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■なんてこったい

 寝坊しました。一時間の寝坊です。時計を見てしばらく固まりました。

 ただこうなった以上、騒いだところで時間が戻るわけでもなく、諦めが肝心と、いつも通り出勤の支度をはじめ、駅へ向かう道すがら、会社に電話。

「10時に出社します」

 こんな電話をかけたのは、風邪で参ってしまって病院へ行った以来半年ぶりです。

 今日は一時間遅いため、いつも聞いているラジオが終わってしまっています。音楽を聴きながら行こうかな。曲はMr.Childrenの「PADDLE」。元気が出る一曲です。

 ♪行こうぜ!


治承4(1180)年10月19日

 伊豆国伊東の豪族・伊東次郎祐親法師は、頼朝追討のために京都から下ってきた近衛少将・平維盛の軍と合流するため、船を伊豆国濃名の港に集めて、海路出発しようとしたところ、頼朝旗下の天野藤内遠景が攻め寄せて祐親法師を捕らえた。
 遠景は今日、祐親法師を黄瀬川の頼朝の陣に曳きたてた。このとき、祐親法師の聟だった三浦次郎義澄が頼朝の命によって祐親法師を預かることになった。
 また、同時に捕らえられていた祐親の次男・九郎祐泰については、ずっと以前、頼朝がまだ流人生活を送っていたとき、祐親の娘と恋仲になり、これを知った祐親に殺されそうになった際、祐泰が頼朝にいち早くこのことを伝えて難を逃れた経緯があり、召し出して恩賞を与えようとした。しかし祐泰は、「父・祐親はすでに武衛の怨敵となって捕らえられています。その子がどうして恩賞などもらえましょう。早く解き放っていただきたい。再び平家に組するため上洛いたします」と訴えた。
 その後、甲斐源氏の加々美次郎長清が陣に参着した。長清は兄の秋山太郎光友とともに平知盛に仕えて京都にいたが、八月に京都を出て、途中、美濃国で病のために一か月ほど休養をとった。その後、九月に甲斐国に入ったが、すでに一族はみな出陣したあとだったため、鞭をふるって黄瀬川の陣に参陣した。兄の秋山太郎光朝はまだ京都にいる旨を頼朝に申し上げた。
 秋山光朝、加々美長清兄弟は、頼朝挙兵の報告を聞いてから、関東へ帰ることを望んだものの許されず、老母が病だという口実で帰国を申請するが許されなかった。そのころ、高橋判官盛綱と鷹装束のことで話すことがあり、ついでに老母が病だが帰国が許されないと漏らした。すると、盛綱は持仏堂に向かって手を合わせ、嘆く体で平家ももはやこれまでか。老母が病というのに帰国を許さないのは長清殿をまったく平家の家人として扱っているようである。知盛卿に帰国を請願する書面を送りましょう、と手紙をしたためて知盛へ送った。
 知盛は盛綱の手紙を読むと、その裏に返事をしたためて長清の帰国を許した。しかし、兵乱が起こっているので、用事が済み次第急いで京都に戻るように命じた。


 高橋判官盛綱は平家の家人で、武勇に優れた人物として知られているが、こんな情義のある人物でもあった。のちに義経の実兄・義円法師(乙若丸)が挙兵したとき、寄手の将だった盛綱が義円を討ち取った。

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伊東族出自について

はじめまして、失礼おじゃまします。伊豆の伊東・工藤族の出自は確かに説がいくつかあります。おっと失礼、「千葉氏の掲示板」では直接、千葉氏とは離れた話題を書くのははばかるのでここに書かせてもらうのをお許し下さい。あくまで情報提供・共有のつもりで来ました。

まづ、伊東・工藤族の出自については下のような説が確かにあるようです。

1、伊東・工藤族は939年「平将門の乱」時の常陸守・藤原維幾(藤原南家)の嫡子・工藤為憲(工藤姓は朝廷より下賜)の出自とする説で、この説が現在主流になっている。

参考図

平高望娘┐
藤原維幾┘―為憲─(─)─祐隆―┐
┌──────────────┘
├祐次─祐経
└祐家─祐親

2、伊東族(伊東祐家・祐親流)だけは藤原惟幾(藤原南家)流の出自ではない(伊豆地方の豪族?)とする説。

つまり伊東祐親流は工藤族とは別の出自とされる説だが、工藤祐経・千葉常胤娘の長男・伊東祐時の伊東姓は頼朝より千葉氏の九曜紋と共に拝領されたという記述が日向記にみられ、以後、伊東姓を名乗る。(伊東は伊豆の伊東地方を領することを意味する。)

3、鎌倉期の伊豆での伊東・工藤族の両方とも藤原惟幾(藤原南家)流の出自ではない(伊豆地方の豪族?)とする説。この説の場合は北条家の伊豆豪族としての出自に極めて近いとされる説。

一応、説の紹介ということです。


九州・伊東家由来の刀工・真改の作で面白い記事が本日付で載っているのでお知らせします。

「宮崎県清武町が所蔵する名刀工・井上真改作の刀が、最高傑作とされる「籠釣瓶(かごつるべ)」であることが分かった。籠釣瓶は国内に二振りしか現存せず、どちらも所在不明とされていた。宮崎日日新聞10月20日付記事」
http://www.the-miyanichi.co.jp/news/index.php3?PT=1#2005102011

名刀工・真改は、同じく名刀工・国広の弟子で九州での古文書「伊東崩物語」の解説本に次のような説明が見られるので載せときます。だいぶ長くなってすみません。
ーーーーーーーーーーーーーー
虎千代磨(伊東マンショ)の侍臣となって、豊後に落延びた田中国広は、初め綾の古屋の里で刀工をしていたのであるが、天正五年十二月七日伊東義祐が、野尻城主福永丹波守祐友の反を知り、綾を経て紙屋の野原に進軍した時、これに従いその退陣と共に都於郡城に入った。田中氏はもともと藤原姓で、その先祖田中実忠は肥後国球磨郡に住み相良氏に仕えた。実忠は国広の祖父でこの代に日向の綾に住み付き代々刀工をしている。国広は四十三才頃まで父国昌(旅泊)を助けて鍛刀を続け、天正四年二月初めて国広銘の刀を残している。天正六年四月大友宗麟が伊東氏の旧地回復のため日向に兵を進むるや、豊後に遁れていた伊東氏の旧臣達は、多くこれに参加したが、国広は臼杵に残り専ら刀作りに精を出した。その間、虎千代(満所)は宣教師ピト゜ロ・ラモンの導きによってドン・マンショと洗礼名を称し、天正八年有馬のコレジョ(神学校)が開校されると間もなく選ばれて入学した。こうしてマンショと別れた国広は、しばらく行方がわからなかったが、おそらく山伏に姿を変え豊後を離れていたものと見え、天正十二年二月にはその故郷、古屋にて刀を作っている。かくて天正十四年十一月島津の勢大いに振い、豊後に攻め入るに及び国広は再び豊後に呼び戻されたであろうか、明らかでないが、この年の国広は最も多く刀を作っている。こうして国広の名声いよいよ高く、天正十五年豊臣秀吉九州平定に先立ち、朝廷より信濃守の名を戴き石田三成に召されて九州に下った。乱平ぎ日向に諸大名を分封するにあたり、羽柴秀吉は日向の地理に精しい綾新右衛門儀定を招き、同郷の田中国広と共に国割りのことに当たらせた。この国割りによって、旧主伊東祐兵が曽井城に入ると直ちに暇を取って伊東氏に帰参した。祐兵は初め日向中部四郡の内、千四百七十九町を与えられていたが、これを不服とし飫肥・清武千七百三十六町に変更してもらったが、この交渉には旧臣綾・国広の働きが大であったという。
 其の後、国広は主家の許を得て京に上り、刀工をしていたが、ふとした事から人をあやめ、罪を遁れて関東の足利学校の学頭宗銀和尚を頼ってここに身を寄せた。翌天正十六年足利の城主長尾新五郎顕長に望まれて其の足軽大将となり、小田原城の北條氏との一戦に功を立てたが、後、顕長これに降り、秀吉の小田原攻めの時は国広もここに籠城し、城内で刀を作った。小田原落城の後、長尾氏亡び国広は再び足利学校に身を寄せていたが、この間天正十八年六月二十日伊東満所等長崎帰国、翌十九年三月京都聚楽第に於ける秀吉謁見の風聞は、遠く国広の耳にも届いた。満所帰国の噂を天にも昇る思いで聞いていた国広は満所上洛の報に接すると矢もたてもたまらず、足利学校をきりあげて上洛した。その間、小西行長の屋敷に居たが、その宿舎には京の老若男女はもとより、西国の諸大名までがおしかけ、座るところもないほどだった。国広は久々の対面にやれ嬉やと思ったのも束の間、満所は秀吉の大名取立ての誘いも断ったほどであるから、その決意は固く生涯を宣教師としておくることが分かった。国広は仕方なく京にとどまり刀匠として暮すことになり、大阪や伏見にも足跡を残し、文禄の役起こるや再び石田三成に用いられて、或いは渡韓したとも言われている。文禄三年石田三成が島津領の検地を命ぜられると、その奉行大橋甚右衛門の配下に国広は属して、専ら日向諸県方面の測量にあたった。石田三成が文禄四年八月、佐和山城十九万四千石を与えられると、国広も佐和山城下に刀鍛冶として住居し、関が原合戦に備えて多くの刀を鍛えたらしく、慶長五年頃に作られた国広の刀が多く残っている。
 国広が京都堀川一條に定住した時期は明らかでないが、いずれにしても慶長五年関が原役より後のことで、この晩年に国広の名声いよいよ高く、多くの名工が其の門から出たが、名工井上真改なども伊東家の臣で国広の孫弟子である。国広の晩年は刀工界の大御所として大大名の注文が殺到し、神宝として鍛えたものも多く、才能ある弟子に恵まれ幸せであった。波瀾の生涯を振り返りつつ京都にて永眠したのは、慶長十九年(一六一四)四月十八日、八十四才の高齢であった。
ーーーーーーーーーーー

工藤祐経系さん、こんにちは。

 うーん、難しい。千葉氏のほかの氏族については無知な私ですv-17

 掲示板の方にお書きいただいてかまいませんよ、決して千葉氏ネタだけの掲示板ではありませんので。伊東といえば伊東温泉に行きたいですなぁ。温泉大好きの管理人は、先日箱根に行ったとき、狂ったように温泉に入っておりました。

いやっ、失礼

他家のことで難かしかったですか。すみません。v-9
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