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■あぁコーフン

アロマ どうも、ホームセンターや百均の文房具コーナーや棚・引き出しのコーナーに行くとコーフンしてしまいます。なんだかワクワクして、別に必要もないような棚なんかが欲しくなってしまうのです。特に無印良品はいいですね。あのかざりっ気のないルーズリーフ、バインダーなんかは見ているだけで幸せです。ほかにも雑貨屋の線香、アロマオイルは気に入った匂い(森の匂いとか杉、檜なんかの針葉樹系)があれば、ついつい買っちゃいますね

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治承4(1180)年9月29日

 頼朝に随う軍は二万七千騎に及んだ。甲斐源氏一党、そのほか常陸国、下野国、上野国の軍勢が参陣すれば五万騎に及ぶだろう。しかし、武蔵の大族・江戸重長は大庭景親に与していまだに参陣していないので、試みに昨日書状を遣わしたが、やはり追討すべきであると、中惟重を葛西清重のもとに派遣した。大井要害を見ると言って偽って重長を誘い出して討ち取るようにとの旨が伝えられた。江戸重長と葛西清重は同じ秩父一族であるが、清重は二心を抱かぬ人物として頼朝の信頼を受けていたため、この旨が下された。
 また、佐奈田義忠の母のもとに使者が遣わされた。佐奈田義忠は三浦一族で岡崎義実の十一男。頼朝の信頼が厚く側に仕えていた若武者だったが、石橋山の戦いで討死した。彼の幼息は義忠の所領・相模国佐奈田郷にいて、大庭景親ら相模・伊豆の凶徒らに必ず攻められるに違いないと、彼等を下総国へ送るための使者であった。
 今日、小松少将・平維盛(平清盛嫡孫)率いる平家の大軍が関東に向けて京都を出立した。薩摩守・平忠度(平清盛末弟)、三河守・平知度(平清盛七男)らがこれに従った。これは、大庭景親が8月28日に関東から発した飛脚が9月2日に京都に到着し、それ以来軍勢催促の沙汰があり、この日の出陣となった


 平家がはじめて頼朝追討のために大軍を派遣した。主将は平清盛の嫡孫で美男の名が高かった小松少将維盛。これに、武勇で知られた平忠度、平知度の両将が従った。平家はこの大軍と大庭景親をはじめとする相模、武蔵、伊豆の平家党とともに、遁走した頼朝を探し出すくらいの考えで出陣したのではないだろうか。大庭景親自身も頼朝がわずか数日の間にこれだけ大きな勢力を持つ事になったとは信じられない思いがあっただろう。今後の景親の行動も混乱に満ちていることからもそんなことがうかがえる。
 治承4(1180)年9月30日

 上野国新田の新田大炊介義重入道上西は、東国がまだ頼朝のもとひとつになっていない時に、故陸奥守源義家の嫡孫であることを理由に独立した。頼朝が義重入道に書状を遣わして、頼朝のもとに従うように指示した際も無視して、かえって上野国寺尾城に籠もって兵を集めた。
 また、下野国足利の足利俊綱が平家党として上野国府内の民家を焼いた。この国府内の住居には、頼朝に味方する者たちが住んでいたためだという。


 新田義重入道は、八幡太郎源義家の孫にあたる人物で、頼朝の祖父・六条判官源為義の従兄弟にあたる。当時は頼朝だけが源氏の棟梁と認められていたわけではなく、各地にいた源氏一族がそれぞれ独立した勢力だった。主だった源氏は、源頼朝、木曾義仲、新田義重、足利義兼(頼朝の母方従兄弟)、志田義憲らがいた。
 新田義重はあまり世渡りがうまくなかったようで、のち頼朝が義重の娘(頼朝兄・源義平の未亡人)に懸想したとき、義重はこれを断ってさらに不興を買い、鎌倉時代を通じて新田家は用いられなかった。一方、義重の弟・足利義康の系統は、頼朝と親戚であったことや頼朝に積極的に味方したことなどで重く用いられ、幕府の有力御家人として栄えた。

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