後山の嶮岨に挙登る」とあり、堂塔としての法華堂の後背地は「後山」があり、寺院としての「法華堂」の後背地の後山と同意であろう。法華堂の後山は険阻な崖になっていたのである。
寺院としての法華堂には、施設がいくつかあり、高台に本堂の右大将家法華堂、その西の丘上には頼朝廟所(観音堂であろう)があったが、さらに、建仁4(1204)年9月13日には「法華堂御仏事」ののち、夕方秉燭のころに、「盗人別当大学坊に入り、先考の御遺物重宝等を盗み取る」っており、「別当尊範」が居住する「別当大学坊」が置かれていた。この別当坊には頼朝の遺物が保管されていた。 このほか湯屋もあった。
さらに、寛喜4(1232)年4月9日条には「法華堂西の護摩堂、去年十月二十五日焼亡の時回禄しをはんぬ、而に御台所の御願として造らるべしと、仍って今日政所に於いて信濃民部大夫入道行然の奉行とし、件の堂、御所より何方に当たるやの由その沙汰有り、陰陽師泰貞、晴賢、宣賢を遣わし方角を糺さる、夜に入り明火、御所と法華堂とを往反す、両方これを窺い見る、丑方の分たるの由各々言上す」と、護摩堂もあったことがわかる。この護摩堂は「法華堂西の護摩堂」とあることから、建物としての法華堂と護摩堂で対比していると考えられる。その護摩堂は、法華堂の西かつ御所から見て丑(北北東)に位置していた。 現在の白幡神社付近となるか。
「法華堂」は頼朝亡き後に造営されたと解されているが、『吾妻鏡』の貞永2(1233)年正月13日条によれば、右大将家の忌日につき、北条泰時が法華堂に参詣した際、「彼の砌に到り、御敷皮を堂下に布き坐し給う、御念誦刻を移す、この間別当尊範参会せしめ、御堂上り有るべきの由頻りにこれを申すと雖も、御在世の時、左右無く堂上に参らず、薨御の今、何ぞ礼を忘れんやの由仰せらる、遂に庭上より帰らしめ給う」ということから、頼朝在世時にすでに建立されていたと考えることもできる。ただし、この「堂上」とは御所の堂上と解せることから、確定事項にはならない。
以上の事から、寺院としての法華堂は御所の北側に位置し、境内地は広かったことから、東西に広がっていたと思われる。その範囲は不明だが、御所の東西域とほぼ一致し、後述の頼朝廟所を含むことから御所の後山を囲む形で形成されていたと思われる。そして、肝心の「右大将家法華堂」は、
①御所の北の寺院法華堂の中の本堂とみられる
②石段を登る高台上にある
③後背地が急崖
④西の丘の上に頼朝廟所がある
⑤百僧供を行える大きさ
⑥大床を備えている
という条件を集約して考えると、それが建てられていた場所や史跡痕は、まさに現在の義時法華堂に指定されているものに相当するのである。
この地で発掘された方三間の堂跡は円覚寺舎利殿と同クラスの大きさであり、大床を含めれば約11m四方という建物である。すでに周囲は攪乱があるため、当時のものではない可能性はあるが、これだけの広大な平場を造成し、大堂を建立することができた人物は、右大臣家別当に過ぎない北条義時とは考えにくく、当時においては故頼朝を弔うためだからこそ成し得たものではなかろうか。
●「観音堂」は「法華堂」に変わったのか?
現在、「頼朝墓」が建てられている場所は、文治5(1189)年7月18日、「伊豆山住侶専光房を召し、仰せて曰く、奥州征伐の為、潜かに立願有り、汝は持戒の浄侶也、留守に候し祈請を擬すべし、将又進発の後、二十箇日を計り、この亭の後山に於いて故に梵宇を草創すべし、年来の本尊正観音像を安置し奉らんが為也、別して工匠に仰すべからず、汝自ら柱ばかりを立て置くべし、営作に於いては以後沙汰有るべし」という指示のもと、8月8日に「今日早旦、鎌倉に於いて専光房、二品の芳契に任せ、御亭の後山に攀じ登り、梵宇の営作を始む、まず白地に仮柱四本を立て、観音堂の号を授く」という、頼朝持仏の正観音像を納める観音堂を建立したところと推測できる。

頼朝の墓所へ向かう階段。ここが専光房がよじ登った崖か。
実際にその後、観音堂が建立された記録はないが、頼朝は観音堂造作については後日の沙汰としており、建立の意思が確認できるので後に建てられたことは間違いないだろう。しかしその後、『吾妻鏡』には「観音堂」の記述は一切出てくることはなく、「観音堂」が頼朝「法華堂」と同一のものとする記述もない。
一方、頼朝「御廟」は、嘉禄元(1225)年10月20日条には、法華堂の「西方有岳、其上安右幕下御廟」とあることから、法華堂の西側にあった丘の上にあったことがわかる。法華堂は「観音堂」と同一の場所と推定できる。「観音堂」はあくまでも頼朝の私的な持仏堂であって、その死後は遺骨が安置(または埋納)された「御廟」となったとみられる。
つまり「法華堂(法華三昧堂)」は、頼朝の滅罪と冥福を祈るための「法華堂」という寺院の本堂として建立されたものであり、本尊はなく日頃は頼朝の絵像を懸けて日々の供養を行っていた堂塔であろう。根本的に廟所である元「観音堂」とは役割が異なっており、「法華堂」とはまったく別の建物であると考えられる。
現在 「頼朝墓」の左右は東西にかなり広い平場となっているが、とくに西側は土砂が流され、土地が低くなっている。

頼朝墓所東脇の平場。以前はお店があった。
●北条義時の法華堂について
では、現在義時法華堂跡として史跡に指定されている平場が右大将家法華堂の跡であるとすれば、貞応3(1224)年6月18日条の「戌刻、前奥州禅門葬送す、故右大将家法華堂の東の山上を以て墳墓と為す」とあるのは、どこを指しているのだろうか。
義時法華堂は寺院としての法華堂では範囲が広く、かつ法華堂という単体の建物との対比なので、頼朝の法華三昧堂から見た東の山上となるだろう。具体的には谷津を挟んだ対岸の山(南端に荏柄天神を祀る舌状台地)の西面の何処かに平場を造作して建立されたのではなかろうか。そもそも、二位家(御台所政子)及び右大臣実朝も右大将家法華堂とは別に法華堂が造られている(両法華堂)ような価値観の中、故頼朝の後生を祈る神聖な寺中、しかも右大将家廟所傍に、右大臣家別当とはいえ家子層に過ぎない人物の法華堂を祀ることなど、当時の観念からしてあり得ないのではなかろうか。
※足利義詮は「鎌倉右大臣家二位家両法華堂別当職事」を三宝院僧正に安堵(観応二年十一月二日『三宝院文書』)しているが、実朝は建保7(1219)年正月28日に「将軍家奉葬于勝長寿院之傍」とあり、法華堂もまた埋葬場所の「勝長寿院之旁(本堂たる勝長寿院か)」に置かれたのではなかろうか。
なお、二位家(御台所政子)の埋葬場所はわからず、その法華堂場所もまた不明だが、実朝と尼御台の「両法華堂供僧職」を「大御堂被官」の「淡路阿闍梨良助」が請けており(応永二十四年六月十九日「阿闍梨良助請文」『醍醐寺文書』)、尼御台所の法華堂も実朝の法華堂と並んで勝長寿院境内地または付近に営まれていた可能性が高い(頼朝法華堂と義時法華堂は「并」で繋げられる場合はあるが、「両法華堂」とは称されない)。
世界遺産の兼ね合いもあっただろうが、義時法華堂を当該地に史跡指定してしまったのは、時期尚早だったのではなかろうか。
北条義時の墳墓堂である「法華堂」は、現在の鎌倉市西御門、頼朝墓の東側の平場に建てられていたとされ、頼朝法華堂跡とともに史跡指定されている。その発掘調査の結果、平場には九、十、九尺の桁行三間、梁間三間、28尺(8.4m)四方、大床までは36尺(10.9m)、軒の出は41尺(12.4m)四方の三間堂の礎石が出土した。これは、『吾妻鏡』の貞応3(1224)年6月18日条に「戌剋、前奥州禅門葬送、以故右大将家法華堂東山上、為墳墓葬礼事」とあることから、頼朝墓の東で発掘されたこの大きな三間堂を以って義時法華堂跡に指定したのである。

しかし、この指定判断は果たして妥当なのだろうか。
義時の法華堂については、前述のように「故右大将家法華堂東山上」という、相対的位置のみが記されているため、義時法華堂と確定するには、頼朝法華堂の場所が確定されなければならないのである。そして、その法華堂があった場所とされているのが、「頼朝墓」である。
中世の法華堂は滅罪の目的を以て、貴人の墳墓堂そのものとして用いられることも多く、頼朝の「右大将家法華堂」もそうした捉え方をされている。現在の「頼朝墓」を法華堂としているのは、頼朝墓のある場所はもともと頼朝持仏堂たる観音堂があった場所であるが、観音堂が頼朝死後に法華堂に変わった「だろう」という導き方によるものである。しかし、頼朝の持仏堂が法華堂に変わったという記述はどこにもない(観音菩薩を祀る観音堂を、堂主の死後、観音像を除けて法華堂に転換する例があるのか筆者はわからない)。
この定義も位置もあやふやな「(観音堂転換)法華堂」を位置の起点とし、頼朝墓所の東側平場から発掘された方三間の建物跡を「故右大将家法華堂東山上」の「義時法華堂」と断定してしまうのは、やや短絡的にすぎないか。

では、義時法華堂の西側にあった「右大将家法華堂」はどういったものだったのだろう。現在ではその痕跡はまったく遺されていないため、文献から導き出すほかはないのが実情である。しかし、『吾妻鏡』には意外に多くの情報が記されている。
●「法華堂」の形態や場所
『吾妻鏡』に見える「法華堂」を考察すると、寺院としての「法華堂」と、ひとつの堂としての「法華堂」の二つの使われ方をしていることがわかる。
はじめて頼朝の「法華堂」が『吾妻鏡』に現れるのが、正治2(1200)年正月13日、頼朝の忌日に際して「於彼法華堂、被修仏事」されている記述である。これは頼朝の一年忌日に催された仏事であり、「北條殿以下、諸大名群参し、市を成す、仏は絵像釈迦三尊一鋪、阿字一鋪〈御台所御除髪を以てこれを縫い奉らる〉、経は金字法華経六部、摺写五部大乗経、導師は葉上房律師栄西、請僧十二口」という盛大なものであった。 このときにはこの外に百僧供も行われている。 この「法華堂」は寺院としての法華堂とも堂宇としての法華堂ともとれる。
「法華堂」は、寛元5(1247)年6月5日条の三浦合戦によると、戦に敗れた三浦泰村は徹底抗戦を主張して「鉄壁の城郭」たる永福寺に籠る弟の光村を窘め「故将軍御影の御前に於いて終わりを取らんと欲す、早く此処に来会すべしと、専使互いに一両度たりと雖も、縡火急の間、光村寺門を出て法華堂に向かう、…光村終に件の堂に参る、然る後、西阿、泰村、光村、家村、資村並びに大隅前司重隆、美作前司時綱、甲斐前司実章、関左衛門尉政泰以下、絵像の御影の御前に列候す…、左親衛の軍兵寺門に攻め入り、石橋を競い登る、三浦の壮士等、防戦し弓剣の芸を竭す、…両方の挑戦は殆ど三刻を経るなり、敵軍箭窮まり力尽く、而るを泰村以下宗たるの輩二百七十六人、都合五百余人自殺せしむ、この中幕府番帳に聴さるるの類二百六十人と」とある。
彼らの自害の体は、6月8日条に「今日法華堂の承仕法師一人を召し出さる、これ昨日香花を備えんが為仏前に陪するの処、泰村以下大軍、俄に堂内に乱入するの間、遁れ出んと欲するに方角を失い、天井に昇る、彼等面々の言談を聞くの由上聴に達するが故なり」という法師の証言で明らかになっている。その言葉によれば、「天井の隙を窺うの処、若狭前司泰村以下の大名は、兼ねてその面を見知るの間、子細無し、その外多く以て知らざるの類なり、次いで申す詞の事、人毎の事に於いては、堂中鼓騒の上、末席の言談等聞き及ぶに能わず、而るに宗たるの仁、一期の終わりと称し日来の妄念を語る…、(光村)自ら刀を取りて吾顔を削る、猶見知らるべきや否や人々に問ふ、その流血御影を穢し奉る、剰え仏閣を焼失せしめ、自殺の穢躰を隠すべきの由結構す、両事共不忠至極たるべきの旨、泰村頻りに制止を加えるの間、火災に能わず、凡そ泰村事に於いて穏便の気有り…、件の承仕法師に至りては本所に返し遣はさる、この外承仕一人は、去る五日本堂内を避けざるに依って、大床下に奔り入るの間、歩兵等の為に首を取らるるの由、七旬の母老尼悲哭す…。」というものであった。
以上から、堂宇としての「法華堂」には頼朝の御影の「絵像」が懸けられ祀られており、仏像が置かれていた形跡はない。正治2(1200)年正月13日の頼朝一年忌日に催された「於彼法華堂、被修仏事」でも、「北條殿以下、諸大名群参し市を成す、仏は絵像釈迦三尊一鋪、阿字一鋪〈御台所御除髪を以てこれを縫い奉らる〉、経は金字法華経六部、摺写五部大乗経」とあり、絵像の釈迦三尊と御台所の髪で縫い取った阿字の掛物を仏として、法華経や五部大乗経で頼朝の供養を執り行っていることがわかる。堂宇としての法華堂には、普段から頼朝絵像が懸けられ、供養時には仏画が懸けられて仏事が行われたと推測される。つまり「法華堂」には仏像(頼朝持仏の正観音像)は置かれていなかったと推測される。
そして、堂宇の大きさとしては、正治2(1200)年正月13日の頼朝周忌に際して百僧供が行われており、百人規模の人が入ることができる建物だったことがわかる。また、寛元5(1247)年6月5日の宝治合戦に際して、泰村以下九名が「法華堂」に籠って自害しているが、6月21日条では法華堂内で自害した人々の幼い子息や兄弟も「自殺討死等」の列に記載されており、堂内にはさらに多くの人数がいた可能性があろう。 また、泰村等が法華堂に来る直前、法華堂に承仕する法師が日課の香華を手向けていたが、泰村等が堂内に乱入した際に、慌てて出口を見失い、天井に逃れている。人が入ってきてもその姿が見えない場所があり、柱などをよじ登って天井の梁に隠れることができたことがわかる。これは絵像を懸ける場所の裏側にスペースがあったのかもしれない。さらに別の法師は「大床下」へ遁れたものの三浦方の兵に殺害されたことが記されており、法華堂には大床(堂の周囲を囲む庇下の回廊)がめぐらされていたことがわかる。このように、本堂である「法華堂」は、大きな造作の建物であったことがうかがえる。
そして、三浦方の大半は寺院としての法華堂に立て籠もって戦い、結果として泰村以下主だった者だけで二百七十六人、都合五百余人が自殺したという。すべてが法華堂境内で戦ったわけではないと思われるが、境内地も広大だったと推測される。
また、堂宇「法華堂」は、北条勢が「石橋(石階段)」を競い上って三浦勢と戦っていることから、高台にあったことがわかる。 建暦3(1213)年5月2日には、和田合戦に際して御所が放火により燃えたため、将軍実朝らが「右大将軍家法華堂」へ移っているが、高台にあるため将軍家の避難場所としても機能したのだろう。
元仁2(1225)年10月19日条にも、御所再建の場所について陰陽師へ諮問したことにつき、「右大将家法華堂下の御所の地、四神相応最上の地なり、何ぞ他所に移せらるべきや、然ば彼の御所西方の地を広められ、御造作有るべきものなり」と述べており、「右大将家法華堂」は建物としての法華堂であり、高台にあったことが記されている。その下に武家政庁としての御所があり、御所西方には広げることが可能な地があったことがわかる。
翌10月20日に御所再建地について、前日とは真逆の答申があり、「珍誉法眼申して云く、法華堂前の御地然るべからざるの所なり、西方岳有り、その上右幕下の御廟を安んず、その親墓高くしてその下に居すは子孫無きの由本文に見ゆ、幕下の御子孫御座ず」とある。この「法華堂」は前日の「右大将家法華堂」と同意とみられ、建物としての法華堂であるが、法華堂の西方には丘があり、その上に「右幕下の御廟」があったと記される。

頼朝観音堂=廟所跡か
また、建暦3(1213)年3月10日条によれば、「戌刻、故右大将家法華堂後山に光物有り」という。そして寛元5(1247)年6月9日条にも「武蔵国に於いて、左衛門尉景頼、金持次郎左衛門尉を生虜らしめ、将て参る、これ泰村に与力せしめ、去五日、法華堂に籠もり合戦を致す。俄に約諾を改変し逐電す、時に赤威鎧を着し、鴾毛馬に駕す〈一人甲冑、郎従一人、両馬たり〉、彼の寺の後山の嶮岨に挙登る」とあり、堂塔としての法華堂の後背地は「後山」があり、寺院としての「法華堂」の後背地の後山と同意であろう。法華堂の後山は険阻な崖になっていたのである。
寺院としての法華堂には、施設がいくつかあり、高台に本堂の右大将家法華堂、その西の丘上には頼朝廟所(観音堂であろう)があったが、さらに、建仁4(1204)年9月13日には「法華堂御仏事」ののち、夕方秉燭のころに、「盗人別当大学坊に入り、先考の御遺物重宝等を盗み取る」っており、「別当尊範」が居住する「別当大学坊」が置かれていた。この別当坊には頼朝の遺物が保管されていた。 このほか湯屋もあった。
さらに、寛喜4(1232)年4月9日条には「法華堂西の護摩堂、去年十月二十五日焼亡の時回禄しをはんぬ、而に御台所の御願として造らるべしと、仍って今日政所に於いて信濃民部大夫入道行然の奉行とし、件の堂、御所より何方に当たるやの由その沙汰有り、陰陽師泰貞、晴賢、宣賢を遣わし方角を糺さる、夜に入り明火、御所と法華堂とを往反す、両方これを窺い見る、丑方の分たるの由各々言上す」と、護摩堂もあったことがわかる。この護摩堂は「法華堂西の護摩堂」とあることから、建物としての法華堂と護摩堂で対比していると考えられる。その護摩堂は、法華堂の西かつ御所から見て丑(北北東)に位置していた。 現在の白幡神社付近となるか。
「法華堂」は頼朝亡き後に造営されたと解されているが、『吾妻鏡』の貞永2(1233)年正月13日条によれば、右大将家の忌日につき、北条泰時が法華堂に参詣した際、「彼の砌に到り、御敷皮を堂下に布き坐し給う、御念誦刻を移す、この間別当尊範参会せしめ、御堂上り有るべきの由頻りにこれを申すと雖も、御在世の時、左右無く堂上に参らず、薨御の今、何ぞ礼を忘れんやの由仰せらる、遂に庭上より帰らしめ給う」ということから、頼朝在世時にすでに建立されていたと考えることもできる。ただし、この「堂上」とは御所の堂上と解せることから、確定事項にはならない。
以上の事から、寺院としての法華堂は御所の北側に位置し、境内地は広かったことから、東西に広がっていたと思われる。その範囲は不明だが、御所の東西域とほぼ一致し、後述の頼朝廟所を含むことから御所の後山を囲む形で形成されていたと思われる。そして、肝心の「右大将家法華堂」は、
①御所の北の寺院法華堂の中の本堂とみられる
②石段を登る高台上にある
③後背地が急崖
④西の丘の上に頼朝廟所がある
⑤百僧供を行える大きさ
⑥大床を備えている
という条件を集約して考えると、それが建てられていた場所や史跡痕は、まさに現在の義時法華堂に指定されているものに相当するのである。
この地で発掘された方三間の堂跡は円覚寺舎利殿と同クラスの大きさであり、大床を含めれば約11m四方という建物である。すでに周囲は攪乱があるため、当時のものではない可能性はあるが、これだけの広大な平場を造成し、大堂を建立することができた人物は、右大臣家別当に過ぎない北条義時とは考えにくく、当時においては故頼朝を弔うためだからこそ成し得たものではなかろうか。
●「観音堂」は「法華堂」に変わったのか?
現在、「頼朝墓」が建てられている場所は、文治5(1189)年7月18日、「伊豆山住侶専光房を召し、仰せて曰く、奥州征伐の為、潜かに立願有り、汝は持戒の浄侶也、留守に候し祈請を擬すべし、将又進発の後、二十箇日を計り、この亭の後山に於いて故に梵宇を草創すべし、年来の本尊正観音像を安置し奉らんが為也、別して工匠に仰すべからず、汝自ら柱ばかりを立て置くべし、営作に於いては以後沙汰有るべし」という指示のもと、8月8日に「今日早旦、鎌倉に於いて専光房、二品の芳契に任せ、御亭の後山に攀じ登り、梵宇の営作を始む、まず白地に仮柱四本を立て、観音堂の号を授く」という、頼朝持仏の正観音像を納める観音堂を建立したところと推測できる。

頼朝の墓所へ向かう階段。ここが専光房がよじ登った崖か。
実際にその後、観音堂が建立された記録はないが、頼朝は観音堂造作については後日の沙汰としており、建立の意思が確認できるので後に建てられたことは間違いないだろう。しかしその後、『吾妻鏡』には「観音堂」の記述は一切出てくることはなく、「観音堂」が頼朝「法華堂」と同一のものとする記述もない。
一方、頼朝「御廟」は、嘉禄元(1225)年10月20日条には、法華堂の「西方有岳、其上安右幕下御廟」とあることから、法華堂の西側にあった丘の上にあったことがわかる。法華堂は「観音堂」と同一の場所と推定できる。「観音堂」はあくまでも頼朝の私的な持仏堂であって、その死後は遺骨が安置(または埋納)された「御廟」となったとみられる。
つまり「法華堂(法華三昧堂)」は、頼朝の滅罪と冥福を祈るための「法華堂」という寺院の本堂として建立されたものであり、本尊はなく日頃は頼朝の絵像を懸けて日々の供養を行っていた堂塔であろう。根本的に廟所である元「観音堂」とは役割が異なっており、「法華堂」とはまったく別の建物であると考えられる。
現在 「頼朝墓」の左右は東西にかなり広い平場となっているが、とくに西側は土砂が流され、土地が低くなっている。

頼朝墓所東脇の平場。以前はお店があった。
●北条義時の法華堂について
では、現在義時法華堂跡として史跡に指定されている平場が右大将家法華堂の跡であるとすれば、貞応3(1224)年6月18日条の「戌刻、前奥州禅門葬送す、故右大将家法華堂の東の山上を以て墳墓と為す」とあるのは、どこを指しているのだろうか。
義時法華堂は寺院としての法華堂では範囲が広く、かつ法華堂という単体の建物との対比なので、頼朝の法華三昧堂から見た東の山上となるだろう。具体的には谷津を挟んだ対岸の山(南端に荏柄天神を祀る舌状台地)の西面の何処かに平場を造作して建立されたのではなかろうか。そもそも、二位家(御台所政子)及び右大臣実朝も右大将家法華堂とは別に法華堂が造られている(両法華堂)ような価値観の中、故頼朝の後生を祈る神聖な寺中、しかも右大将家廟所傍に、右大臣家別当とはいえ家子層に過ぎない人物の法華堂を祀ることなど、当時の観念からしてあり得ないのではなかろうか。
※足利義詮は「鎌倉右大臣家二位家両法華堂別当職事」を三宝院僧正に安堵(観応二年十一月二日『三宝院文書』)しているが、実朝は建保7(1219)年正月28日に「将軍家奉葬于勝長寿院之傍」とあり、法華堂もまた埋葬場所の「勝長寿院之旁(本堂たる勝長寿院か)」に置かれたのではなかろうか。
なお、二位家(御台所政子)の埋葬場所はわからず、その法華堂場所もまた不明だが、実朝と尼御台の「両法華堂供僧職」を「大御堂被官」の「淡路阿闍梨良助」が請けており(応永二十四年六月十九日「阿闍梨良助請文」『醍醐寺文書』)、尼御台所の法華堂も実朝の法華堂と並んで勝長寿院境内地または付近に営まれていた可能性が高い(頼朝法華堂と義時法華堂は「并」で繋げられる場合はあるが、「両法華堂」とは称されない)。
世界遺産の兼ね合いもあっただろうが、義時法華堂を当該地に史跡指定してしまったのは、時期尚早だったのではなかろうか。
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