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相馬野馬追い 7月24日

 7月24日、「相馬野馬追」に行ってきました。実に三年ぶりの訪馬となりました。

 野馬追号
  ▲相馬野馬追号(臨時急行)

 「相馬野馬追号」という、この日、往復1本ずつの臨時急行に乗って、一路、野馬追の会場がある原ノ町駅へ。車内では青春18切符で乗ってしまい(急行は18切符対象外)、車掌と揉めてるヒトもいましたが、車内は比較的静かで、けっこうあっという間に駅に到着しました。

 10時3分原ノ町駅着。ここからタクシーに乗って、相馬家一門の岡田家菩提寺・法幢寺跡(今は廃寺で、山腹に開山碑と岡田家歴代墓のみ残る)を実見したあと、原ノ町駅に戻って甲冑騎馬行列を見る予定だったのですがっ! 駅前で配っているパンフレットを見ると、もうすでに行列は始まっている模様。ちとリサーチ不足でした。というわけで、今回は法幢寺跡はあきらめました

 行列の道までは原ノ町駅から1キロほどまっすぐ歩きます。すると、すでに小高郷の行列が。野馬追いは全体を通じて、旧中村藩領の行政区域(中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷)に則った組割で行なわれるため、行列もそれに応じたものになっています。そして、各郷は相馬領内にある大きな三つの妙見神社(中村神社、太田神社、小高神社)の御神輿を奉じています。

・宇多郷(相馬市)…中村神社。総大将(中村藩主・相馬家)を奉じて出陣。
・北郷(南相馬市鹿島区)…中村神社。副大将(功労者家の海老原家)を奉じて出陣。
・中ノ郷(南相馬市原町区)…太田神社。
・小高郷(南相馬市小高区)…小高神社。
・標葉郷(双葉郡浪江町、双葉町、大熊町)…小高神社。

行列1 行列2 行列3 総大将殿
 ▲騎馬行列     ▲騎馬行列     ▲御使番駆ける! ▲総大将殿

 行列は9時半から12時まで、2時間半にわたって行なわれるのですが、今回は10時過ぎから見物ということで、1時間ちょっとの見物です。途中の道は人が歩道を埋め尽くし、移動するのもちょいと難儀なので、裏道を通って、野馬追い会場の「雲雀が原」付近まで先回りです。実はこの会場付近、人が少ないのです! けっこう穴場です。

 行列はただ甲冑を着た騎馬武者が練り歩くだけというものではなく、御先乗、組頭、御使番、侍大将…等などきちんと役職が決まっていて、行列をうまいことコントロールしています。馬も馬で人の言うことを聞くのもいれば、嘶く聞かん坊もいたり、そういった馬も含めて行列を乱さず、歩道の見物人につっこまないようにするのは、並大抵の苦労じゃないべなと思ったりしました。

 さて、総大将が祭場・雲雀が原へ入り、神輿が鎮座すると、お祭りのハイライトでもある「古式甲冑競馬」がはじまります。時刻はちょうど午後12時、例年であれば日焼け確実の陽射しですが、今年は微妙な曇り空で、風も涼しく、イイ感じでの観戦ができました。レースは1200メートル、10頭立て10レース(たまにニ、三頭減っていましたが)です。旗指物の音と、数メートル先を駆け抜ける馬の重量感はスゴイですね 今年も落馬者、負傷馬が出て、救急車や馬運車で搬送されていました。

甲冑競馬1 甲冑競馬2

 この競馬が終ると、クライマックスの神旗争奪戦です。空に打ち上げられた中村神社、太田神社、小高神社の三妙見神社の御神旗を、馬上で鞭を使って搦め取るものですが、これは十発ほど打ち上げられるので、そのスキに、鎌倉時代に相馬家が千葉から移り住んだ際、奉じたという塩竈神社をお参りに行きました。田んぼの中に鎮座している社なので、周りは非常にのどかです。セミの声と田んぼから湧き上がるモワッとした草いきれ、「ぼくの夏休み」的な風景です。はるか先には中ノ郷の鎮守・太田神社も見えます。

塩釜神社 原ノ町
 ▲塩竈神社           ▲のどかだ…

 すでに御神旗を打ち上げている花火の音も数発聞えているので、早く戻らないと終ってしまいます。ちょっと早足で祭場へ戻って、数回御神旗争奪戦を見物しました。かなり激しく競り合うので落馬者も出ます。今年も救急車で運ばれていった騎馬武者がいました。

御神旗争奪戦1
 ▲神旗争奪戦(望遠足らず)

 神旗争奪戦が終ると、この雲雀が原でのお祭りは終了になります。祭場のすぐ裏手にある南相馬市博物館を見物+納涼して、原ノ町駅へ戻り、相馬中村藩の居城・中村城へ凱旋する、総大将・相馬行胤公率いる宇多郷の「お上がり」を見るため、相馬駅に向います。

 「お上がり」の行列が相馬中村城に入ってくるのは午後5時半ごろ。先回りして、三年ぶりの相馬中村城を見物し、行列を待ちます。そして、午後5時半少し前に、向こうのほうから御使番の声。行列が大手門から宇多郷勢が入城してきました。甲冑は脱いで身軽な平装になっています。

凱旋1
 ▲総大将殿。黒地に日の丸は藩公の旗。

 その後、中村城妙見曲輪において評定が行われ、甲冑競馬や神旗争奪戦などで武勲を挙げた武者などへ、総大将からご褒美が出ます。そういえば、今年は子ども武者や女武者が多かった気がします。評定に遅れて「早く来い!」と怒られている武者もいたり

陣所1 陣所2 陣所3
 ▲総大将がいるのに…    ▲評定シーン         ▲総大将から御褒美下賜

 今年の評定はあいにくの雨で、急に降ってきましたね。神社の方も赤いデカい傘を持ってきて、総大将殿にかけていましたが、総大将は神社の方のほうにさしてくださいと戻していました。

 これで、24日の野馬追いは終了。明25日は小高郷の神事・野馬懸が行なわれます。これが野馬追いのラストを飾るお祭りです。これまで見たことがなかったので、今年は朝イチで出かけます。 

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本土寺のあじさい

 松戸市にある日蓮宗の名刹・本土寺へ行ってきました。

 この寺も千葉一族にゆかりが深く、このお寺に伝わっている『本土寺大過去帳』は、中世史の重要資料になってマス。最寄り駅はJR常磐線の北小金駅。商店街を抜けると、すぐ参道になります。

 参道は左右の並木に沿って歩道が整備されていて、地面も舗装されているので歩きやすくなっています。数年前までは、木の根っこむき出し、ドロドロざらざらの道だったのでえらい苦労しました。いまは快適な道です。

 参道からさらに奥に入った参道の両側には漬物屋が並んでいます。自家製っぽく、ほんとにイけます。メロンやザーサイなど、あんまり見たことのない漬物もあります。シイタケの漬物(甘辛煮?)や沢庵はメジャーどころですが、うまいです(試食)。

 本土寺17 本土寺18
   ▲漬物屋             ▲漬物こんなかんじ

 境内に入ると、左手には五重塔とあじさいの山。もうすでに写真を撮っている人多数。真正面には本堂があり、新緑の紅葉に埋まっています。あじさいの小道や、あじさいをバックにした菖蒲池など、松戸の街なかとは思えない森林空間が広がっています。

本土寺6 本土寺5 本土寺 本土寺2 本土寺4

本土寺14 本土寺7 本土寺8 本土寺11

 ネコもいたりします。このネコ、人にひじょーに慣れていて、撫でられようがつつかれようが、微動だにしません。毛並みもいいので、大切にされてるんでしょうな。

本土寺16 本土寺9

●長谷山本土寺
  開門時間 8:00~17:00(最終受付16:30) 
  入場料:一般 500円(小学生は300円)

 本土寺ホームページ
 http://www.hondoji.com/

本土寺12 本土寺15 本土寺13
 ▲像師堂              ▲あじさい             ▲菖蒲池

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佐賀の旅

GWの佐賀旅行。

こんなとこに行ってきました。

■小城円通寺
 千葉家ゆかりの寺で、古くは、京都南禅寺、鎌倉建長寺と並ぶ「三大興国禅寺」として栄えた禅寺でした。しかし、江戸時代の火災や明治維新の廃仏毀釈などによって荒廃してしまいました。今でも江戸時代の千葉家のお墓が残っています。…が、すでに墓石は壊れかかっています。

円通寺 千葉家墓所1
 ▲円通寺の勅使門跡      ▲円通寺墓所の千葉家廟所

■松尾山光勝寺
 円通寺のすぐそばにある千葉家ゆかりのお寺で、九州日蓮宗総本山。肥前千葉氏・千葉大隈守胤貞の猶子だった日祐上人(下総国の中山本妙寺・法華寺三世:現在の法華経寺)が開山となって開かれました。以来、千葉家と密接に関わりあいながら現在に至っています。墓所には江戸期の千葉家の墓所があります。

光勝寺 千葉家墓所2
 ▲光勝寺             ▲光勝寺境内の千葉墓所

■佐賀城と本丸御殿
 鍋島家の居城跡と、最近再建された本丸御殿(資料館になっています)。

佐賀城 本丸御殿 本丸御殿内
 ▲佐賀城堀           ▲本丸御殿復元          ▲御殿内の廊下

 今回の佐賀調査を終えたあとは、一路京都へ。宇治の散策をしてきました。

平等院
 ▲平等院鳳凰堂

 今回の千葉家の調査は全て終らず、もう一度行かないとな、と心に決めました。が、電車賃高いし、時間がないし、さて、いつになることやら。それまでに円通寺の千葉家の墓石が崩壊、取り壊されていないことを祈るのみです。

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肥前千葉氏の庶流 晴気氏

 GWは肥前千葉氏の故郷・佐賀県へ行ってまいりました。

 佐賀県立図書館の郷土資料室に所蔵の鍋島家文庫内に、肥前千葉氏の庶家として、佐賀藩士晴気(晴氣)家の記述がありました。

 晴気氏の祖となったのは、肥前千葉氏の最後の屋形・千葉介胤連の孫・鍋島忠右衛門胤信の外孫にあたる千葉作兵衛胤仲という人物。佐賀藩士になっています。胤仲は祖父・胤信の養子となり、義理の兄(実伯父)にあたる鍋島玄蕃常貞の娘婿になり、その家臣になったようです。その際、「千葉」を憚ったか、千葉家に由緒の深い「結篠(飯篠)作兵衛胤仲」と名を改めました。

 ただ、子孫に至っては佐賀藩士となったようで、藩命によって「飯篠」を「晴気」と改めています。これは千葉家の由緒地である小城郡晴気村にちなんだものと思われます。

晴気城
 ▲千葉家ゆかりの晴気城址

 ずいぶん前にさる方から、昭和期の軍人として知られる晴氣慶胤陸軍大佐について、掲示板にお書き込みいただいて以来調査をしていたのですが、おそらくこの晴気氏の出身なんでしょう。

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上野の桜はまだです 3/21

 3/21 桜開花宣言。

…というわけで、上野公園に行ってきました。

がっ! ほとんど咲いていません。ピンクの大柄な桜は咲いていましたが。

桜花
 ▲濃いピンクの桜

 今日、靖国神社の基準木の花が咲いたというだけのハナシで、上野は花見をするには程遠い感じです。それにもかかわらず、土曜日の午後ということでかなりの人出でした。
見頃は休日だと来週3/28、29から4/4~4/5あたりがメインになりそうです。

 上野公園の北、国立博物館では、3/31から「国宝 阿修羅展」が開催されます。奈良の興福寺の仏像の一つで、奈良時代の作。2年ほど前、興福寺の国宝館で拝観しましたが、かなりリアルで端正な顔立ちです。ぜひ阿修羅展にも行ってみたいですねぇ。

「国宝 阿修羅展」http://www.asahi.com/ashura/

 上野公園がある場所は、江戸時代も桜の名所として有名でした。ただ、ここは公園ではなく、徳川将軍家の菩提寺、東叡山寛永寺というお寺がどーんとありました。

 山号の「東叡山」とは東の比叡山という意味で、不忍池は琵琶湖、中ほどにある弁天島は竹生島と対比しています。開山は徳川家ゆかりの慈眼大師(天海大僧正)。寛永2(1625)年の建立で、勅許を以って元号「寛永」を寺名に冠した名刹です。寺のトップは皇族が京都から下向して就き、その寺域は上野公園全域はもちろん、谷中霊園の大部分、日暮里駅の手前までに至る広大なものでした。現在の国立博物館は本坊跡です。

天海    公園
 ▲天海大僧正像(日光)   ▲法華堂・荒行堂跡(道の真ん中)から本堂跡(国立博物館)を望む

 しかし、幕末の慶応4(1868)年5月、彰義隊をはじめとする旧幕府側の武士たちがこの寛永寺に立てこもって、新政府軍に抵抗しました。「上野戦争」と呼ばれています。とくに激戦になったのが、いまの上野公園の桜並木に入るあたりにあった「黒門」でした。現在黒門は撤去されて、南千住の円通寺に移されていますが、当時の戦闘の跡が生々しく残っています。そして、この上野戦争で寛永寺はほぼ燃え尽きてしまいました。

上野黒門 黒門1 
 ▲黒門(移築)          ▲黒門に残る上野戦争の弾痕

 その後、公園として整備され、今のような形になりました。しかし、上野東照宮、五重塔、清水堂など、お寺だった頃の名残が、あちこちに見られます。

 国立博物館の入口のすこしヨコには、鳥取藩三十二万石の池田家上屋敷門(黒門)があります。かなりの大きさで、門に住めますな。

池田家
 ▲鳥取藩上屋敷門

 国立博物館を少し北に行ったところには、現在の寛永寺根本中堂があります。川越の喜多院から移築されたもので、かつての威容はまったくありませんが、周囲の並木にとけこんでいい雰囲気をかもし出しています。参道の石灯籠は大名からの奉納品ですが、奉納者ならびに被奉納者の名がうまいこと削られていて、誰が奉納した灯篭かは不明です。

本坊
 ▲寛永寺根本中堂

 スミのほうには、いかにも由緒ありげな石塔や宝塔が放置されていました。宝塔や石塔はここにあったものとは考えられませんが、将軍家ゆかりの人の墓石だったことは、その形や法名から推測できます。先日も谷中霊園内の奥方様墓地が撤去されましたが、国や都は文化財の散逸を防ぐ意味でも、予算をつけてほしいもんです。

塔1
 ▲「桂芳院(一橋治済正妻・寿賀宮在子女王)」とある三葉葵紋付宝筐印塔

塔2
 ▲「青蓮院妙香日■(徳川家斉側室於瑠璃方)」、「是心院妙雪観空大姉」

塔3
 ▲無紋の八角宝塔:徳川家斉生母・慈徳院(於富方) 『徳川将軍家墓碑総覧』より

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偕楽園の梅まつり

 水戸偕楽園の梅祭りに行ってきました。今年は暖冬ということか、梅の開花が例年より2週間も早かったようで、偕楽園は3/1時点で八分咲きとの発表がありました。

 偕楽園は水戸徳川家の九代当主・徳川斉昭がつくった庭園で、金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに三名園として知られています。藩士はもちろん、領民にも開放された、江戸時代当時としては画期的なものでした。

mitonariakizou.jpg
 ▲水戸斉昭

 庭園内は梅と人であふれかえっています。入園料は無料なので、出たり入ったりする人もいます。昨年までは、門前に出店が広がっていましたが、今年は園内の端っこにも出店がありました。ここだけかどうかは知りませんが、「水戸の梅」という大判焼きが売ってました。

 八分咲きの梅とはいえ、結構な咲き様で、蕾と咲いている花のコントラストがこれまたイイ具合でした。

緋梅 白梅 桃梅

 偕楽園の梅林から、杉林を抜けて崖下に下りると、これまた広々とした回遊式庭園が広がっています。ここには上ほど梅はありませんが、庭園の趣が味わえます。

偕楽園2 偕楽園1

 偕楽園を出たあとは、すぐそばにある県立歴史館に行こうと思っていましたが、時間の関係で取りやめ。県立図書館脇の水戸城堀跡を見て、水戸駅前の水戸東照宮を参拝。ここの灯篭は慶安4(1651)年4月17日に徳川頼房(水戸藩祖。徳川家康の子)が奉納したもので、灯篭に「正三位行権中納言源頼房」と刻まれています。

水戸城堀 水戸東照宮1 東照宮銘
 ▲水戸城堀跡           ▲水戸東照宮          ▲灯篭

 なお、偕楽園の最寄り駅はJR常磐線「偕楽園駅」ですが、この駅は偕楽園梅まつりの時期のみの臨時駅で、普段、偕楽園へは水戸駅からバスで行きます。 

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広尾を歩く

 千代田区銀座から港区広尾を友人夫妻と食べ歩きしてきました。

 ●自然式食堂 餉餉(けけ) http://keke.jp/
 
 プランタン銀座の真裏にある2時間食べ放題のお店で、ランチは2,200円。
 
 特別にチョコフォンデュのチョコの滝が設置されていて、バナナやイチゴを串に刺して滝につっこみ、チョココーティングしてみました。写真はとてもまずそうですが、味はいたって美味です。チョコの滝つぼに具を落として、必死で探している人もいましたね。

チョコ チョコフォンヅ

 料理は和洋中とりそろえたブッフェで、お盆のような木皿に直接料理を盛っていきます。とくにサラダが美味でした。

けけ

 食事のあとは一路広尾へ。腹ごなしの有栖川公園散策です。

 有栖川公園は江戸時代には盛岡藩十万石の下屋敷がありました。公園は池をベースに東に傾斜した高台からなる林泉式庭園で、林や小さな滝、小さな梅の広場があります。

有栖川2
 ▲有栖川公園庭園

 高台を登りきったところにある広場には、馬に乗った軍人の銅像がありますが、明治時代、ここに屋敷を構えた有栖川宮熾仁親王の銅像です。去年の大河ドラマ「篤姫」でもわずかに出演した熾仁親王は、徳川家定に嫁いだ和宮親子内親王の元婚約者でした。また、最後の将軍・徳川慶喜とも親戚に当たります(熾仁親王の大叔母が慶喜の母)。

有栖川1  広尾
 ▲有栖川宮熾仁親王  ▲公園内の小川

 有栖川公園を出た後は広尾駅方面へ戻り、最近できたチョコ専門店に行って来ました。

 ●ショコラティエ ボナ 広尾allaboutより
 公式サイト

ショコラボナ
 ▲ショコラティエ・ボナ

 店のおばちゃんが親切で、メニューにあるモノについていろいろ説明してもらいました。紅茶と同じで産地によって微妙な違いがあるようです。とりあえずはオーソドックスっぽいもの(フランボワーズショコラ)を注文し、チョコケーキ(チョコラショー)もついでに頼んでみました。がっ! この二つ、想像以上に濃厚で強敵でした。味は上品でコクがあってかなりウマイのですが、濃厚ココア+超濃ケーキは選択に失敗した感がありました。

フランボワーズ ショコラショー
 ▲フランボワーズショコラ    ▲ショコラショー(特濃美味)

 その後、広尾のまちを散歩しましたが、商店街の突き当りに禅寺を発見。しかもかなり大きな禅寺と見え、山門の脇に「祥雲禅寺」とあり、中にいくつか塔頭がありました。本坊は禅宗様の白漆喰壁、建仁寺や天龍寺を彷彿とさせます。そして、ここはいくつかの大名家の菩提寺でもありました。ということで、さっそく参拝しました。

祥雲寺1
 ▲祥雲禅寺

 境内墓所にはいきなり大きな五輪塔が三つ、福岡藩黒田家の墓石です。法名が確認できた右端のものは福岡藩六代藩主・黒田継高の奥さん(黒田吉之娘)のものでした。ほかに曲直瀬家(医師家)、一柳家(摂津小野藩)、金森家(美濃郡上藩)などの墓石があり、もっとも奥には秋月藩黒田甲斐守家の大名墓群が数十基建ち並び、その脇の覆屋の中には福岡藩祖・黒田長政の巨大な墓が鎮座していました。

黒田家墓   秋月藩  黒田長政
 ▲圭光院殿         ▲黒田甲斐守家(秋月藩主)   ▲黒田長政墓
 
 まさか広尾の真ん中にこんな広い境内を持った禅寺があるとは想像もしていませんでしたが、大きな収穫でした。

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千葉一族更新日記

 最近、サイトの容量が増えてまいりまして、契約容量との兼ね合いで、サイトの構造形態を変更せざるを得ない仕儀と相成りました。

 これまではフォントの色や大きさ、枠組みなどをすべて<font>や<table border="1" width="900">などで作っていましたが、より軽く表示も可能なcssを用いた形態に変更作業中です。とりあえず、暫定的なTOPページ、千葉氏の当主ならびに一族のページに更新しました。お見苦しい点、多々ご容赦ください。

鎌倉紅葉2008

 鎌倉へ紅葉狩りに行ってきました

円覚寺1
 ▲円覚寺

 がー、鎌倉の紅葉満開(?)は来週半ば頃かな、という感じで、まだ緑の葉が目立っていました。例年は12月初旬が見頃なのですが、今年もまぁ同じくらいか。境内の紅葉ももうちょい。

円覚寺2
 ▲円覚寺の参道

 ところで、紅葉には関係ありませんが、円覚寺の本来の入口は、現在の入口の南側、踏切を渡った先にありました。参道の左右にある池は、建武元(1334)年頃の『円覚寺境内絵図』にはすでに記載があります。

円覚寺3
 ▲木戸跡と鎌倉時代の迂回路(左へ入る小道)

 円覚寺の旧参道に面した道路は、かつては円覚寺門前の広場でした。広場の東西は木戸が設けられ、道は南にやや迂回する∪形になっていました。現在もその小道が残っています。

 円覚寺のあとは建長寺へ。例年では円覚寺のあとは、イチョウを観に明月院に寄っているのですが、今年はあまり見応えがないという情報と、ここの受付の人のモノの言い方(拝観料で小銭を出さないと、しつこく、ぶっきら棒に小銭を求める)がキライなので、パス。

 建長寺はあまり紅葉スポットはないのですが、鎌倉といえば円覚寺、建長寺。ということで、ちらっと立ち寄りました。時間が早いこともあり、客は少なく、本尊のお地蔵様をお参りして、鶴岡八幡宮へ。

鶴岡八幡宮
 ▲八幡宮

 ここ鶴岡八幡宮は、かつては「鶴岡八幡宮寺」というお寺で、僧侶が諸役を務めていました。三代将軍・源実朝をこの八幡宮大階段上で暗殺した甥の公暁(二代将軍・源頼家の子)も八幡宮寺若宮の別当を就ってました。

 鶴岡八幡宮ではツアー客にまぎれて参拝を済ませ、舞殿で行なわれていた結婚式を眺め、北条政子ゆかりの寿福寺へ。寿福寺も紅葉がキレイなスポットがあるのですが、今年はまだっぽいですな。

寿福寺
 ▲寿福寺

阿仏尼
 ▲伝阿仏尼供養塔

 続けて、海蔵寺へ。ここへ行く途中、道の左側のヤグラに石塔が建っています。これは、公家の冷泉為相(近くの浄光明寺の裏山に墓がある)の母親・阿仏尼(安嘉門院四條。『十六夜日記』の著者)の供養塔とされていますが、実際のところはどうなのでしょう。

 その先を道なりに行くと海蔵寺となりますが、その手前の道端にキレイな紅葉がありました。

紅葉1 紅葉2 紅葉3
 ▲海蔵寺手前の紅葉

 このへんで昼も近くなったので、友人から聞いていた、小町通りの厚焼き玉子の「おざわ」に行ってみました。がっ、けっこうな行列で断念。すぐ近くの豆腐料理の定食屋「鎌倉小町」に少し並んで入ってみました。

豆腐
 ▲店長のオススメ(「小町御膳」だったかな…¥1,500)

 料理は大変うまかったですが、ごはんの量がちょいと少なかったかも。コップに入ってるのは、豆腐を漉した感じの濃厚な豆腐汁(?)。外から見ると狭そうな店ですが、中は案外広く、料理もさっさと出てきました。内容もへるしーでオススメですな。

 昼飯を済ませて、千葉氏ゆかりの妙隆寺へ。小町大路に面した日蓮宗の寺で、千葉氏の屋敷跡に建てられました。屋根には千葉氏の家紋・月星が彫られています。

妙隆寺
 ▲妙隆寺

妙隆寺月星
 ▲本堂の屋根に光る月星紋

 続けて、鎌倉北条氏の菩提寺にして最期の地・東勝寺跡へ。小町大路を東に入ってまっすぐ行った先の高台一帯を占めていた寺でした。元弘3(1333)年の新田義貞による鎌倉攻めによって、多くの北条一門がこの東勝寺で自殺しました。今は住宅地と自転車置き場と野原になっています。

東勝寺への道
 ▲東勝寺跡への坂道

東勝寺
 ▲東勝寺跡

 この時点で約13時。今回の鎌倉旅行は紅葉がイマイチだったこともあって、混んでくる前に切り上げることにしました。紅葉のピークは休日であれば、来週の土日になるんでしょう。

テーマ : 日記
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持法院の曼珠沙華

彼岸花

 柏市藤ヶ谷にある観音霊場・持法院に曼珠沙華(彼岸花)が咲いていました。毎年、お彼岸の頃になると咲き出す真っ赤な花です。この時期が来ると、早朝から起き出して車で1時間ほどかけてこの寺まで行っています。(持法院所在地:mapion

持法院遠景

 田んぼのはずれに建つお寺で、かつて田んぼを挟んだ向かいにあったお城、藤ヶ谷城の城主だった相馬氏の菩提寺になっています。鎌倉時代からこの相馬地方に連綿と続く名家で、福島県相馬市の相馬中村藩主・相馬氏とは遠縁になります。

 参道前にある石段を登っていくと、観音霊場として知られる小さな観音堂があります。この観音堂の本尊・半跏思惟如意輪観音は、建久元(1190)年に鎌倉の館にいた千葉介常胤が、霊夢に現れた観音さまを彫らせたものと伝わっています。

観音堂

 常胤の子孫・相馬氏は、領内の「番場村」にこの観音様を移して観音堂を建立。藤の花でお堂を覆ったことから、番場村は「藤萱村」と呼ばれるようになったと伝えられています。いまは「藤ヶ谷」と呼ばれています。

 この持法院、結構マニアな所にあるんですが、この彼岸花を撮りに、早朝にもかかわらず人が案外来ていたりして。彼岸花はここだけではなく、ちょっと先の田んぼ道脇にも密集して植わってたりして、東京のビル群では見られない、なんとものどかな風景が広がっています。

トンボ
 ▲彼岸花と赤とんぼ

手賀沼朝もや
 ▲持法院の北にある手賀沼

テーマ : 雑記
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水戸へ

歴史館
茨城県立歴史館

 茨城県立歴史館に行ってきまシタ。家から軽く3時間はかかりますが、ココだけに置かれている「一橋徳川家文書」を読むために、ひたすら頑張ってます
 今回も一橋家に仕えた千葉氏流相馬家を追っての調査でしたが、どうにも調べたい対象の時代が定まらず、あまり効率よく見られなかった気がする…
 というわけで、また調べきれずに課題が残っちまいました

相馬
「相馬」
 
 次回は泊まり込みで行ってもいいんだが、と、ネットを見ると「水戸プリンスホテル」が。ついに水戸にもプリンスホテル進出か?! なんて思っていたら、ビジネスホテルでした けっこうキレイな感じでいいかも  そういえば 「軽井沢プリンスホテル」で結婚式を挙げた友人がいますが、ここのプリンスはでかかった!
軽井沢結婚3
軽井沢プリンス1

軽井沢結婚5
控え室 どーん

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

南町奉行与力 原胤昭の資料

 昨年、東京都千代田区市ヶ谷駅にほどちかい、区立四番町歴史民俗資料館で、「江戸町与力の世界=原胤昭が語る幕末」という特別展が行われました。ワタシはあとでその開催を知ったのですが、すでに「原胤昭旧蔵資料調査報告書(一)」なるモノが資料館で販売されていることがわかりました。

 さっそく会社を定時に切り上げ、市ヶ谷にダッシュ。閉館ギリでなんとか購入。南町奉行所の仕事や由緒書などの史料、原氏をはじめとする与力たちの系譜など、かなり濃い内容でした

史料

 「原胤昭旧蔵資料調査報告書(一)」とあるくらいなので、きっと(二)もそのうち出るんでしょう。いまから楽しみです。

 原胤昭は「免囚保護の父」とよばれた明治の名士。最後の南町奉行与力で、下総国相馬郡手賀村(千葉県柏市手賀)の領主だった千葉一族・原氏の末裔です。いまでも手賀には胤昭をはじめとする一族が眠っています。

■手賀原氏
http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/hara21.htm

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一橋家文書

水戸
茨城県立歴史館

茨城県水戸市にある県立歴史館に行ってきました。

ここの閲覧室では、ほかでは見ることのできない史料を閲覧することができます。
水戸徳川家から一橋徳川家に養子に入り、最後の将軍になった徳川慶喜ゆかりの「一橋家文書」もその一つです。八代将軍徳川吉宗の子・徳川宗尹を祖とする一橋徳川家には、千葉一族の相馬氏が家臣として入っていました。今回はその調査に出向いたわけです。

歴史館は、茨城の歴史を紹介するのがメインの博物館で、その展示もなかなかオモシロいので、時間があるときは拝観しますが、今回は閉館ギリまで閲覧室に籠っていたので、そっちはまた今度ということで。。。

茨城県立歴史館

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本土寺のあじさい

 松戸市北小金にある本土寺は、夏はアジサイ、花菖蒲、秋は紅葉で有名な寺です。境内はかなり広く、約1万坪(ディズニーランドの1/15くらい。。。って、わかりづらいですな)あります。

 その歴史は古く、鎌倉時代にまでさかのぼります。このあたりの土豪・平賀氏(源氏の平賀氏とされていますが、実際はこの辺の豪族でしょう)の屋敷あとに建てられた日蓮宗の寺院です。

 中世では領主の原氏や高城氏の庇護を受けて、大きな影響力を持ったお寺に成長しました。梵鐘は国重文、「本土寺大過去帳」は県文化財、ほかにも徳川家康の側室(秋山夫人)のお墓があります。

入場時間 8:00~17:00
入場料 500円(小学生は300円)

http://www.hondoji.com/

アジサイ

アジサイ

ねこ

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ジャンル : 日記

tag : あじさい紫陽花アジサイ菖蒲歴史

谷中の徳川家廟所

 東京の日暮里駅の線路沿いに、谷中霊園という広大な墓地があります。それはそれは広大な墓地で、メインストリート両側には桜が植えられていて、春は花見客で盛り上がっています。ピザ屋が墓地の番地で宅配している姿をよく見かけました。

 この霊園には、旧華族や文豪、政治家などけっこう有名人のお墓があったりするのですが、奥の方の一角には、寛永寺が管理している徳川家墓地があり、御台様墓地、田安徳川家墓地、清水徳川家墓地、一橋徳川家墓地が点在しています。

 先日ニュースで御台様墓地の発掘調査のニュースをやっていたので、ちょいと行ってみました。…結構無惨でしたね。

 ただ、確かに現当主徳川さんが個人で維持管理費(http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1163990839/184-283)を払っているとすれば、そいつはかなり気の毒な話ですな。そして、この徳川家から返された徳川家墓地の跡地は、寛永寺が一般墓地として売り出す予定とか。。。

 寛永寺からしてみれば、江戸時代も終わって140年、特別な檀家だけど、いつまでもひろ~い土地を占有してるのはヘンでない? こんな広い土地だし、分譲にさせてもらったほうが……。ま、こんな想像もできちゃったりするわけです。

 田安徳川家、清水徳川家の廟所はいずれも上野の凌雲院(このへんにあった)から移されたものですが、立派な宝塔です。

 御台様墓地
御台様廟所の解体風景

田安徳川家
田安徳川家廟所(移築)

清水徳川家
清水徳川家廟所

テーマ : 日々のつれづれ
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tag : 谷中徳川御台様解体寛永寺

Newyearコンサート2008 in Bunkamura

bunkamura
Bunkamura

今年は友人夫妻といっしょに行ってきました! Bunkamuraオーチャードホールの東京フィルコンサート。
今年のテーマは「どこかで出会った、あのメロディ」ってなことで、聴いたことある音楽特集。
とはいえ、拙者クラシックにそれほど造詣がないので、知っている音楽はそのうちのいくつかだけ。。。ということで、レンタルCDで予習。本番に臨みました。

実際に聴いて、特にこいつぁよかった!と思った曲は、ウェーバーの「舞踏への勧誘」です。
男性(チェロ)が女性(クラリネット、フルート)をダンスに誘う掛け合い、ダンスを踊るシーン、曲が終わったかと思ったら、最後に男性から女性へありがとうのご挨拶まで表現された見事な一曲! ぜひ聞いてみてください。

パンフレット

テーマ : 日記
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伊豆の旅 湯河原~小田原

湯河原の温泉
湯河原の川

 ここ湯河原は、弱アルカリ単純泉のオハダにやさしい、いわゆる名湯です。硫黄成分がないので街中は澄んでいます。行った時期はシーズンではなかったので旅館もすいていて、でかいフロも独り占めできました。温泉街の風情もまた旅気分をそそります。ここはまた行きたい温泉ですな

 平安時代末期、湯河原の領主だったのが土肥氏でした。源頼朝の挙兵にいち早く参加した土肥実平は頼朝の重鎮となり、平家との戦いでも副将格(軍監)で西国に下り大活躍。実平の子孫はこの湯河原のほか、中国地方にも領地をもらい、移っていった一族が小早川氏として発展しました。

 城願寺 土肥実平一族墓
土肥実平一族の墓

 で、その土肥実平・遠平のお墓があるのが、湯河原駅(土肥氏館跡)の裏手の高台にある城願寺です。お寺の境内には、実平手植えのビャクシンが渦巻いてます。でかいっ!!

 この城願寺、ダウンタウンのガキの使いで、「浜田・山崎・田中 絶対笑ってはいけない温泉宿 1泊2日の旅 in 湯河原」の撮影でも使われたお寺です。

城願寺 山門
城願寺山門

城願寺
城願寺本堂

お土産
湯河原おみやげ

 湯河原駅に隣接するこのお土産屋もガキの撮影で使われました。奥まったところでお茶とお菓子を食べれるようになっています。

小田原城城門
小田原城の城門

小田原城の城門
小田原城の城門

 さて、お土産を買って湯河原を後にし、東京へ向かって走ると、すぐに小田原城が見えてきます。小田原城を本城とする小田原藩には千葉一族・相馬氏がかなりの大身で仕えていて、藩侯・大久保氏とも血縁にありました。というわけで、その相馬氏の菩提寺へお参りに行きました。一度来たことがあったのですが、閉門ぎりぎりだったので墓石の調査を行えず、今回はリベンジのつもりでお参りしましたが、墓石が見つからない。諦めて帰ってきましたが、ジツは違うお寺をお参りしていたことが判明。また行かないと。

 小田原城は現在、江戸時代の景観への復元工事が行われています。
小田原城復元工事

 どんな風に変わるのか、完成はもうチョイ先になるんでしょうが楽しみですな。

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伊豆の旅

 伊豆の旅に出かけました。湯河原から伊豆長岡、修善寺をめぐる旅、鎌倉時代へ(勝手に)タイムスリップです。湯河原の旅館に車を預け、電車で伊豆長岡へ向いました。時期的には観光シーズンでもないし、道はすいてましたね。

 伊豆長岡駅にはレンタサイクルがあり(要事前予約)、こいつに乗って市内散策です。近場で行っておきたいところと言えば、まず願成就院。鎌倉北条氏の広大な菩提寺の跡です。今となっては小さな(とはいえ、普通のお寺に比べたらよっぽどでっかいですが)寺になってしまいましたが、かつては堂塔を配するビッグな寺でした。

願成就院2
願成就院

願成就院1
願成就院跡

称名寺
称名寺の庭園

 さらに境内の池には橋を架けて中島に渡す浄土式庭園が広がっていたといいます。たぶん上の写真のようなイメージか? これは金沢北条氏が、武蔵国金澤(金沢文庫の辺)に建てた称名寺です。

北条時政墓
北条時政墓

 願成就院の境内には、北条時政のお墓が残っています。鎌倉幕府を我が物にしようと、いろいろな企みをした挙句、娘の北条政子と息子の北条義時によって鎌倉を追放されて、北条氏発祥のこの地へ押し込められ、鎌倉に戻ることなく亡くなりました。

堀越御所跡
堀越御所跡

 さて、願成就院の先には、北条政子産湯の井戸と呼ばれる井戸の跡、さらにその周辺一帯は、室町時代中期、鎌倉を追放された鎌倉公方・足利成氏の代わりに京都から派遣された足利政知(八代将軍・足利義政の弟)が御所を構え、「堀越御所」と呼ばれた屋敷跡が残されています。いまは芝生の公園になっています。このあたりも、鎌倉時代には北条氏の屋敷群があったのでしょう。

北条氏屋敷跡
守山麓の北条氏屋敷跡

 堀越御所から自転車で2,3分のところに、北条氏の屋敷跡があります。北条政子もこのあたりで生まれたのでしょう。鎌倉幕府滅亡後もここには北条氏の女性たちが暮らしていたそうです。そして、そのすぐわきを流れている狩野川の対岸が、二代執権・北条義時の屋敷があった「江間」地区になります。

北条義時
北条義時夫妻の墓

 その北条義時と奥さん(佐伯氏)のお墓が江間地区の北条寺にあります。ただし、本当の義時の墓は鎌倉の「大蔵幕府」の北側の山上にあったので、北条寺のお墓は義時の子・泰時が供養墓として建立したものとされています。

蛭が小島
伝蛭が小島

 さて、しばらく東へ走ると、平家によって頼朝が流されていた「蛭が小島」跡に着きます。ここには頼朝と北条政子の銅像が建てられていて、解説ボランティアのオジサンたちもいましたね。少し前に宮城の多賀城に行ったとき、解説ボランティアのオジサンたちから手厚く濃ゆ~い説明をうけてしまったことを思い出し、時間もないのでオジサンたちに見つからないよう、遠巻きに散策。

 実際の頼朝が配流されていた「蛭が小島」は別の場所(もう少し西に寄った中洲)といわれ、この地ではないようですが、まぁ、気分だけでも蛭が小島ということで、隅々まで見て回りました。そして、さらに東へ。すると、江戸時代の韮山代官・江川家の代官所跡が見えてきました。幕末の剣豪にして名代官・江川太郎左衛門英龍もここにいたのかと思うと、なんとも奇妙な気分。ただ、拝観には金がかかるらしいので、今回は却下。

 その江川邸跡の正面の小道をひたすら登っていくと、香山寺というお寺に到着。ここは、頼朝が挙兵をした時に討たれた平家方の伊豆国目代・山木判官代平兼隆の首塚があります。

山木判官墓 香山寺
山木判官平兼隆墓

 山木判官墓から、江川太郎左衛門の反射炉を見て回ろうとしたのですが、時間がなく今回は断念。伊豆長岡駅に戻って自転車を返却し、電車で修善寺へ。

 修善寺ではあまり時間がないので、バスに乗って修善寺温泉へ直行。この地で殺された鎌倉二代将軍・源頼家と、頼朝の弟・三河守範頼の供養墓を見て回り、修禅寺でお参りを済ませて湯河原へ戻りました。しかし、修善寺温泉から駅までのバスが終わっちゃうのが早くて、かなり走りました

源頼家
源頼家墓

源範頼
源範頼墓

修禅寺
修禅寺

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古河の旅

 古河市は、関東管領足利基氏の子孫である古河公方のお膝下。いまでも、古河公方足利氏の史跡が結構残っています。古河公方には、奉公衆として千葉一族の相馬家が仕えており、子孫は下野国喜連川領主・喜連川家(足利家)の家臣として幕末に至っています。 

 古河公方の御所だった地は、江戸時代には古河城が置かれ、古河藩主土井家の居城になっていましたが、明治時代に渡良瀬川の拡張工事で消滅! 博物館で見た模型では、川べりに浮かぶ船のような城で、なんとまぁもったいない。残っていたら、古河市は間違いなく有名な観光地になっていたろうに…。
kogajouka
古河の武家屋敷跡

 古河城の南には、鴻巣館とよばれる古河公方のもう一つの館跡が残っています。こちらは池や堀、土塁も残っていて、時代を彷彿とさせます。江戸時代初期に義氏の娘・氏姫と、その子・義親まで住み、その後は下野喜連川へ移ったため、館は廃されました。同じ敷地の中に、ひっそりと最後の古河公方・足利義氏のお墓があります。
鴻巣館
鴻巣館と堀

yosiujihaka
伝足利義氏墓(芳春院)

 少し南には、古河公方・足利晴氏建立の菩提寺・永仙院があります。。。が、お寺はすでになく、墓が数基残っているだけの、たいへんサミシイ状態です。かつては公方の菩提寺として栄えていた寺院が、いまや塀すらない状況でした。
eiseninato
永仙院跡と参道

 かつての城下町ということもあってか、勢然とした街並みにきれいに区分けされた道路がけっこう印象的なマチでした。

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更新日記

更新日記

●千葉一族の堤氏、澤田氏、文殊寺氏、橋本氏を追加しました。
 彼らは薩摩国に繁栄した千葉一族ですが、その祖は上総権介秀胤とされています。秀胤一族は宝治合戦(1247)によって滅んでいますが、彼の一族の幼児、乳児等は助命されていることが『吾妻鏡』に見ることができます。そのうちの一人が薩摩国へ下向したとも考えられますが、そのあたりの経緯は不明。

●高望王の母について
 三つの説があり、それぞれを系譜に記載。
(1)右京大夫藤原是緒女
(2)武蔵守橘春成女
(3)仲野親王女

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更新日記

更新日記

●平良文の子孫の秩父党解説、秩父氏、河越氏を新設しました。
 河越氏は秩父党の惣領家で、武蔵国留守所惣検校職を歴任しています。

●千葉一族の牧氏、賦馬氏、戸張氏に加筆しました。
 牧氏は薩摩国に移り住んだ千葉一族。永享年中、大覚寺大僧正義昭(足利義満の子)が将軍家内の争いのなかで自害したのち、島津家に出仕したといわれています。それまでは義昭に仕えていたのでしょう。

●上総氏に加筆。
 千葉介胤正の次男・境平次常秀は、一説には兄の成胤をしのぐ勢力を持ったという見方もされていますが、成胤は惣領権を一族に行使していることや、幕府内での扱いの差から見ても、成胤と常秀の間には、その格に歴然たる差が存在していたと推測されます。また、常秀は確かに成胤の死後、幼少の惣領家をしのぐ官途を持つようになってはいますが、その勢力の伸張についても、決して千葉惣領家に対する敵対ではなく、惣領家を支える一支族としての勢力拡大であり、惣領家と常秀家の間に軋轢を見ることはできません。

 北条家は有力御家人に対し、現実的な「実」と古来からの「名」を分離する政策を採っていたことがうかがえ、しかも「実」の下に「名」を置く傾向が見られます。千葉氏については、兄・千葉介成胤の流れが「実」の千葉氏家督、弟・境常秀の流れが「名」の上総介(もともと房総平氏の惣領家が冠していた)となっています。こういった例は、ほかにも三浦党(兄が佐原三浦家、弟が三浦介家)、秩父党(兄が河越氏家督、弟が留守所惣検校職)にもはっきりと見ることができます。

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更新日記

更新日記
●三浦氏に追加

 三浦惣領家に三浦介頼盛、三浦介時明、三浦介時継、三浦介高継を追加しました。

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更新日記

更新日記。

●相馬胤綱の項目に加筆。
・安達氏の祖・藤九郎盛長について

 安達氏の歴史が歴史に現れるのは、平家が各国の源氏に対して追討の命を下したことに、治承4(1180)年6月24日、源頼朝が「累代御家人等」を召集せしめた際の「御使」として北条を発った「藤九郎盛長」がはじまりです(『吾妻鏡』)。
 盛長は頼朝の傍近くに仕えていた人物であったことがうかがえ、相当な信頼を得ており、その後も重要な用事の使者として各地に派遣されています。

 一説には盛長は、武蔵国の有力な豪族・足立氏の一族ともされていますが、それは伝承に過ぎません。盛長が「足立」「安達」を称したことが確認できるのは、建久10(1199)年10月27日の「足立籐九郎入道」、翌28日の梶原景時の弾劾連判に見える「安達藤九郎盛長入道」のみです(『吾妻鏡』)。盛長が「安達」を称したのは、奥州藤原氏を追討したのちに功績によって安達郡を与えられたためともされていますが、それ以前の盛長は「名字」はなく「藤原」を称していたのでしょう。

 盛長はもともと三河国に所縁のある人物で、熱田大宮司家(頼朝母方の家)を通じて京都に出仕、頼朝や比企尼ゆかりの人物と交流を持つことによって頼朝に出仕するようになったとするほうが自然で、盛長と同じく頼朝の側近であった「藤判官代邦通」は「洛陽放遊客也、有因縁、盛長依挙申、候武衛」とあるように、京都の下級官吏だった藤原邦通と盛長は「因縁」があり、その縁によって盛長が邦通を頼朝に推挙しています。「因縁」とは具体的には記載はありませんが、京都での同僚、または血縁という可能性も考えられます。

 また、盛長の妻となった女性は、頼朝の乳母・比企尼の娘で、二条院に出仕の丹後内侍という女性でした。この二条院に女房として出仕していたのが、平家に反乱を起こした源三位頼政入道の娘であり、盛長の京都との深い関わりも、配流中の頼朝に側近として重用された一因だったのでしょう。

○詳細はこちら→http://hamuzo001.web.infoseek.co.jp/miurasoryo5.htm#adati

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更新日記

更新日記
●東氏に追記。
 東胤行は一説に藤原為家の娘婿とされているものの、その傍証は残念ながらありません。ただ、為家の父・藤原定家の日記『明月記』には、貞永2(1233)年2月7日に「東乃中務尉と云武士」が藤原定家の屋敷を訪れたことが記されています。これは東中務丞胤行のことですが、胤行は定家と深い親交があった歌人・但馬守源家長の手紙を持ってきており、胤行が定家と交流を持ちたがっていたことがわかります。定家はこのとき腰痛で寝込んでいたため対面する事はできませんでしたが、胤行の手筆や歌の体裁が「九條大納言(定家の庇護者だった九条兼実か)」に似ていると評価しています。

 ただし、胤行と定家はこのときまだ顔を合わせたことがないことがこの日記の内容からうかがえますので、定家の子である為家はもちろん、その為家の娘と結婚していたとは思われません。ということは、このころすでに誕生していたと思われる東六郎行氏は、おそらく為家娘所生ではないと推測されます。

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更新日記

更新日記。

●千葉宗家に追記。
千葉介成胤が大蔵御所侍の再建を命じられ、一族を催してその工事を行ったことを追記。成胤が惣領権を行使していたことがうかがえます。

●武蔵千葉氏の千葉実胤に追記。
 千葉実胤は、古河公方と結ぶ原胤房によって千田庄に滅ぼされた千葉胤賢の子ですが、弟の自胤とともに上杉家の支援を受けて武蔵国で再起を図り、実胤は石浜(台東区橋場)に、自胤は赤塚(板橋区赤塚)にそれぞれ配置されたと伝わっています。実胤は扇谷上杉家の「縁者」でしたが、貧困などの理由によって隠遁し、弟の自胤が取り立てられたようです。その後、実胤は復帰しましたが、扇谷上杉家ではなく山内上杉家に接近したようで、山内上杉家の重臣・大石氏の居城、葛西へ移りました。自胤が扇谷上杉家を背景に家督を継いでいたからかもしれません。実胤は敵対していた古河公方を通じて、下総千葉氏の家督を狙いましたが、千葉介孝胤の横槍で失敗。落胆のあまりか、再び隠遁して美濃国へ落ち延びてしまったようです。

●平良文の末裔、三浦惣領家を新設
 ずいぶん長い間ほったらかしになっていた三浦氏について、一新して掲載。良文の末裔の豪族たち(秩父党、中村党、三浦党、鎌倉党)について今後、随時更新予定。

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